この世のあらゆる暗闇と破滅のただ中にあって、イエス・キリストは世に勝たれました。さあ、喜びましょう。
無力に寝床に横たわる中風の男に、イエスは「しっかりしなさい」と宣言されました(マタイ9:2)。荒れ狂う海と格闘するおびえた使徒たちに、イエスは水の上に現れ、「しっかりするのだ」と宣言されました(マタイ14:27)。レーマン人サムエルが預言したしるしが起こらなければ、自分とほかの義にかなったニーファイ人の命が脅かされるという勝手な法律の対象となったニーファイの息子ニーファイに、主は言われました。「頭を上げて、元気を出しなさい。」(3ニーファイ1:13) 問題と危険に満ちた伝道部に二人ずつ派遣されようとしている10人の長老たちとジョセフ・スミスが会ったとき、主は「元気を出しなさい」(教義と聖約61:36)と宣言されました。いずれの場合も、人々が不安や恐れ、絶望を感じる理由は十分にありましたが、主は喜ぶべき理由へと導いてくださいました。
元気を出しなさいという主の勧告を今日の世の中で皆さんやわたしに当てはめると、どのように聞こえるでしょうか。経済の不確実性、テロリストの脅威、腐敗が夕方のトップニュースになるとき、福音の良い知らせはどこで介在するのでしょうか。様々な形で、何日も個人的な喪失を経験するとき、何か喜べることが残っているでしょうか。
活力の秘訣
この一見矛盾しているように見えるものを理解する鍵は、最後の晩餐の文脈の中に見いだすことができます。救い主は、現世で過ごす最後の瞬間にこう語られました。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)「どうして十二使徒は元気を出すことができたのでしょうか」とニール・A・マックスウェル長老は聴きました。
「想像を絶するゲツセマネの苦しみが、まさにイエスに降りかかろうとしていました。ユダの裏切りは間近に迫っていました。その後、イエスの逮捕と罪状認否が行われ、十二使徒が羊のように散らされること。救い主の非情な鞭打ち。不当な裁判。イエスの代わりにバラバを求める暴徒の甲高い叫び。そしてカルバリでのむごい十字架の刑。何か喜ぶべきことがあったでしょうか。イエス様はまさに言われました。主は世に打ち勝たれました。贖罪が現実のものとなろうとしていたのです。全人類の復活が確かなものとなったのです。死は除去されようとしていました。そしてサタンは贖罪を止められなかったのです。」[しかし、数日(ソルトレイクシティ: 末日聖徒イエス・キリスト教会,1983年)、4ページ。
今日のお話では、人に能力を授けるキリストの力が、この世の暗闇と破滅のただ中にあって喜びを感じる能力を高める役割に焦点を当てたいと思います。不幸や苦難は、贖罪のレンズを通して見ると、悲劇ではなくなります。このプロセスは次のように説明できます。救い主を知れば知るほど、わたしたちは長い目で見るようになります。主の真理が分かれば分かるほど、主の喜びをさらに知ることができます。しかし、日曜学校のクラスでそれが正解であると知ることと、現在の状況が自分の望むものとはかけ離れているときに明るい見方をじかに経験することはまったく別のことです。贖罪について口にするだけでなく、このような方法で贖罪を適用する信仰を育めば、救い主の無限の犠牲に、あやまって自分の思い込みで限界をつけていることに気づくのは意義があるでしょう。二つの誤った思い込みについて考えてください。この思い込みは、主の神聖な助けを感謝したり、受けたりする妨げとなります。
誤った思い込み 1 ― わたしたちは苦難を避けることができる
第1に、わたしたちが十分に善良であれば、自分や愛する人たちに悪いことは起こらないだろうという誤った思い込みです。すべての戒めを守り、正直に什分の一を納め、毎日祈り、聖文を研究することができれば、神をなだめ、神に喜ばれるので、心痛や事故、悲劇から確実に守っていただけると思うのです。マックスウェル長老は、そのような考えに駆り立てられるとき、わたしたちは「戦わずに勝利をほしがり、ただ見守るだけで従軍記章を期待する」と述べています(Men and Women of Christ [Salt Lake City: Bookcraft, 1991], p. 2) ですから、すべてのことを正しく行おうとするときも含め、試練は必ず訪れます。リチャード・G・スコット長老は次のように警告しています。「すべてがうまくいっているように見えるとき、困難がいくつも同時に襲い掛かってくることがよくあります。」そして、「逆境に遭うのは、わたしたちの人生において主御自身の目的が達成されるため、つまり試しによってもたらされる精錬を受けるためなのです」と説明しています。(‘主を信頼する‘聖徒の道)
従順であれば神はわたしたちを苦難から守ってくださると信じているのに逆境が襲ってくると、神は祈りを聞いてくださらないとか、さらに悪いことに、神は約束を守っておられないと責めたくなるかもしれません。神への従順は、痛みや悲しみに対する保険ではありません。この世では、不愉快なことがどうしてもあります。神の偉大な計画には常に試練がともないます。わたしたちの信仰が試され、わたしたちの成長、謙遜さ、思いやりが培われます。心痛や苦しみは、神以外に頼るものがないところまでわたしたちを伸ばすために神が用意されたものです。
地はアダムのためにのろわれ、エバの悲しみ(または苦難)は増し加えられると約束されました(創世3:16-17参照)。使徒パウロは、「わたしの肉体に一つのとげが与えられ … それは、わたしが高慢にならないように、わたしを打つためである」と認めています。(2コリント12:7)。主はサライアに、家族に対する神の御心について確信を得る前に、息子たちを危険な場所に戻すよう命じられました (1ニーファイ5:1-8参照)。キリストの使命は、心が張り裂けるのを防ぐことではなく、傷ついた心を癒すことでした。主はわたしたちの涙をぬぐうために来られたのであって、わたしたちが決して泣かないようにするために来られたのではありません (黙示7:17参照)。救い主は、「あなたがたは、この世ではなやみがある」とはっきり言われました (ヨハネ 16:33)。
誤った思い込み 2 — わたしたちは自分の努力に頼れる
艱難に遭ったときの二つ目の誤った思い込みは、キリストに対する信仰を同じように損なう可能性があります。苦難が訪れるのは、自分がこの世で十分な善を行ってこなかったからだと結論づけるかもしれません。
生涯生き生きとくらすことは、自分の管理と努力によって達成できると信じているかもしれません。何と言っても、私たちは聡明で有能で、才覚のある女性です。この観点から艱難と主の贖罪について考えるとき、「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、神の恵みによって救われる」(2ニーファイ25:23) という聖句を見て、主の犠牲がわたしたちを覆い、主の恵みによって可能になる前に、まずは従順と義によって自分の価値を示さなければならないと思うかもしれません。謙遜に神を認めるよりも自分の努力を信頼することが独善という言葉に反映されています。
わたしたちの義のレンズを通して見るとき、善い努力に慰めを見いだすとき、キリストに完全に頼るという考え (2ニーファイ31:19; モロナイ6:4) は少し危険に思えます。このような視点が生み出す一連のドミノ倒しのような思いに耳を傾けてください。神様に頼っていても、すぐに助けが必要なときに答えてくださらなかったら?この世には深刻な問題があふれてるのに、なぜ神様はわたしの個人的な危機に時間をさいて、関心を寄せてくださるのか?それに、もしわたしが生活を注意深く計画して、賢く考えるなら、誘惑に抵抗することができて、主に頼って助けを求める必要はまったくないわ。そうすれば、わたしはゲツセマネで主の苦しみを増す者にはならないわ。自分のスキルと頭を使えば、主の力を借りるのじゃなく、実際に主を助けることができる。だって、この辺りには私よりもひどい状況の人がたくさんいるんだから。
知らず知らずのうちに、こういう判断をするとき、私たちはモルモン書のコリホルの人文主義的な説教に不気味なほど似ています。「人は皆,この世の生涯を善く暮すも悪く暮すも,その人の対処の仕方次第であるから,人は皆自分の素質に応じて栄え,自分の力に応じて勝利を得る」(アルマ30:17) と述べ、それによって、彼の聴衆はキリストとその贖罪を必要としていないと主張しました。「このように、〔コリホル〕は民に教えを説き、多くの人の心を惑わし … 多くの男女を惑わしてみだらな行いをさせた」(アルマ30:18)。
予期せぬ出来事に恐れを抱き、動揺すると、キリストに対する信仰は、「うぬぼれた野望」によって「高慢を満たすもの」に弱っていきます(教義と聖約121:37)。そのような考え方は、私たちがコントロールしているので、不正行為を正当化することにつながります。ほかの人よりもよく心得ているので、罪はわたしたちにとって問題ではありません。わたしたちの努力は、ほかのだれも必要としていないことを示すために、個人的な成功に焦点を当てています。ありとあらゆる依存症、摂食障害、痩せることへの執着、家は常に完璧に保ち、教育や成功といった見かけの証拠に没頭するなど、自分の世界をコントロールできれば、ようやく生き生きできます。コリホルの教えに対する反応において、男性よりも前に女性を挙げた(英語の)聖文の記述は、興味深い言い回しです。その言葉がどんな意味を持つのか、わたしにはよく分かりませんが、少なくとも、コリホルの「被造物の管理」の哲学では、女性も例外ではなく、特に惹かれてさえいたかもしれないと結論づけることができます。
イエスは「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」、と宣言されました(ヨハネ 16:33)、強調付加)。主は、皆さんが世に打ち勝たなければならないや、自分でそれを成し遂げるのに十分な知恵や強さを持たない弱い者たちのためだけに世に打ち勝たれたとは言われませんでした。救い主は言われました。「わたしはすでに世に勝っている。」
イエスは世に打ち勝たれた
どの時代の預言者も、(キリストの恵みは十分)であると証してきました。十分とは「充分な」または「必要に足りる」という意味です。預言者はまた、わたしたち自身がキリストにとって取るに足りない存在であること、大地の塵にも劣ること、キリストがいなければわたしたちはふつつかな僕であること(モーサヤ2:21-25参照)、そして
「聖なるメシヤの功徳と憐れみと恵みによらなければ、だれも神の御前に住める者がいない。…
…メシヤは … すべての人の子らのために執り成しをされる。だから、メシヤを信じる者は救われるのである。」(2 ニーファイ 2:8)
使徒パウロもその教訓を学びました。恐らくこの世で最も備えられた宣教師であったパウロは、言語に秀で、ユダヤ教について高い教育を受け、当時のギリシャ・ローマ文化と哲学に精通していました。パウロは豊かな教養と優れた知性を生かして、アテネの知識人たちに、キリストを「知られていない神」(使徒17:23参照) として、詩人の言葉を引用し、彼らの哲学を用いて教えようとしました。パウロの知識と説明は、彼の哲学的な聴衆にとって印象的だったかもしれませんが、アテネでの彼の博学なアプローチは、ほとんど収穫をもたらしませんでした。
パウロはアテネからコリントに向かい、そこで大きな成功を収めました。後にコリントの聖徒たちに宛てた手紙の中で、パウロは彼らの間での伝道のアプローチについて説明しています。アテネでの経験をもう一度考え直すためかもしれません。
「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。
なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。
わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。
そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。」(1コリント2:1-4)。
自分の慣れ親しんだ技術に頼ることに慣れてしまっていると、主が試練の中でわたしたちを支え、必要なときに言うべきことや行うべきことを与えてくださると信頼することは、怖いかもしれません。パウロは、自分の求道者に感銘を与えるのが明かだったのに、なぜ自分の優れた教育能力を喜んで脇に置いたのでしょうか。彼はこう説明しました。「それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」(1 コリント 2:5)。
末日聖徒聖書辞典では、恵みを、
「イエス・キリストの豊かな憐れみと愛を通して与えられる助けや力を与える神聖な手段 …
…イエス・キリストの贖罪に対する信仰と罪の悔い改めを通して、自分自身の力だけでは続けられない善行を行うための力と援助を受けます。」と説明しています。[“恵み”]
贖罪は、わたしたちが従った後に祝福をもたらすだけでなく、実際に、その行いの最中にわたしたちを支えてくれる力なのです。同様に、ジョセフ・スミスは「主の恵みにより」(教義と聖約20:4)、「霊感を与える戒めそして … 高い所から力」を与えられたことを知りました。(教義と聖約20:7-8) キリストの寛大な恵みにより、主はわたしたちに戒めをお与えになりますが、それは抑制したり制限したりするためではなく、御自分が招いておられるすべてのことを理解し、成し遂げられるようにわたしたちを鼓舞し、強めるためです。
キリストがすでに世に勝っておられることを示すレンズを通して見るとき、「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、神の恵みによって救われる」(2ニーファイ25:23) という聖句は、非常に違って見えます。「自分の行えることの全て」とは何でしょうか。改宗したレーマン人の一団であるアンタイ・ニーファイ・リーハイ人は、その答えに気づきました。彼らの指導者は賢明にもこう教えています。「我らができることはただ,我らのすべての罪 … を悔い改めて,我らの心からそれらのものを神に取り去っていただくこと [です]」(アルマ24:11)。これらの謙遜な聖徒たちは、親族に受け入れられることよりも、神に喜ばれることをはるかに望みました。彼らは武器を埋めて神と聖約を交わすことで、心からの悔い改めを表しました。
わたしたちも同じようにすることができます。わたしたちは罪を犯し、主の贖いが必要であることを認めることができます。主の力と善良さ、わたしたちを支え、強めてくださる主の影響力を常に必要としていることを告白することができます。わたしたちは戦争の武器を埋めることができます。それは、主なしで生き延びるために使いがちな道具であり、高慢と独善を強めるだけなのです。そして、わたしたちは神と聖約を交わし守ることができます。
今学期、ある若い学生がその概念に気づくのを見ました。使徒パウロの驚くべき書簡を研究した後、彼女はクラスで次のようにコメントしました。
「パウロは、もしわたしたちがキリストに信仰を持つなら、キリストの恵みはわたしたちに欠けているものをすべて補うと教えました。この学期中、わたしはワードで福音の教義クラスを教える召しを受けました。これは私にとって一番怖い召しでした。私は人前で、特に45分も立てるような人間じゃないからです。でも、最初のレッスンの準備をしていて、パウロがキリストの恵みについて語ったことを思い出しました。そこで、わたしは自分にできるものをすべて準備し、キリストの恵みが自分に足りないものを補ってくださるよう熱心に祈りました。そのあと起こった事は驚きでした。私じゃなかったので、びっくりしました。御霊はとても強く、レッスンは力強いものでした。なぜなら、キリストの恵みが、わたしの準備と御霊によって教えられる必要のあることとの差を補ってくれたからです。主の恵みは力強い賜物です。それは私たちの働きで得るものではありません。」
元気を出しなさい
聖文の文脈における活気さは、神が保証された楽観主義、「明らかにされつつある神の目的に対する深い信頼」(ニール・A・マックスウェル「わずか数日」4)、すなわち神は常に約束を守ってくださるという揺るぎない確信を意味しています。キリストが「元気を出しなさい」と宣言するとき、主は、人生の残酷な展開に対して、世間知らずな楽天家のような対応を求めておられるのではありません。また、主は苦痛のない、常に至福に満ちた生活を約束しておられるわけでもありません。試練は人を差別しません。悲劇や苦難も差別しません。この世では、富める者と貧しい者、男性と女性、義人と悪人の間に対立が見られます。社会に不正直と虚栄心が増していることは自明のことですが、救い主は、神がわたしたちを「世から」取り去ってくださらないよう、具体的に祈られました (ヨハネ17:15)。「この世ではあなたがたの喜びは満たされないが、わたしにあってあなたがたの喜びは満たされるからである」 (教義と聖約 101:36)。この世に背を向けてキリストのみもとに来ることによってのみ真の満足を見いだせるということを、ほかにどのように学べるでしょうか。
息子たちを失うことを恐れ、預言者である夫のキリストについての証が自分の証を維持するには十分でないことを悟った後、サライアは主を自分自身で見いだし、こう宣言しました。
「主が夫に荒れ野へ逃げるように命じられたことが、今確かに分かりました。 また、主が息子たちを守り、ラバンの手から救い出し、主が命じられたことを成し遂げるための力を息子たちにお与えくださったことが、確かに分かります。」(1 ニーファイ 5:8)
彼女はキリストの恵みが十分であることを知りました。そして、息子たちが父親の天幕に戻ると、ニーファイはこう報告しました。「父は喜びに満たされ … 母サライアも非常に喜んだ」(1ニーファイ5:1)。当然のことながら、息子たちが無事に帰還したことで、このような喜びと歓声が沸き起こりました。しかし、そのような喜びは、主の力によって息子たちが、自分の力だけではできなかったであろう善い行いができるようになったという彼女の証からも明らかです。
長年の伝道活動を通じて肉体的、精神的に迫害を受けた後、パウロはローマの牢獄に入り、こう宣言しました。
「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。
わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:11-13)
これは今日ここにいる私たち一人一人にとって何を意味するのでしょうか。まずわたしなら、主以外には誰も救えなかった苦難の経験を認めることができます。自分が進んで選びはしない状況が、わたしをひざまずかせ、神に頼らせてくれました。そしてさらに、神はわたしを愛しておられるので、この先さらに試練がやってくると思います。
主は「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33) とはっきりと約束しておられますが、皆さんの人生の試練がわたしと同じということはほとんどありません。また、皆さんには、わたしが経験することのないような試練や十字架があり、皆さんを成長させるものとまったく同じ経験をわたしはしないだろうことを認めることもできます。「元気を出しなさい」とか「あなたの気持ちはよく分かります」と皆さんに宣言することで、癒し主の役を引き受けようとする誘惑に抵抗することができます。 癒されるためには、皆さんもわたしもこのメッセージを主の声により受ける必要があるのを意識しているからです。主はわたしたちの悲しみをほんとうに理解しておられる唯一の御方です。主だけがわたしたちの個人的な痛みを感じられたのです。
しかし、話したり教えたりする機会がある度に、主を知るようになり、その超越的な賜物について進んで証することもできます。完璧な見かけを装うよりも、自分の行いやくだけた会話の中でキリストに完全に頼っていることを認めることで、ほかの人が主を見いだすのを助けることもできます。そのほうが完璧な見かけを装うよりも効果があります。完璧を装うと、主を必要としていない印象を与えることがよくあります。わたしたちは罪に対抗するべきであって、誰が救い主をあまり必要としていないか見極めようとするべきではありません。わたしたちはそれぞれ困難に直面していること、救い主が世に打ち勝ったこと、救い主がわたしたち一人一人を非常に個人的な方法で励まし、強め、ビジョンを与えてくださったことを認めるとき、決して独りではないことに気づくでしょう。危機がまだ猛威を振るっていても、私たちは内に平安を感じるでしょう。わたしたちは希望と喜びにさえ満たされるでしょう。
結論
聖餐の賛美歌の歌詞には、わたしたちが頭を上げて喜ぶべき大きな理由がうかがえます。
卑しい生き物も
堕落した罪人も
あなたの聖なる存在を感じ
あなたの愛によって救われる
卑しい友はあなたを裏切るとも
あなたの愛に抱かれる
あなたを殺した敵でさえ
あなたの恵みにあずかる
あなたの犠牲は
死すべき法の要求を超越した
あなたのあわれみは
あらゆる時代と国に及ぶ
サタンはもはやわたしたちを傷つけることはできない。
戦いがいかに長くとも
死の恐怖にはおののかず
主よ、あなたにより生きます
[“O Savior, Thou Who Wearest a Crown,” Hymns, 1985, no. 297, vs. 2 and 3] (英語の讃美歌からの和訳)
兄弟姉妹の皆さん、イエス・キリストは確かに世に勝っておられます。光が現れるとき闇が力を失うように、この世は、世の光に打ち勝つことも理解することもできません (ヨハネ1:5参照)。主は勝利者であられ、わたしたち自身と、わたしたちを失望させる人々のために、「翼に癒しを携えて」(3ニーファイ25:2) 地上に来てくださいます。主がわたしたちをお見捨てになることはないのです。全ての答えがわからない時でも、主はわたしたちを導いてくださいます。苦難の中で主の比類ない愛を見いだしたサライアと使徒パウロのように、わたしたちも助けを深く必要としているときに救い主の恵みを知ることができます。
めんどりが羽でひなをおおうように、贖い主のもとに来るなら、贖い主はその包括的な力でわたしたちを包み込んでくださいます (マタイ23:37参照)。その翼の下には、わたしたち全員を受け入れる余地があります。主はこう宣言しておられます。
「元気を出しなさい。恐れてはならない。主なるわたしはあなたがたとともにおり,あなたがたの傍らに立つからである。あなたがたは,わたし,すなわちイエス・キリストについて,わたしが生ける神の子であること,わたしがかつており,今おり,やがて来ることを証しなければならない。」(教義と聖約68:6)
確かに、わたしたちは戦争と恐怖の時代に生きており、国家間だけでなく、わたしたち自身の心の中でもそうです。しかし、ギレアデの乳香 (エレミヤ8:22参照) であられるお方は、すべての創造物の指揮者であり、この御方のみに平安と落ち着きが見いだされるのです。この世のあらゆる暗闇と破滅のただ中にあって、イエス・キリストは世に勝たれました。さあ、喜びましょう。
© Brigham Young University. All rights reserved.
古代聖書学部の元学部長であるカミール・フロンクは、2004年4月30日に、このディボーショナルを行いました。