中央若い女性会長会第一顧問
この地上での生涯は、永遠という視点から見ればほんの短いものですが、そこには大きな意味があります。それはまさに、私たちに与えられた「機会の日」です。これをうまく生かすなら、思いもよらなかったような機会が与えられるでしょう。
今日ここに来てくださりありがとうございます。今、皆さんの助けとなることをお話しすることに重みを感じています。今日は、私の心からのメッセージを分かち合いたいと思います。そして、私自身を支えてくれた幾つかのことについてお話しします。まずは、一つの話から始めましょう。
私はプロボで育ちましたが、高校3年生になる直前に、家族でペンシルベニア州ハリスバーグへ引っ越しました。当時の預言者であったスペンサー・W・キンボール大管長が父を伝道部会長として召されたため、家族で荷物をまとめ、新しい地へ向かいました。
その後、大学1年生としてプロボに戻ったとき、私は一人でした。家族と離れ、新入生として初めてBYUキャンパスを見ることになりました。寮に入ったとき、知っている人は一人もいませんでした。
高校時代も孤独を感じていましたが、今度こそこの機会を新たな出発にしようと決意しました。兄は私に、毎日新しく三人の名前を覚え、会ったら必ず名前で呼ぶようにというチャレンジを与えてくれました。私は、自分の殻を破るような奉仕の機会に進んで挑戦しました。もちろん、人と話すことさえ、私にとっては勇気のいることでした。しかし、ほかの人に目を向けるとき、私はより幸せになれるということを学びました。ここBYUで、日曜日の朝ベッドから起き上がり、教会に出席する中で、聖約を守ることの喜びを見いだしました。そして、時間の価値を学びました。
皆さんは今、期末試験の時期だと思います。時間はとても貴重で、そのことに不安を感じているかもしれません。正直に言うと、私は今でも、期末試験の週に再び学校に通っていて、一学期の間まったく授業に出ていなかった、という悪夢を繰り返し見ることがあります。しかも夢の中では、期末試験直前の最後の授業に出席しようとしても、教室がどこにあるのかさえ思い出せないのです。自分がやると決めたことを終えるには、時間が足りないかもしれないと気づいたときの、あの恐れやパニックの気持ち――それは、だれもが共感できるものではないでしょうか。
パニックといえば、テストセンターに入ったときのことを思い出します。準備不足だと分かっていながら、もうどうすることもできないと感じ、重い気持ちで中に入ったこともありました。一方で、静かな自信を抱いていたときもあります。必要な努力をし、試験範囲をしっかり理解しているという確信があったのです。
この人生は、テストセンターのようなものです。ときには、人生において正誤問題のような試練が与えられることがあります。何が正しく何が間違っているかがはっきりしている、真理を問われる瞬間です。そのようなときには、立ち上がってください。背筋を伸ばし、勇気をもって選んでください。しかし多くの場合、日常生活は複数の選択肢がある選択問題のようです。しかも、まるで教授が私たちをひっかけようとしているのではないかと思えるような問題です。Aでしょうか。Bでしょうか。Cでしょうか。AとCでしょうか。それとも全部でしょうか。あるいは、どれでもないのでしょうか。どの選択肢も良いものに思えるかもしれません。けれども、この瞬間の自分にとっては正しくない場合もあるのです。勉強するべきでしょうか。それとも神殿に行くべきでしょうか。フランス語を専攻するべきでしょうか。それとも哲学でしょうか。このような人生の選択問題、時間の使い方に関する決断などには、知恵とより深い理解が求められます。だからこそ、それらは学校の教師によって、そして私たちの魂の偉大な教師であり精錬者であられる御方によって与えられるのです。
アミュレクは次のように教えました。「現世は人が神にお会いする用意をする時期である。まことに、現世の生涯は、人が各自の務めを果たす時期である。」
時間を賢く使うことは、単に自制心や意志の力を強めることでも、最新の手帳や時間管理アプリを活用して整理や優先順位づけをすることでもありません。時間という賜物――新しい一日という贈り物――を理解するとき、私たちは本当の変化を遂げることができます。
何年も前、トーマス・S・モンソン大管長の説教を聞き、私は時間に対する考え方が大きく変わりました。大管長は、与えられた機会を最大限に生かすことについて語り、こう警告されました。
「“先延ばしという老人” が巧みに、そして注意深く差し出す誘惑と、やがて訪れる罠から身を遠ざけなさい。」二世紀前、エドワード・ヤングは「先延ばしは時間の盗人である」と言いました。しかし実際には、先延ばしはそれ以上のものです。それは私たちの自尊心を奪います。私たちを絶えず責め立て、楽しみを台無しにします。そして、抱いている願いや希望を十分に実現する機会を奪うのです。だからこそ私たちは、はっと我に返り、確信をもってこう宣言するのです。「今日は私に与えられた機会の日だ。私はそれを無駄にはしない。」
この最後の一文は、私の思いと心に深く刻まれました。私はその言葉――「今日は私に与えられた機会の日だ。私はそれを無駄にはしない。」――を印刷して、冷蔵庫に貼りました。毎日が賜物であり、与えられた時間と才能をどのように用いるかという選択こそが、日々神にささげる私からの贈り物なのだということを、忘れないためです。冷蔵庫に行くたびに、自分が機会を無駄にしないと決意したことを思い出しました。
今、こうして皆さんを見渡すと、一生懸命努力を重ね、この大学に集っている優秀な若い男性と若い女性の姿が目に入ります。この大学は、世界水準の教育を提供するだけでなく、「完全を目指し、永遠の命を求める個人を助ける」ことを目的としています。まさに今日という日は、皆さんにとっての「機会の日」なのです。
1890年代、ヴィルフレド・パレートというイタリアの経済学者は、自国の富の80パーセントが、人口のわずか20パーセントに集中していることに気づきました。この発見は、人生のさまざまな分野に当てはまる一つの理論へと発展しました。それは「80対20の法則」あるいは「重要な少数の法則」と呼ばれています。私たちの成功の80パーセントは、活動のうちのわずか20パーセントから生まれる、という考え方です。
例えば、マイクロソフト社では、最も多く報告されている上位20パーセントのバグを修正することで、システムのエラーやクラッシュの80パーセントが解消されることが分かりました。ビジネスの世界では、20パーセントの顧客が80パーセントの収益を生み出す、とよく言われます。スポーツにおいても同様で、15パーセントの選手が全体の勝利の85パーセントに貢献し、残りの85パーセントの選手は15パーセントの勝利に関わる、と言われることがあります。
この原則は、コンピューターや顧客、スポーツに当てはめると興味深いものですが、人生において理解することはさらに重要です。私たちの進歩の大部分は、ほんのいくつかの重要な事柄から生まれます。私は以前、「より多くなることは、必ずしもより多くすることを意味しない」と申し上げました。忙しさの罠に陥り、人生の目標にほとんど寄与しない活動に時間を費やしながら、本当に価値があり重要な上位10パーセント、あるいは20パーセントの事柄を先延ばしにしてしまうのは、実に簡単なことです。
最近の総大会で、ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように述べられました。「どうか祈りの気持ちで、自分の時間の使い方を見つめ直してください。」せっかく与えられた機会の日を無駄にしないために必要なのは、単に速く進むことではありません。正しい方向へ進むこと――成功を左右する「重要な少数」に焦点を合わせることです。では、何に焦点を当てるべきでしょうか。
何年も前、私のワードのベンという素晴らしい若者の葬儀で、ジェフリー・R・ホランド長老のお話を聞きました。ベンについて語る中で、ホランド長老は、新たな機会として与えられる一日において何が最も大切かを思い起こさせてくださいました。ホランド長老は、愛する人の死に直面するとき、人生における「ごくわずかな大切なこと」について学ぶことができると教えてくださいました。
葬儀に参列することの一つの恵みは、この世が私たちの永遠の住まいではないということを強く思い起こさせてくれることです。この部屋にいる誰一人として、ここが最終的な故郷だと考えるべきではありません。私たちはここに永遠にとどまるために来たのではありませんし、そうする人もいません。私たちは時に、この世が故郷であるかのように生き、考え、行動してしまいます。物質的なこと、時間的なこと、あるいは社会的な達成こそが人生のすべてであるかのように思ってしまうのです。
この世での行いと達成は重要です。それらは価値あるものです。その最善のものは神様からの賜物です。私たちはすばらしい世界に生きています。それは確かにすばらしい場所です。しかしそれは最終の目的地ではなく、通過点なのです。私は、次の段階へ進む備えについて、何に時間を使うべきかについて、どこに焦点を置くべきかについて、そしてここが日の栄の王国ではなく星の栄の王国であることを忘れてはならないということについて、ベンが残してくれた教訓を大切にしています。ベンは、前者を用いて後者に備えるべきだと教えてくれました。
突き詰めて考えると、この世から携えていけるものはそれほど多くありません。葬儀は、そのことをすぐに思い起こさせてくれます。. . .私の理解する限り、持っていけるものは三つです。
第一に、人格です。それには、学んだこと、行ってきたこと――すなわち、どのような人になったかが含まれます。人格を築くことは、私たちがここにいる目的の一つです。
第二に、福音の儀式です。
そして儀式があるからこそ、第三に、私たちが携えていきたいと祈り、計画し、心から望むもの――それは家族です。
人格、儀式、そして家族関係――この三つが、私にとっての「ごくわずかな重要なこと」、すなわち最も大切な時間とエネルギーを注ぐべきものとなりました。そして、この言葉を冷蔵庫の目立つ場所に貼り、常に思い起こせるようにしました。
そこで、人生と死についてのホランド長老の助言から学び、人格、儀式と聖約、そして家族関係に焦点を当てることについてお話ししたいと思います。この三つは、終わることのない「やることリスト」の中で優先されるべきものであり、本当に大切なことから私たちの気をそらすものを減らし、この地上での機会を無駄にしないように促してくれます。
さて、その前に一つお願いがあります。これらのことについて話を聞くとき、御霊とともに耳を傾けるなら、必ず与えられるであろう促しにぜひ気づいてください。では先に進む前に、短いお話を一つご紹介します。甥のマッケイがまだ幼かったころのことです。おもちゃで遊んでいて、部屋をすっかり散らかしてしまいました。兄はマッケイに片づけるように言いましたが、様子を見に行くたびに、遊んでばかりで、まったく片づけていませんでした。父親はだんだんいら立ってきており、マッケイもそれに気づいていました。
ついに兄はマッケイに、「一度立ち止まって、自分にこう聞いてごらん。『今、何をすべきかな?』」と言いました。
マッケイは少し考えてから、こう言いました。「お父さん、聞いて。
これは聖霊なんだ。そして聖霊がこう言ってる――『マッケイ、何もしなくていいよ。』」
私は、真剣な思いで、どのようにすれば弟子としてさらに成長できるのか、また天の御父が望まれる方法で自分の時間や才能をどのように用いるべきかを尋ねるならば、聖霊は必ず「何かをしなさい」と教えてくださるという証を持っています。ですから、よく耳を傾け、何か行動する決意をしてください。
人格
まず、人格についてです。神は私たちにさまざまな経験をお与えになり、それを通してより神に似た人格を築くよう望んでおられます。そして、イスラエルを集め、人々が永遠の命を受けられるよう助ける御業に、私たちを招いておられます。それはとても大きな目標ですが、その助けはしばしば小さな形で与えられます。
何年も前のある日曜日の夜、寝る準備をしていたときのことを思い出します。私は疲れ切っていて、落ち込んでいました。子どもたちはまだみんな幼く、夫のボイドは仕事で忙しいうえ、このキャンパスでビショップとして奉仕していました。週のほとんど、彼は家におらず、日曜日も朝早くから夕食の時間まで――運がよければ夕食には間に合う、という状況でした。私は毎週、ハリス・ファイン・アーツ・センターでの集会に子どもたちを連れて行っていました。聖餐会はとても静かな雰囲気でした。私はというと、子どもたちが集会の雰囲気を乱さないよう、ずっと気を配り、何とか静かにさせることに精一杯でした。言うまでもなく、説教から得られるものはほとんどありませんでした。その後、私たちは急いで家に帰り、自分たちのワードのプライマリーに出席しました。
私は日曜日を特別な日にしたいと思っていました――子どもたちが御霊を感じ、一緒に福音を学ぶ日、尊敬している女性たちが語っていたような安息日にしたかったのです。けれども実際には、けんかの仲裁をし、散らかったものを片づけ、台所で働き、子どもたちの相手をしながら、ボイドがいつ帰ってくるのかと時計ばかり見ていることがほとんどでした。日曜日は、休息と霊的な回復の日とは程遠いものでした。
ボイドに与えられている機会を私はうれしく思っていましたし、家族が祝福されていることも分かっていました。
それでも、彼が霊的に成長していく一方で、自分は後退している――しかも急速に――と感じずにはいられませんでした。ただ形だけこなしていて、何の実りも得ていないように感じていたのです。
ベッドに倒れ込んだとき、聖文を読んでいなかったことに気づきました。正直なところ、読む気力もありませんでした。疲れていて、少し自分を哀れに思っていたのです。それでも罪悪感を覚え、起き上がって聖文を開き、「一節だけでいい。それで今日は十分にしよう」と自分に言い聞かせました。その夜、主は私を祝福してくださいました。開いたのは、今ではとても大好きな聖句となった、教義と聖約64章33節でした。
「それゆえ、 善を行うことに疲れ果ててはならない。あなたがたは一つの大いなる業の基をすえつつあるからである。そして、小さなことから大いなることが生じるのである。」
その聖句を読んだときに感じた平安と光を、私は決して忘れません。御霊が私を満たし、私の心を和らげてくださいました。そして御霊は、主が語られた「大いなる業」とは、私の人生であり、私の家族でもあり得るのだと教えてくださいました――小さなことを続けていくなら、たとえ時に疲れを感じたとしても、最終的にはそれが大きな違いを生むのです。
私に託されていた幼い子どもたち、そして日々の小さな選択こそが、私にとっての「大いなる業」でした。あのときそれは、より神に似た人格を育み、自分自身と他の人々がそれを育むのを助ける機会だったのです。
皆さん一人一人に、それぞれ異なる試練があります。子どもに関して悩みを抱える人もいれば、そうでない人もいるでしょう。仕事や召し、あるいは打ち込んでいるものがある人もいれば、そうでない人もいます。配偶者との関係において試練を感じる人もいれば、配偶者がいないことに試練を感じる人もいるでしょう。皆さんの前に広がる道は、BYUに至るまでの道のりと同じように、多様です。
しかし、一つだけはっきりと約束できることがあります。それがどのようなものであれ、これから皆さんの前にある大いなる業において、神は必ず皆さんと共にいてくださるということです。価値ある目標には、必ず多くの努力と疲れ、そして善を行い続けることが求められます。休んだり立ち止まったりするほうが楽に思えるときでも、前に進み続ける必要があります。
そして、おそらく間違いなく言えるのは、皆さんの成功の扉は「小さな蝶番」で動くということです。それは、祈りと忍耐の習慣、聖文に向き合うこと、そして静かな細い声に耳を傾けることです。その小さな声に従うなら、皆さんの人生において本当に偉大なことがもたらされます。聖霊の影響は皆さんの人格を変え、どのような道を歩むことになったとしても、この「機会の時」を無駄にしていないことに気づくでしょう。
儀式
ホランド長老は、人生から持ち帰る二つ目に重要なものは「聖約」であると教えました。私は、福音の儀式と聖約は、愛に満ちた天の御父からの賜物であると信じています。それらはサタンに対抗する力となり、霊的な力をもたらしてくれます。聖約は、私たちの人生に計り知れない影響を与えます。
ラッセル・M・ネルソン大管長が、神殿を優先するよう強く勧めておられるのもそのためです。4月にいくつかの神殿が発表された際、大管長は次のように語られました。
ネルソン大管長は次のように言いました。’これらの神殿の建設は皆さんの人生を変えることはないかもしれませんが、神殿で過ごす皆さんの時間は確かに人生を変えてくれます。’そのことを念頭に置いてもっと多くの時間を神殿で過ごすために、何を脇に置くべきかが分かるよう、皆さんを祝福します。
神聖な儀式を受け、聖約を交わし、また更新する時間を持つことは、私たちの生活のあらゆる面を祝福します。私たちは「主の算数」を信じることができます。すなわち、儀式と聖約を優先するとき、主は私たちの努力を増し加え、大いなるものとしてくださるのです。
今の皆さんの人生には、自分ではコントロールできないことがたくさんあります。好意を寄せている相手が自分を好きになってくれないように感じるときや、強く望んでいた仕事やインターンシップを得られないとき、家庭の状況が理想とは言えないとき、あるいは心身の健康に課題を抱えるとき――そうしたことを、常に自分でコントロールできるわけではありません。
しかし、確実に自分でコントロールできることがあります。それは、福音の儀式にあずかるかどうか、そして聖約をどのように守るかです。そして、それらの儀式を通して、「神の力」が皆さんに現されることを実感するようになるでしょう。
家族関係
最後に、ホランド長老は、私たちは家族関係を次の世に持って行くと教えています。これはまさに、私たちが意識して大切にすべき「ごくわずかな重要なこと」の一つです。
ある朝、アルマ書32章を読んでいたとき、思いがけない気づきが与えられました。ちょうど家族の中で少し緊張を感じていた時期だったからかもしれません。普段は信仰についての文脈で読んでいる節が、家族関係にも当てはまるように感じられたのです。そこで、アルマが「木」と書いているところを、「人間関係」と置き換えて考えてみました。
そして見よ、木が生長し始めると、あなたがたは、『この木が根付き、生長し、わたしたちのために実を結ぶように、十分に注意して養いを与えよう』と言うであろう。さて見よ、あなたがたが十分に注意して養いを与えれば、それは根付き、生長し、実を結ぶであろう。
しかし、もしあなたがたがその木に構わず、養い育てることに心を配らなければ、見よ、それが根付くことはないであろう
さてこれは、種が良くなかったからでもなければ、実が好ましいものでなかったからでもない。あなたがたがその木に養いを与えようとしないので、実を得ることができないのである。」9
では、どのようにして人間関係を育てればよいのでしょうか。それは、信仰や人格を育てるのと同じです――すなわち、大いなる勤勉さと忍耐をもって育てるのです。家族関係を大切に育んでいれば、困難なことが起こるとき――そして実際に起こるのですが――そのような時にも耐え抜き、愛に満ちた家族関係がもたらす実りを受け続けることができるでしょう。
ディーター・F・ウークトドルフ長老は次のように言いました。家族関係において、愛とは実は時間なのです。
私は昨年10月の総大会で、この原則についてお話ししました。最近、オレゴン州セーラムに住む教会員で、6人の子どもの母であるヘイリーさんからメールをいただきました。彼女はこの教訓を自ら学んだのです。彼女はこう言いました。
「昨夜、小学校での数日にわたる手伝い、タイヤのパンク、医師の診察、放射線科での検査、そして病気の子どものための救急外来受診という長い一日を終えて家に帰ると、流し台には食器が山積みで、家の中は生活のもので散らかっていました。私は疲れ切っていて……正直なところ、シャワーを浴びてそのままベッドに入りたい気分でした。
台所を片づけようとしていると、7歳の息子がやって来て、『地下室に一緒に来て、おもちゃを探すのを手伝ってくれる?』と頼んできました。そのとき最初に思ったのは、『とにかくキッチンを片づけて、邪魔されずに子どもたちを寝かせたい』ということでした。それでも彼はもう一度、手伝ってほしいとお願いしてきました。
そのとき、総大会でのあなたの話を思い出したのです。『促しを感じたときには、流し台の食器や、対応を求めるたくさんの課題を一旦脇に置いて、子どもに本を読んだり、友人を訪ねたり、近所の子どもを預かったり、神殿で奉仕したりすることができます(私の付け加え:あるいは子どものおもちゃ探しを手伝うことも)。私たちは人を「邪魔な存在」ではなく、「人生の目的そのもの」として見ることができるのです。』
私は、こちらを見上げている息子を見て、それから山積みの食器と散らかったカウンターを見て、こう声に出して言いました。
『食器は、ちょっと待っててね。』
そして一緒に地下室へ降りていくと、息子のアンドリューがこう言いました。『ママ、お皿よりぼくのほうが大事なんだよね?』
私は迷わず、『もちろんよ!』と答えました。
そして今朝、学校の宿題を手伝いながら、『アンドリュー、ママはあなたを愛してるよ』と言うと、彼はこう答えました。
『うん、ママはお皿よりぼくのことが好きだもんね。』
それが、私たち家族の新しい“子育ての合言葉”になりました。『あなたのほうが、お皿より大事よ』(あるいは、やることリストにある他のどんなことよりも)。」
ヘイリーさんは、私にとって素晴らしい模範です。彼女は、一日一日が天の御父からの贈り物であることを知っているのです。
皆さんが同じような状況に直面するとは限りません。皆さんの試練は、流し台の食器やおもちゃとは違うかもしれません。しかし今日も、そして今週も、誰かを励まし、支え、癒す機会が与えられるでしょう。癒しや励まし、贖いをもたらす人間関係を築くことができるのです。
どのような試練の中にあっても、顔を上げて周りの人々に目を向けてください。汚れた食器や、終わらせるべき課題、読むべき章、受けるべき試験だけに目を奪われないでください。皆さんの周りで助けを必要としている人に気づいてください。
好きな番組を見ることよりも、きょうだいを大切にすることで、愛を示すことができます。自分が正しいことにこだわるよりも、ルームメイトの気持ちを思いやることで、思いやりを示すことができます。ワードの人々に対する関心が本物であり、愛情が偽りではないことを示すこともできるのです。そのとき皆さんは、この地上での時間を無駄にしていないこと、そして神の子供たちを高めるという神の大いなる業に加わっていることを実感するようになるでしょう。
最後に
この地上での生涯は、永遠という視点から見ればほんの短いものですが、そこには大きな意味があります。それはまさに、私たちに与えられた「機会の日」です。これをよく用いるなら、思いもよらなかったような機会が与えられるでしょう。
私たち一人一人が、自分の時間とエネルギーの使い方について意識的であることができますようにと祈っています。「些細な多くのこと」ではなく、「ごくわずかな重要なこと」に時間を使うなら、この世だけでなく来世においても、幸福と平安がもたらされます。
この新たな出発の時にあたり、気を散らすものを避け、人格を磨き、イエス・キリストへの信仰を深め、儀式と聖約を大切にし、愛ある人間関係を育み、周りの人々を助けることに、改めて心を向けていきましょう。
これはキリストの教会です。そして、バプテスマを受けた私たちは、御名を受けています。このクリスマスの季節だけでなく、常にその御名にふさわしく行動することができますように――これが私の祈りです。イエスキリストの御名によって申し上げます、アーメン。
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2018年12月11日、末日聖徒イエス・キリスト中央若い女性会長会第一顧問であるミッシェル・D・クレーグ、このディボーショナルをしました。