
セシル・O・サミュエルソン
末日聖徒イエス・キリスト教会七十人第一定員会
BYUのバスケットボールの試合で、フリースローが決まる度に何千人もの生徒が「ウーシュ、セシル!」と歓声を上げたことでしょう。著名な学者であり、大学長であり、中央幹部でもあるセシル・O・サミュエルソンの気取らずも熱意のある性格は、このささやかな習わしから理解できると思います。
セシル・O・サミュエルソン・ジュニアは、1941年8月1日に生まれ、ユタ州ソルトレークシティーで育ちました。セシルは、末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師としてスコットランドで奉仕し、その後ユタ大学に通いました。そこで、セシルは教育心理学の学士と修士の学位を、そして医学の学位を取得しました。
学士号の取得を目指している時に、 シャロン・ジオークにセシルは出会いました。2人は恋に落ち、感謝祭を祝う週の水曜日にソルトレーク神殿で結婚しました。いつも勤勉な学生だったセシル・O・サミュエルソンは、結び固めの儀式とその日の夜に行われた披露宴の合間に発生学の授業を受けていました。シャロンは、学業、職業、そして家庭面でセシルをいつも支えてきました。シャロンは教師としてセシルを医学大学院へ送り、それから、献身的な妻に、そして五人の子供の母親になりました。セシルは、シャロルが彼のそばに必ずいてくれて、「いばらの道に進むときや成否が問われる時」に特に傍にいてくれたと言っています。今では、五人の子供には多くの子供がいます。
医学博士号を取得後、セシル・O・サミュエルソンはノースカロライナ州ダーラムのデューク大学で研修医として勤務し、リウマチ性疾患および遺伝性疾患のフェローシップを修了しました。その後、ユタ大学に戻り、医学の教授と医学部の学部長を務めました。その後、インターマウンテンヘルスケアの主席副社長を務めました。セシルは、48の原著論文、8つの書籍または書籍の章、そして13本の抄録を執筆または共著しました。また、複数の国の医療機関や病院組織の役員やメンバーを務めました。
1994年にセシル・O・サミュエルソンの人生は大きく変わり、七十人第一定員会の一員として奉仕しました。地域会長、ステーク会長、ステーク高等評議員そして支部会長を務めた経験を通して、セシルは人生の残りを教会奉仕に捧げる備えをしました。七十人会の会員として、セシルはユタ州北地域会長そしてヨーロッパ北地域会長を務め、3年間イングランドに住みました。2011年に名誉会員の地位を与えられるまでに、七十人会長会、中央日曜学校会長を務めました。
中央幹部の召しを務めていた2003年に、サミュエルソン長老はブリガム・ヤング大学の第12代学長に就任しました。彼は、ユタ大学の赤色からBYUの青色へと鞍替えしなければならないと冗談をこぼしました。就任演説で、大学が持つ信仰に基づく環境と学術的な優秀を追い求めることのバランスを取る意思を表明しました。どちらかを犠牲にするのではなく、その両方を学生のニーズに注ぐことが不可欠だと考えました。その決意と共に、11年もの間、大学とその理念に計り知れない貢献をしました。サミュエルソン学長のメッセージは、BYUスピーチーズアーカイブの多くの話者と同様に、福音についての彼の証とブリガム・ヤング大学がこの世と霊的な可能性に到達する助けとなる彼の決意についての深い見解を示しています。
サミュエルソン学長は、学生と教職員と親しく関わり、個人やBYU全体の水準を高く保つことの重要性を語りました。彼の愛情に満ちたリーダーシップにより、大学は21世紀へと確固とした歩みを進め、逆風に耐え、押し寄せる変化を受け入れる備えもしました。2014年、セシルはBYUを離れ、ソルトレーク神殿の神殿長として主に仕えました。