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ディボーショナル

「わたしたちの日ごとの食物を、今日もお与えください」

十二使徒定員会

2011年1月9日

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日ごとの食物を天の御父に願い求めなさいという主の勧めから、神が御自身の子供たちの日常的なささいな必要までも御存じで、一人一人を助けたいと願っており、愛にあふれた御方であられることが分かります。

必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。

親や教会の指導者、教授や友人を含めて、私たち高齢者は、将来の計画を立てるよう皆さんに忠告することが多いです。これからの人生に備えて、教育や職業訓練を追求するように勧めます。結婚と家族の土台を築き、その計画に従って行動するよう強く勧めます。今日の行いについて決断をするとき(たとえば、インターネットに何を掲載するか)、その決断により将来起こり得る結果について考えるように忠告します。人生の成功をどのように測るかを考え、その成功につながるパターンと行動を確立するように助言します。

これらはすべて、賢明な人生の歩みを表しています。今夜私が話すことは、前もって考え、計画することの重要性を軽視するものでは決してありません。思慮深い計画と準備は、実りある未来への鍵ですが、私たちは未来に生きているのではなく、現在に生きています。わたしたちは日々、将来の計画を立て、目標を達成するのです。わたしたちは一日ずつ、家族を養います。一日ずつ、不完全さを克服します。私たちは一日一日、最後まで信仰をもって耐え忍びます。良い生活がたくさん積み重なって、充実した人生となり、聖人ができあがるのです。ですから、日々正しく生きることについてお話ししたいと思います。

毎日必要なものを神に頼る

ルカによる福音書には、弟子の一人がイエスに次のように願ったと記されています。「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」(ルカ11:1)。イエスはその後、祈りの手本を示されました。それは「主の祈り」として知られています。同じことが山上の垂訓の一部としてマタイにも記録されています(マタイ6:9-13参照)。

主の祈りの中には、「 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」(マタイ6:11)または「わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください」(ルカ11:3)という願いがあります。どのような日でも,わたしたちには必要なことがあり,それを得るために天の御父の助けを望んでいます。中には文字どおりの食物,すなわちその日を生き抜くための食物を必要としている人がいるかもしれません。慢性の病気や長期のつらいリハビリにもう1日耐えるための霊の強さや体力を求める人もいるでしょう。その日の責任や活動に関することなど,形として見えない必要を抱えている人もいるでしょう。例えば,レッスンを教えることや試験を受けることがこれに相当します。

イエスは,弟子であるわたしたちに,その日に必要な食物,すなわち助けや支えを得られるよう神に頼るべきであると教えておられます。これは、

「気を落とさずに常に祈らなければならない。そして、主があなたがたの行うことを神聖にしてくださり、あなたがたの行うことが自分自身に幸いをもたらすものとなるように、キリストの名によってまず御父に祈らずには、主のためにどんなことも行なってはならない」という教えと一致します。[2 ニーファイ 32:9]

日ごとの食物を天の御父に願い求めなさいという主の勧めから、神が御自身の子供たちの日常的なささいな必要までも御存じで、一人一人を助けたいと願っており、愛にあふれた御方であられることが分かります。主は、「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える」御方に信仰をもって尋ね求めれば「与えられるであろう」と述べておられます(ヤコブの手紙1:5)。大いなる安心を与えてくれる言葉ですが,この教えにはある原則があります。それは一日一日を何とか過ごすための助け以上のものです。神に日ごとの食物を求め、頂くことで、神と御子に対するわたしたちの信仰と信頼が強まるのです。

私たちのニーズのために毎日神を仰ぎ見ることは信仰を育む

イスラエルの部族が大挙してエジプトを離れてから約束の地に入るまで、荒れ野で40年間過ごしたことを思い出してください。100万をはるかに超える大群衆が食物を必要としていました。一か所にこれほど大勢の人がいるのですから,狩りで獣をとるだけでは足りませんし,常に移住を伴う生活のため十分な量の農作物や家畜を育てるわけにもいきません。エホバは天から日ごとの食物を,すなわちマナを与えるという奇跡によって問題を解決されました。毎朝地面に現れるこの小さな食用物質は、まったく新しく未知のものでした。実際、マナという名は、「それは何ですか?」という意味の言葉に由来しています。主はモーセを通して民に,その日に必要な分だけを集めるように命じられました。ただし,安息日の前日は2日分集めることになっていました。

最初は、モーセがはっきりと指示したにもかかわらず,1日分以上集めて余りを蓄えようとした人々がいました。

モーセは彼らに言いました、「だれも朝までそれを残しておいてはならない」。

しかし彼らはモーセに聞き従わないで、ある者は朝までそれを残しておいたのですが、虫がついて臭くなりました[出エジプト記 16:19–20]

しかし,約束どおり6日目に普段の2倍の量のマナを集めたときは腐りませんで

した。

「彼らはモーセの命じたように、それを朝まで保存したが、臭くならず、また虫もつかなかった。

モーセは言った、『きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。

六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう』」。[出エジプト記 16:24–26]

しかし、目で見て確かめなければ信じられない人々は,再び安息日にマナを集めに行きました。

「そこで主はモーセに言われた、『あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法を守ることを拒むのか。

見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに六日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜わるのである。おのおの その所にとどまり、七日目にはその所から出てはならない』」。[出エジプト記 16:28–29]

現在のように、古代でも安息日に買い物をすることに抵抗できない人がいたようです。

エホバは1日分の食べ物を日ごとに与えることにより,約400年の時の流れの中で先祖の信仰をほとんど失いかけていた国民に,信仰について教えようとされていました。主を信頼するよう教えておられ、「あらゆる思いの中でわたしを仰ぎ見なさい。疑ってはならない。恐れてはならない」と教えておられました。(教義と聖約6:36)。主は一度に1日分の十分な量を提供していました。6日目を除いて、彼らは次の日に使用するためにマナを保管することができませんでした。つまり、イスラエルの民は一日を主とともに歩み、翌日分の食べ物は主が翌日に用意してくださると信頼しなければならなかったということです。このようにして、主は民の思いと心が主から遠く離れないようにされたのです。

ちなみに、40年間のマナはずっと無料の施しになるはずではなかったことに注意する必要があります。イスラエルの部族は自力で食糧を用意できるようになると、自分で食物を得なければならなくなりました。彼らがヨルダン川を渡り、エリコから始めてカナンの征服を始める備えをした後、聖文は次のように記録しています。

「そして過越の祭の翌日、その地の穀物…を、その日に食べた。

その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。」[ヨシュア5:11-12]

同様に、わたしたちも、自分で得られない日ごとの食物、すなわちそのときの助けを神に求めますが、自分の力の及ぶ範囲にあるものは積極的に行動して得るようにしなければなりません。

主を信頼するーー解決はやがてもたらされるかもしれない

中央幹部に召される少し前、わたしは数年の間、経済的な試練に直面しました。その試練は誰かの不正行為や悪意の結果から生じたものではありません。それは私たちの生活に時々入ってくるものの1つにすぎませんでした。深刻で一刻の猶予もないというときもあれば、多少状況が改善されるときもありました。しかし完全に解決することはありませんでした。時には、わたしと家族の生活が脅かされることもあり、破産の文字が頭に浮かんだこともありました。奇跡的な助けによって問題から解放されるようにと祈りました。そのように誠心誠意、熱心に繰り返し祈りましたが、最終的な返事は「いいえ」でした。結局、わたしは救い主のように「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と祈ることを学びました(ルカ22:42)。わたしは主の助けを求めながら、最終的な解決までの小さな一歩一歩を進んで行ったのです。

あらゆる手を使い果たし、頼れる場所も人もないまま目の前の緊急事態に対処しなければならないときもありました。天の御父以外に頼れるものは何もなく、神の前にひれ伏し、涙ながらに助けを懇願したことが何度もありました。すると御父はほんとうに助けてくださいました。ただ平安な気持ち、必ず何とかなるという確信だけを感じるときもありました。どのように、あるいはどのような道筋になるのか自分ではよく分からなくても、直接または間接的に主が道を開いてくださるということを主は教えてくださいました。状況が変わったり、これまでにない役立つ考えが浮かんだり、思わぬ収入やその他の手段にタイミングよく恵まれたりしました。何とか解決策を見いだすことができました。

当時は苦しい思いをしましたが、今振り返ると、問題がすぐに解決されなかったことに感謝しています。何年もの間、ほとんど毎日神に助けを求めざるを得なかったため、どのように祈り、どのように祈りの答えを受けるべきかを確かに学びました。また、神を信じる信仰を持つことを非常に実用的な方法で学びました。救い主と天の御父を非常によく知るようになりました。このような経験をしなければ、同じように,あるいはそれほどよく御二方を知ることはできなかったかもしれませんし、もっと長い時間がかかったかもしれません。わたしは日ごとの食物が貴重なものであることを学びました。聖書の時代の物質的なマナと同じように、現代のマナもあり得るということを学びました。心の底から主を信頼するようになりました。毎日毎日主とともに歩むことを学んだのです。

日毎に小さな一口ずつ大きな問題に取り組む

1週間分、1か月分、あるいは1年分の食物ではなく、その日の食物を神に願い求めるということは、問題のうちのもっと小さな、もっと対処しやすい部分に焦点を当てる一つの方法でもあります。大きなことに対処するためには、小さな日々の事柄を行う必要があるかもしれません。時には 1 日(あるいは 1 日のほんの一部だけ)ずつしか対処し切れないこともあります。実際の例を挙げましょう。

私が最近読んだ「ローンサバイバー」という本は、5年半前にアフガニスタンの遠隔地で秘密の任務に就いた米海軍シールズの4人のチームの悲劇的な物語です。

彼らが不注意から羊飼い(2人の男性と1人の少年)によって発見されたとき、これらの特別に訓練された海軍軍人は、彼らを生かせばチームの場所を明らかにし、アルカイダとタリバン軍によってすぐに攻撃されることを知って、3人を殺すか手放すかの選択をしました。危険にもかかわらず、彼らは無実の羊飼いを手放し、その後の銃撃戦では、100人をはるかに超える攻撃に合い、著者のマーカス・ラトレルだけが生き残ったのです。

著書の中で、ラトレルは、米海軍でSEALとしての資格を得るために必要な極端な訓練と持久力について語っています。たとえば、ラトレルのトレーニンググループでは、初めの164人の男性のうち、32人だけがコースを完了することができました。彼らは、冷たい海水に出入りし、水泳、パドリング、ゴムボートの運搬をし、砂の中を走り、一日に何百回もの腕立て伏せをし、障害物コースを通って丸太を運ぶなど、ほぼ絶え間ない運動に数週間耐えました。彼らはほぼ絶え間なく疲労状態にありました。

私は、上級将校が訓練の最後の最も厳しい段階を開始したときにグループに言ったことに感銘を受けました。彼はこう言いました。

「まず第一に、刹那のプレッシャーに屈してはならない。痛みがひどいときは、じっと我慢して一日を終えろ。その後、まだ気分が悪ければ、やめることを決心する前に、時間をかけてよく考えろ。第二に、一日ずつ対処すること。一度に 1 [段階] だけだ。」

「自分の思いに振り回されて暴走するな、将来のことを心配しすぎて逃げ出す計画を始めるんじゃない。先々の痛みを見ようとせずにただ一日一日を乗り切れ。そうすれば、行く手に素晴らしいキャリアが開けるんだ。」1

一般的に、何が来るのかを予測し、それに対処する準備をするのは良いことです。しかし、時には、このキャプテンの助言は賢明です。「一日ずつ対処する…先々の痛みを見用途せずにただ一日一日を乗り切れ。」何が来るのかを心配すると疲労困憊することがあります。私たちを麻痺させ、あきらめさせる可能性があります。

1950年代に私の母は癌のために大きな手術を受けました。その難しい手術の後、今ではかなり初期的と見なされる病状のために十数回の痛みを伴う放射線治療が続きました。母はそのころ、自身の母親からあることを教わりました。その言葉がずっと支えとなってきたそうです。

「具合が悪く、すっかり弱っていたわたしは母にこう言ったの。『ねえ、お母さん、あと治療が16回もあるなんて、とても耐えられない。』

母はこう言ったわ。『今日は頑張れる?』

『ええ。』

『今日は、そのことだけ考えればいいのよ。』

わたしは一度に1日だけ、あるいは一つだけがんばることを思い出した時、何度も助けられたわ。」

先のことに目を向けるべきか、あるいは今日一日や今の一瞬だけを考えるべきかは御霊が教えてくれます。尋ねるならば、主は、古代の使徒たちに与えた次の戒めをいつ私たちの生活に応用するのがふさわしいか、聖霊を通して知らせてくださいます。「だから,明日のことを思い煩ってはならない。 明日のことは明日自身が思い煩うであろう。その日はその日の苦労だけで十分である」(第3ニーファイ13:34;マタイ6:34も参照)。

神の「日ごとの食物」はわたしたちの可能性に到達するために不可欠である

日ごとの食物を神に求め、神の手から頂くことは、神を信頼し、人生の困難に耐えるうえで不可欠な役割を果たします。わたしたちはまた、自分がなるべき人物になるためにも日ごとの神の食物を必要としています。悔い改め、改善し、ついには「キリストの満ちみちた徳の高さにまで至る」(エペソ 4:13 )ことは、パウロが言ったように1歩ずつ段階を踏んで進めるものです。新しい、健全な習慣を身に付けたり、悪い習慣や依存症を克服したりするには、ほとんどの場合、今日努力して、明日も、その次の日も、あるいは何日も、何か月も、何年も、成功するまで努力を続けなければなりません。しかし、 わたしたちはそれができます。日ごとの食物、すなわち毎日必要な助けを神にお願いすることができるからです。

今は新年の抱負の季節であり、かつて大管長会の第一顧問を務めた N・ エルドン・タナー管長(1898-1982年)は 次のように述べています。

より良い業を行おうと決心することの大切さについて思い巡らすとき、どのような決心をするのか慎重に考慮し、何のために決心するかを考え、最後に、どんな障害に遭っても決心を守り抜くよう自分を律する決意をしましょう。一日の始めに、今日だけなら決心したことを守れると思うようにしましょう。これをすると、どんどん守りやすくなりいつか習慣になります。2

1年余り前、デビッド・A・ベドナー長老は、家族の祈り、聖文研究、家庭の夕べなど、簡単なことを日々一貫して続けることが健全な家族を築くのに不可欠であると話しました。小さな日々のステップで一貫した努力をすることは、弟子としての道の進歩を含め、あらゆる偉大な業を達成するための鍵となる原則です。実物を使ったレッスンとして、ベドナー長老は日々の行いを、時間をかけて芸術作品を生み出す絵の中の個々の筆使いと比較しました。彼はこう言いました。

「わたしのオフィスには麦畑の絵があります。一本一本描かれた無数の線が集まって1枚の絵になっています。どの線も1本ずつでは、面白くも心を打つわけでもありません。実際、キャンバスに近づくと、目に入るのは、何の関係も何の魅力もないような無数の線が、黄色や、金色や、茶色の絵の具で描かれているだけです。けれども、少しずつキャンバスから離れると、先ほどの線一本一本がすべて合わさって、麦畑の壮大な風景が現れるのです。

黄色や、金色や、茶色の絵の具で描いた一本一本が補い合って印象的な傑作を生み出すように、一見取るに足りないことを一貫して行うことで、意義深い霊的な実が得られるのです。「それゆえ,善を行うことに疲れ果ててはならない。 あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして,小さなことから大いなることが生じるのである。』(教義と聖約64:33)3

エズラ・タフト・ベンソン大管長は、悔い改めについてこのように勧めました。

もっともっと〔キリストに似た者に〕なろうとするとき、わたしたちは、落胆したり、 希望を失ったりしないように気をつけなければなりません。キリストに似た者になるための努力は生涯を通して続けるべきものです。また成長や変化といっても、きわめてゆっくりとしたものであり、自覚できないことが非常に多いのです。聖文には、一瞬にして人生が劇的に変わった驚くべき経験が記録されています。息子アルマ、ダマスコへの道を歩くパウロ、夜遅くまで祈るエノス、ラモーナイ王。罪に浸っている人でさえも変える力の驚くべき例は、贖罪が最も深い絶望の中にいる人々にも及ぶことができるという確信を与えてくれます。

しかし、これらの注目すべき例について話し合う際には注意が必要です。それらは現実的で強力ですが、例外でもあります。すべてのパウロ、すべてのエノス、そしてすべてのラモーナイ王に対して、悔い改めの過程がはるかに微妙で、知覚できないと感じる何百、何千もの人々がいます。日々主に近づき、神のような生活を築いているのに、ほとんど気づいていません。彼らは善良で奉仕し、献身的な静かな生活を送っています。

私たちは希望を失ってはいけません。希望は人の魂の錨です。サタンは私たちにその錨を捨てさせようとしています。このようにして、サタンは落胆と降伏をもたらすことができます。しかし、私たちは希望を失ってはなりません。主は、わたしたちのあらゆる努力、さらに主のようになるために重ねる日々の小さな努力さえ喜んでおられます。4

人々に仕えるとき、主の助けを求める

日ごとの神の食物を求めるとき、自分のことだけを考えないようにしてください。「仕えられるためではなく、仕えるため」に来られた主のようになるには (マルコ10:45)、日々ほかの人々に奉仕できるよう主の助けを求めるようになります。

トーマス・S・モンソン大管長はわたしの知っているだれよりもこの原則をよく実践しています。大管長はどの日でも、あるいは一日のどの瞬間でも、周囲の人々を助ける必要や方法があればそれを明らかにしてくださるよう心の中で神に祈り続けています。大管長がビショップを務めていたころの話から、ほんの少しの努力でも、御霊の働きと一つになって大きな実を結ぶことがあることが分かります。ハイジ・スウィントンのモンソン大管長の伝記「救助のために」から引用します。

「〔モンソン大管長が〕手を差し伸べた一人にハロルド・ギャラカー兄弟がいます。妻と子供たちは教会で活発でしたが、ハロルドはそうではありませんでした。娘のシャロンはモンソンビショップに、父親がまた活発になれるよう『何かして』もらえないか頼みました。モンソンビショップはある日、ハロルドを訪ねるべきだと感じました。暑い夏の日、彼はハロルドの家の玄関の網戸をノックしました。ハロルドがいすに座り、たばこを吸いながら新聞を読んでいるのが見えました。ハロルドはうつむいたまま不機嫌そうに答えました。『どちら様ですか。』

モンソンビショップは答えました。『ビショップ で す 。お近づきになって、ご家族と一緒に集会に出席してくださるようお勧めしようと思って来ました。』

『忙しいのでお断りします。』返答は冷ややかなものでした。ハロルドは一度も顔を上げませんでした。モンソンビショップは話を聞いてくれたことに感謝を述べて、立ち去りました。ハロルドが一度も集会に出席しないまま、その家族は引っ越しました。

何年もたった後、ギャラカー兄弟という人からトーマス・S・モンソン長老の執務室に面会を希望する電話がありました。

モンソン長老は「彼の名前がハロルド・G・ギャラカーかどうか、またビッシング・プレイス55番に住んでいて,シャロンという名前の娘がいるかどうか尋ねてください」と秘書に言いました。秘書がそうすると、ハロルドはモンソン長老がそのような詳細を覚えていることに驚きました。その後、再会した二人は抱き合いました。ハロルドはこう言いました。『何年も前のあの夏の日、いすに座ったままあなたを中にお招きしなかったことをおわびするために来ました。』教会に活発かどうかモンソン長老は聞きました。ハロルドは苦笑いをしながら答えました。『今はワードのビショップリック第二顧問をしています。教会に来るようにというあなたのお誘いと自分の否定的な返答が脳裏から離れなくて、何とかしなければと思ったのです。』」(5)

日々の選択は永遠の結果をもたらす

日ごとの食物について考えると、いつも人生の細々とした事柄、日々に起こる小さなことの大切さに気づきます。例えば、夫婦の間では、たまに盛大に、お金をかけて何かをするよりも、ちょっとした親切な行い、助け、気遣いを示し続ける方が互いの愛を維持し、夫婦関係を強めるうえではるかに効果的であることが分かっています。それは、兄弟たち、つまり結婚している皆さんの奥さんが、新品の本当にいい服や、時折、あなたが彼女についてどのように感じているかを感嘆符で表現する他の贈り物  (もちろん、あなたの惨めな予算の範囲内) に感謝しないということではありません。言葉と行動の両方で、愛情を絶えず毎日表現するほうが、長期的にははるかに意味があるというだけです。

同様に、日々の選択によって、悪い影響を避けて、それがわたしたちの生活に入ってこないように、またわたしたちの人格の一部とならないようにすることができます。何年も前、ニール・A・マックスウェル長老と私はステーク大会の際に、ある神権指導者と個人的な会話の中で、良い選択をしていればほとんどのポルノやポルノに類する画像を避けられるという話をしました。物理的にも、インターネット上でも、ほとんどの場合、問題はポルノが潜む場所に近づかないという自制心があるかどうかなのです。しかし、悲しいことにポルノがあまりに蔓延しているため、自分だけ相当に気をつけても不意に遭遇してしまうことがあるという話にもなりました。マックスウェル長老はこう語りました。「そうですね。でも、そのようなときは即座に拒絶すればよいのです。心の中に招き入れ、いすを勧める必要はありません。」ですから,ほかの影響や習慣,すなわちだらしない外見、不注意な行い、虐待的で冒涜的な言葉遣い、不親切な批判、先延ばしなど、そういうことの芽を早めに摘むように毎日気をつけていれば、ある朝、目覚めてみると、不注意のために悪や弱点が魂に根付いていることに気づくと言った事態からわたしたちを守ることができます。

実際のところ、一日の中で意味のない事柄というのはあまり多くありません。繰り返し行う平凡な事柄でさえ、ささいなように見えても、やがては自分の計画や夢を実現するために必要な規律と人格と秩序を形成する基礎となります。ですから、日ごとの食物を祈り求めるときは、不足しているものと防がないといけないものの両方の必要についてよく考えてください。寝る前に、その日に成功したことと失敗したことについて、また翌日をより良い日にするにはどうしたらよいかについて考えてくだ さい。あなたを一日中支えるために天の御父があなたの道に備えてくださったマナについて御父に感謝してください。一日を振り返ると、あなたが御父の助けを受けて何かに耐えたり、他の事柄を変えたりしたことに気づき、御父への信仰が強まるでしょう。永遠の命に向かうもう一日、もう一歩を楽しむことができるでしょう。

イエス・キリストは命のパンである

何よりも、マナが示し、象徴する御方、命のパンである方、贖い主がわたしたちとともにおられることを憶えていてください。

「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。

わたしは命のパンである。

あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。

しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。

わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは,世の命のために与えるわたしの肉である。』」[ヨハネ6:35、47–51]

命のパンであるイエス・キリストが生きておられること、そしてキリストの贖罪は無限の力があり無限の領域に及ぶことを証します。結局のところ、主の贖罪、主の恵みこそがわたしたちの日ごとの食物なのです。主の御心を行い、主が御父と一つであられるようにわたしたちも主と一つになるために(ヨハネ 17:20 – 23 参照)、毎日主を求めなければなりません。皆さんが主からそれを求めるとき、天の御父がイエス・キリストの御名により、毎日のパンを与えてくださるように祝福します。

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脚注

1.Marcus Luttrell with Patrick Robinson, Lone Survivor: The Eyewitness Account of Operation Redwing and the Lost Heroes of SEAL Team 10 (New York: Little, Brown, 2007), 124.

2.N・エルドン・タナー  「ザ・メッセージ」Just for Today,” New Era、1975年1月、5ページ

3.デビッド・A・ベドナー「家庭でもっと勤勉に家庭のことに携わる」Ensign、2009年11月号、19-20

4.エズラ・タフト・ベンソン、大管長会メッセージ―A Mighty Change of Heart、 Ensign、1989年10月、5ページ

5.Heidi S. Swinton, To the Rescue: The Biography of Thomas S. Monson (Salt Lake City: Deseret Book, 2010), 160–61.

D・トッド・クリストファーソン

このディボーショナルは2011年1月9日に行われ、その時にD・トッド・クリストファーソンは末日聖徒イエス・クリスト教会の十二使徒定員会の会員でした。