ここBYUだけでなく、生涯を通して学ぶ重要なカギは、尋ねることです。
今日、皆さんとご一緒できるこの割り当てに感謝していますが、少々緊張もしています。ブリガム・ヤング大学の使命は世界でもユニークであり、この使命を理解し、その使命に全力を尽くしている人に心からの賞賛と敬意を抱いています。末日聖徒イエス・キリスト教会の全ての会員は、学び、知識を習得し、知恵と知性を高めることに意欲をもっています。この特別な教育機関とその姉妹校に関わる特権を持つ人たちは、「神の栄光」を推し進める理解力と属性を獲得する大きな祝福を受けています。(D&C 93:36)
ここBYUだけでなく、生涯を通して学ぶ重要なカギは、尋ねることです。皆さんがきちんと文章を声に出せるようになった時から、答えづらい質問を含め、多くの質問をしてきたことは、皆さんのご両親が一番ご存じでしょう。言うまでもなく皆さんは疑問を持ち続けているでしょうし、皆さんの教授でさえ質問を尋ねて皆さんを知ることでしょう。今日は、質問することの一般的な理解についてお話させていただきます。
ジョン・ラボック男爵は、1834年生まれのイギリスの銀行家、政治家、博物学者、多作な作家です。「国民教育」というエッセーの中で、この特別な大学にいる私たちにとって特に重要なことをラボック男爵は述べました。
人生で何度も答えなければならない質問が三つあります。それは正しいのか間違っているのか?それは真実か嘘か?それは美しいか醜いか?我々の教育は、これら三つの質問に答える助けとなるべきです。[Sir John Lubbock, The Use of Life (1894; reprint, Freeport, New York: Books for Libraries Press, 1972), 102–3]
もしジョン・ラボック男爵が知っていたならば、おそらく次のように言うのが最も適切だったことでしょう。「BYUでの我々の教育は、これら三つの質問に答える上で特に役に立つだろう」ということです。
一部の人にとって、信仰と疑問は相反するものと思えるでしょう。それは全く正しくありません。相応しくそして欠かせないその二つによって、この回復は明らかにされました。預言者ジョセフ・スミスは、信仰と疑問の両方を持っていました。確かに、ジョセフを聖なる森の経験へと導いた聖句には、疑問と質問者の信仰に応じたその答えに関する約束の両方が含まれています。
預言者ジョセフ・スミスが知識を増やすだけでなく、信仰を膨らませるために、適切な質問を用いた方法を考えるたびに私は衝撃を受けます。最初の示現は皆さんご存じでしょう。宣教師として奉仕した方々は、何度もそのことをお話したことでしょう。若い宣教師だったころからもう何年も経ちましたが、未だにジョセフの歴史を頻繁に読む度に心を打たれます。そして皆さんが定期的に読み返していることを非常にうれしく思います。
ジョセフ・スミスは、その歴史の中で、彼の家族の状況や幼いころに育ってきた宗教的環境について述べています。ジョセフは、宗教に関する激しい熱意と各宗派による意見の相違に晒されていました。その宗派の全てがイエス・キリストの福音を宣べ伝えており、真実だと声高に主張していました。ジョセフの言葉を紹介します。
この言葉の争いと見解の騒動の渦のただ中にあって、わたしはしばしば心に問うた。何をしなければならないのだろうか。これらすべての教派のうちのどれが正しいのだろうか。 それとも、ことごとく間違っているのだろうか。もし彼らのうちのどれかが正しいとすれば、それはどれで、どうすればそれが分かるのだろうか。(ジョセフ・スミス―歴史1:10)
これら三つの疑問は、ジョセフの受動的な好奇心を超えるものであることを申し上げたいと思います。それらの質問のおかげで、ジョセフは板挟みの状態から抜け出すことができ、私たち全員の命にとって極めて重要な経験をする備えが出来ました。ジョセフの歴史に戻ります。
11節これら宗教家たちの論争によって引き起こされた、極度に難しい事情の下で苦しんでいたある日のこと、わたしは、ヤコブの手紙第一章五節を読んでいた。あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。(ジョセフ・スミス―歴史1:11)
預言者ジョセフ・スミスは、彼の公式な歴史で次の聖句を引用しませんでしたが、次の聖句はジョセフや私たちが尋ねる質問の答えに欠かせない聖句です。ここでヤコブのお話をします。
ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。(ヤコブの手紙1:6―8)
「しかし、信仰をもって願い求めなさい」というフレーズには欠かすことのできない秘密があります。揺るぎない信仰は、私たちが望む答えを受けるためには不可欠です。祈りを通して尋ねる質問の答えを得るには信仰が必ず必要ですが、主イエス・キリストと御父の計画を信じる信仰は、私たちが尋ねる他の重要な質問への答えを得る上でも役に立ちます。
預言者ジョセフ・スミスの歴史を離れる前に、若き預言者が福音の回復が始まったこの時期にした他の質問を考えることはためになります。信仰をもって適切な方法で適切な質問をすることの重要な真実の一つは、受け取る答えは期待していたものではなく、時には私たちが尋ねた質問よりも根本的で重要な質問に対する答えの場合があるということです。もう一度、預言者ジョセフ・スミスの経験から引用します。
わたしが主にお伺いしようとした目的は、自分が加わるべき教派を知るために、すべての教派のうちどれが正しいか知ることであった。そこで、わたしは我に返って物を言えるようになるやいなや、わたしの真上で光の中に立っておられた方々に、すべての教派のうちのどれが正しいか(当時は、すべての教派が間違っているということなど、わたしの心に思い浮かびもしなかったからである)、また自分はどれに加わるべきかを伺った。(ジョセフ・スミス―歴史1 :18)
ジョセフが受けた答えに注意を向けてください。「それらのどれにも加わってはならないとのお答えであった」( 19節)。その次に馴染みのある説明が同じ聖句内で続きます。この説明に続けて、ジョセフは次のように書き記しています。
その御方は再びわたしに、それらのどれにも加わることを禁じられた。また、ほかにも多くのことをわたしに言われたが、今はそれを書くことができない。………敵対する者が、わたしの生涯のきわめて早い時期に、わたしが彼の王国を妨げ悩ます者になると定められていたことに気づいたかのように思われる。 そうでなければ、どうして闇の力がわたしに敵対して連合したのであろうか。どうしてわたしがまだ幼いときに、わたしに対して反対と迫害が起こったのか。(ジョセフ・スミス—歴史1:20)
ジョセフ・スミスは若くもありましたが、適切な質問に関する別の重要な原則を無意識的に理解していました。天の御父と御子から受けた答えを理解しようとした時に、ジョセフが彼自身に尋ねた質問に触れます。またジョセフの言葉を引用します。
当時、真剣に考えさせられ、またそれ以来しばしばは考えさせられてきたことであるが、十四歳を少し超えたばかりの名もない少年、それも日々の労働によってわずかな生活費を得なければならない定めに置かれた少年が、当時最も評判の良い教派に所属する偉い方々の注意を引き、最も激しい迫害と悪口雑言を浴びせようとする思いを彼らの心中に起こすほどの重要人物と思われようとは、何とも不思議なことである。しかし、不思議であろうとなかろうと、それは事実であり、しばしばわたし自身にとってひどい悲しみの種となった。………
わたしについても同じであった。わたしは実際に光を見た。その光の中に二人の御方を見た。そして、その方々が実際にわたしに語りかけられたのである。たとえ示現を見たと言ったことで憎まれ、迫害されたとしても、それは真実であった。そして、そのように言ったことで、人々がわたしを迫害し、わたしをののしり、わたしに対して不当にあらゆる悪口を浴びせているとき、わたしはこのように心の中で言うようになった。「真実を告げたことで、なぜわたしを迫害するのか。わたしは実際に示現を見た。どうしてわたしは神に逆らえようか。なぜ世の人々はわたしが実際に見たものを否定させようとするのか。」そして、そのように言ったことで、人々がわたしを迫害し、わたしをののしり、わたしに対して不当にあらゆる悪口を浴びせているとき、わたしはこのように心の中で言うようになった。 「真実を告げたことで、なぜわたしを迫害するのか。」(ジョセフ・スミス—歴史1:23, 25)
これらは良い疑問です。そしてジョセフ・スミスは、その後の数年間にわたって彼の人生で一貫して存在していた問題について触れ、繰り返し適切な疑問から得た経験を記しています。
前に述べた九月二十一日の夜のことである。わたしはその夜、床に就いた後、全能の神に、わたしの全ての罪と愚かな行いを許して下さるように、また神の前における自分の状態と立場を知るために示しを下さるように、祈って嘆願した。以前に受けたように、神の示しを頂けるという十分な確信があったからである。(ジョセフ・スミス—歴史1:29)
その夜とその次の日に天使モロナイが現れた出来事と、そしてジョセフ・スミスだけでなく私たちにとってもモルモン書の登場という重要な意味を持っていたことを私たちは知っています。
モルモン書の翻訳に触れると、ジョセフの尋ねる力と適切な質問の大切さについての理解は、この期間を通して発達し、磨かれたことが分かります。彼の言葉にもう一度注目していただきたいと思います。
わたしたちはなおも翻訳の仕事を続けていたが、その翌月(千八百二十九年五月)のある日、わたしたちは、版の翻訳の中に述べられているのを見つけた罪の赦しのためのバプテスマに関して主に祈って伺うために、森の中に入って行った。わたしたちがこのようにして祈って、主に呼び求めていたとき、天からの使者が光の雲の中を降って来られた。そして、その使者はわたしたちの上に手を置き、次のように言ってわたしたちを聖任された。(ジョセフ・スミス―歴史1:68)
ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーがアロン神権に聖任され、バプテスマの正しい執行方法とその受け方の指示を受けたとき、彼らの人生とイエス・キリストの福音の回復において起ころうとしている偉大で重要な出来事について教えと約束を受けたことも、私たちは知っています。
預言者ジョセフ・スミスが正しい質問をし、今日の私たちにとって重要な教義に関する理解や明察を受けた例を、今日割り当てた時間よりも多くの時間を使って見つけることが出来るでしょう。教義と聖約を熟読すれば、個人と教会に向けたこれら啓示のほとんど全てが、天の御父への、よく考えられ、信仰に満ちた嘆願の答えとして与えられたことが分かるでしょう。しかし、これらの適切な質問の重要さをもってしても、ニール・A・マクスウェル長老の言ったように「良い質問よりももっと良い答えがある」ことを忘れてはなりません。(All These Things Shall Give Thee Experience [Salt Lake City:Deseret Book, 1979], 9).
これと同じ全体的な影響や教義の重要さに欠ける質問は、私たちの生活に意味があるのでしょうか?答えは、当然「はい」であって欲しいです。私たちの福音は尋ねる福音です。そして前に進もうとするなら、思慮深く適切な問いかけが人生の全ての面で必要になります。考えることは尋ねるべきかどうかではなく、尋ねるべき質問が何かです。
科学と医学での経験から、本当の意味で前に進むことは、ほとんどの場合、相応しい質問を尋ねた結果であると私は信じています。質問に対する大切な答えが私たちの努力から来るとするならば、ふさわしい質問をしなければなりません。正しい答えや価値ある洞察は、間違った質問や沈黙から得られません。多くの科学者は、自身や他者が偶然にも思える重要な発見をした時の経験を関連付けることが出来ます。得られたものが尋ねた質問の答えでなかったとしても、新たに得られて知識は慎重に考えられた調査の結果だということに科学者は同意しています。
愚かな質問、不適切な質問、品のない質問もしくは意味のない質問を取り除いたとしても、すべての質問が等しく重要とは限らないことを認めなければなりません。質問の中には、短期的には重要でも、長期的にみるとそうでないものもあります。例えば、授業前に車をどこに止めようか?お昼には何を食べるか?今週末の大事なパーティーに着る服は何にしようか?などです。好奇心の強さに自信を持つ人が犯しがちな間違いの一つは、「些細な疑問」に焦点を当て、「重要な質問」をないがしろにしてしまうことです。細部にこだわるあまりに、全体像を見失う人もいます。多くの質問そのものに問題はありませんが、些細なことに集中しすぎると重要なことへの意識がそれるのもまた事実です。
預言者ジョセフ・スミスがどんな靴を履いていたか、あるいは聖なる森に行くときに靴を履いていたのかは分かりません。歴史家や人類学者、靴職人でさえこの疑問に興味を持っているのではないでしょうか。その疑問を尋ねることには何ら悪いことはありません。また問いへの答えが見つかれば、学術誌に論文が掲載されるかもしれません。しかし本当に大切なのは、ジョセフが森へ行き、文字通り世界を変える神聖な経験をしたということです。
はっきりと考え、慎重に質問しようとしていても、簡単に気を取られてしまいます。物議を醸したり、煽情的な質問を考えてみたり、誰も考えたことがない質問を考えることに、時折魅力を感じるでしょう。同様に、重要な質問への答えがあまりにも受け入れ難い時、注意を逸らす質問をしたくなるでしょう。答えほとんど分からないように、質問を非常に曖昧にも複雑にもできます。昔のコメディアンがよくしていた質問を覚えています。「鴨の違いは何ですか?」 困惑した回答者に、彼はこう答えました。「脚は一本両方とも同じです」。気を付けなければ、私たちの質問と答えもそれほど良くなかったかもしれません。
質問が好ましいだけでなく、不可欠であることを受け入れることが出来れば、究極的には何が最善で、最も重要な質問かを判断することが出来ます。これらの質問は、真理や問題の本質または核を扱うものです。疑問があるからその答えを知りたいと思うことは、悪いことではありません。しかし、明確な目的や解決すべき問題を意識しておいた方が、ほとんどの場面において有益です。
例えば、遺伝学者の中には、特定の遺伝子が存在するという理由だけでその化学配列を特定することに長期間取り組む人もいるかもしれません。一方で、特定の遺伝子が特有の性質や、問題、疾患において重要な役割を担っていると判明すると、その研究に一層の納得感を感じると思います。化合物や物質の化学式や構造を知ること自体は、知識体系に益となるでしょう。しかし、それとは関係のない遺伝子配列に全ての時間を費やすと、これらの真理は通常、がんとの闘いにはほとんど役立ちません。どちらかが興味深くない、あるいは重要でないということではありません。しかし、二つの現象が何らかの形でつながりを持たない限り、がんや死につながる細胞または臓器のなかで何が起きているか理解することにはつながりません。同様に、スコットランドの地図を勉強することは面白く、教養を深めるでしょう。しかし、中国に旅行している場合、役には立たないでしょう。
このキャンパスにいる同僚の科学者は、他の科学者が発見した真理や研究を基にして、知識を得ることまたは前に進める上で最も成功していると私たちに言うでしょう。遺伝子の秘密や疾患における作用を明らかにする今日の遺伝子学者は、何年も前にメンデルらが行っていた基礎的な遺伝子実験や、ワトソンやクリックが提唱したDNA配列の理論モデルを再現する必要はありません。むしろ、現代の遺伝子学者は先人たちの研究、理論そして発見に敬意を表し、学びそしてそれらの意義と限界を知るようになるのです。先人がが築き上げたものの上で、現代の学者は新たな問題を解決するために前進し、その中でも私たちの時代に最も関係のある問題に集中します。
また、私たちの大切な疑問への答えを先人たちから得ることが出来ます。私たちは最初の示現を個人的に経験する必要はありません。ジョセフ・スミスが既に経験したからです。そして私たちには聖なる御霊と数多くの証人がいることに加え、ジョセフ自身の記録や証があるからです。モロナイのもとを訪ねて、彼がジョセフ・スミスに教えたことを学ぶ必要はありません。私たちにはもう聖文の記録があるからです。誰も山上の垂訓を直接目にしてはいませんが、その場にいる必要はありませんでした。なぜなら、新約聖書の記録や第三ニーファイで付け加えられた見識、そして何より、それらの教えが真実だと知る道具や仕組みが手に届くところにあるからです。
私たちはどんな疑問でも恐れはしません。この確信に似たものは、すべての疑問に対して答えが用意されているだとか、それと同等の価値があることを意味しているわけでありません。信仰とは非常に奥深く不可欠な原則です。だから興味深い答えまたは重要な答えは信仰を必要とします。モルモン書の預言者たちが彼ら自身の疑問や、彼らに問いかけられた疑問に対する答えを考えてみてください。皆さんは、「神が御自身を低くされることがあなたに分かるか」という質問に対するニーファイの正直な答えを覚えていますか?ニーファイはこう答えました。「わたしは、神がその子供たちを愛しておられることは知っていますが、すべてのことの意味を知っているわけではありません」。(1ニーファイ11:16-17)
私たちは問いかけられた質問がわからないとき、私たちは自分自身と主を認めるだけでなく、適切なタイミングで他者に対しても認める必要があります。アルマは息子ヒラマンと教義的に重要な点を話し合うとき、そのことを明確にしました。「これらの奥義は、まだ全部はわたしに知らされていないので、わたしはそれを語ることを控えなければならない」と教えました。(アルマ 37:11)
しかし、未知のことについてへりくだるとき、私たちは信仰の基礎としてこれまで明かにされてきた情報をうやむやにしてはなりません。私たちが紹介できる多くの例の中で、おそらく最も説得力があるものはモルモン書そのものです。モルモン書の始まりについて色々と思うかもしれませんが、私たちにはモルモン書があるという事実は揺るぎません。持ち上げることも、読むことも、試し、吟味することもできます。自分に正直であるならば、モルモン書について明確な見解を持つ必要があります。要約すると、モルモン書は本当か嘘かのどちらかです。神の言葉か、最も質の悪い詐欺師のどちらかです。この書の内容が善であり、その証が真実であると認められるなら、その起源が偽りであると主張するのは、知的にも合理的にも成り立ちません。ジョセフ・スミスが世に送り出したモルモン書の起源について他の人が何を考えようと、これまで提唱されてきた数々の説明が本当である可能性について、注意深く考えてみてください。覚えておいてください。170年もの間、預言者を批判する人たちが様々な理論を提唱してきましたが、その一つ一つが正直かつ慎重な研究員によって論駁されたてきました。もしまだ行っていないのであれば、もちろん、皆さん自身がこの問題を注意深く調べたいと思うでしょう。しかし、皆さんにはこれまでの全ての成果と、他の人々が投げかけてきた質問という強みがあります。しかし、意見が違う人の理論を批判的思考に欠けると批判しつつ、自らの疑わしい結論を直感的に自明なものとして受け入れるよう主張する人が常にいます。正しい質問をしているか常に確認してください。
非常に重要な質問の答えを探そうとするとき、可能であれば一次資料に目を通してください。例えば、モルモン書の注釈書は自由に読むべきですが、モルモン書を読む時間を確保し、それからモルモン書に問いかける重要な質問を尋ねてください。
また、この記録を受けるとき、これが真実かどうかキリストの名によって永遠の父なる神に問うように、あなたがたに勧めたい。もしキリストを信じながら、誠心誠意問うならば、神はこれが真実であることを、聖霊の力によってあなたがたに明らかにしてくださる。
そして聖霊の力によって、あなたがたはすべてのことの真理を知るであろう。(モロナイ10:4–5)
モルモン書は大切な質問をするよい場です。なぜなら、モルモン書が真実だと分かれば、必然的にその他の重要なことも真実だからです。例えば、モルモン書が真実であるため、ジョセフ・スミスは明瞭に神の預言者となります。ジョセフが預言者ということは、彼の受けた他の啓示も真実ということになります。ジョセフが天の御父とイエス・キリストを見たということは、御二方の性質や役割についての他の多くの疑問が解消されることになります。末日聖徒イエス・キリスト教会が真の教会であり、ジョセフの跡を継ぐ大管長会も神の預言者となります。モルモン書には、神権時代の偉大な人たちが履いていた靴や髪の色について多くを語りません。モルモン書は皆さんに最も重要で本当のことだけを伝えてくれます。その真実性を問う質問への答えは、他の関連する質問に対する答えにもなります。
もちろん、それでも疑問はあるでしょうし、十分に理解できていないものもあるでしょうし、受け入れられないこともあるでしょう。私たちには、信仰によって受け入れなければならない基本的なことがまだいくつかあります。モルモン書のいくつかの詳細な部分も、常にこの領域に関係しています。ジョセフ・スミスのような人が、自分でこの聖書を書いたことがますます現実離れしている理由を、そしてこの本の起源について提唱されてきた他の説明が信ぴょう性に欠ける理由を学び続ける必要があります。主の子供たちに向けられた主の御業の偉大な証人は、信仰の領域から出てはいけないと、主は言う可能性が高いです。それは、私たちが信仰を示せるためです。
良い質問が数多くある中で、どの質問が最も大切でしょうか?何を食べようか、着ようかといった身近なことを考えているとき、答えは正当な理由で頻繁に変わることがあります。教義に関する質問のように究極的な質問をすると、その答えは不変のものでしょう。この意味で、私は自分の専攻やキャリアが何であるかよりも重要な質問をします。道徳に関するこの世の姿勢は緩くなっています。しかし、七番目の戒めとそれに関連する原則は存在し続けます。例えエイズや性病の治療が、容易にできるようになってもです。これは、皆さんにとって最も重要な全ての根本的な教義と疑問に永遠にわたって当てはまります。ある質問と答えは、あなた一人のものあるでしょうし、皆に共通するものもあるでしょう。例として、私たちすべてに当てはまる聖句を紹介しましょう。
アミュレクは晩年、素晴らしく模範的な宣教師であり教師でした。しかし、若いころはそうではありませんでした。アミュレクが認めているように、若いころの彼の優先事項は本来あるべき順位ではなかったかもしれません。しかし、アルマからの大きな助けを受けて、アミュレクは神が期待していた姿になることが出来ました。( アルマ8章 と 10章)自身の試練と経験から、また聖なる霊に教えを受けることで、アミュレクは教えている人の心の中にある「大きな疑問」が「その御言葉が神の御子の内にあるのかどうか、キリストが将来降臨されるのかどうか」であると理解しました。(アルマ34:5 )パリサイ人に「あなたがたはキリストをどう思うか」と尋ねた時、イエス御自身もこの核心を突く質問に辿り着きました。(マタイによる福音書22:42)
後に使徒パウロとなったタルソスのサウロは、ダマスコへの道中で劇的な体験をしました。それ以前、サウロは自分の信じていることに打ち込んでいるように見えましたが、適切な質問をしていなかったのかもしれません。サウロの注意を引くにはかなり大きなきっかけが必要でした。使徒行伝9章の話を見てみましょう。
ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。イエスが教える方法で尋ねる質問の役割をもう一度注目してみてください。
そこで彼は「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
生徒に、「主よ、わたしが何をすることをお望みですか」という質問について深く考えてもらいます。「さあ立って、町にはいって行きなさい。」そうすれば、そこであなたのなすべきことが告げられるであろう(使徒行伝9:3ー6)。
サウロは、主の問いかけに答えて、二つの非常に良い質問を尋ねました。ある意味で、サウロの最初の質問である「主よ、あなたは、どなたですか。」は、アミュレクが「大きな疑問」と思ったまま発した質問と同類です。サウロの二つ目の質問は、救い主に対する適切な返答でした。救い主は、パリサイ人に尋ねた時のように、「あなたがたはキリストをどう思うか。」と尋ねる必要はありませんでした。サウルは尋ねました。これは、「創世の前に」用意されていた者の直々の答えでした。どうやら一瞬にして、預言者ジョセフ・スミスが述べた揺るがない真理をサウロは理解し、記憶したようです。
わたしたちの宗教の基本原則は、使徒と預言者たちがイエス・キリストに立てた証です。 すなわち主が亡くなり、葬られ、3日目に再びよみがえって、天に昇られたことです。わたしたちの宗教にかかわるほかのすべての事柄は、それに付随するものにすぎません。[Teachings, 121]
パウロの疑問に対して答えを得たとき、パウロがどのような人となり、どのような働きをしたかを、私たちは感謝の念を抱きつつ知っています。同様に、救いの計画や神の王国における私たちの基本的な責任など、大きな疑問とそれに関連する救い主に関わる疑問を除いて、私たちのすべての疑問は、これらの中心的な真理に付随するものにすぎないと考えることができるでしょう。こうした二次的な、あるいは付随する質問の中には、私たちには至極真っ当な理由で非常に重要に思えても、他者や主にとってはそれほど重要ではないものもあるでしょう。「それはどうでもよい。」というフレーズは、モルモン書と教義と聖約の両方に複数回登場します。私たちの主に対する嘆願の答えが「それはどうでもよい」であったときの備えをする必要があります。そして私たちがこれまでに受け取ってきた答えに基づいて前に進み、責任ある行動に向き合う必要があります。
私たちの質問の答えには「それはどうでもよい」が含まれるかもしれませんが、時には答えだけではなく、質問そのものが極めて重要なこともあります。科学者が適切な質問をすることは不可欠ですが、私たちも人生の全ての段階で同じことをする必要があります。信仰深い末日聖徒でさえ、自分は特別な存在で、特殊な事情にあるのだから、戒めや標準(以前主から頂いた答え)は自分には少なくとも今回は当てはまらないと、誘惑に駆られてしまいます。什分の一と献金に関して、様々な経済的困難を抱える人たちからこの理屈を何年も聞き続けてきました。しかし、誠実さの問題や道徳規範、知恵の言葉などに関わる人たちにとっても、考えるに値する事柄です。これらの状況で、私たちが尋ねる質問は、誰もが問いかける質問のなかで、最も重要なものの一つです。
戒めや原則をどのようにして避けるか問うのは間違っています。より適切な質問は、次のような質問です。「私は困難な状況にいます。なぜ主(もしくは兄弟たち、両親、あるいは大学の事務局)は、このような状況でこの助言を下さったのですか?」
サウロが、「主よ、わたしが何をすることがお望みですか」と聞き返しましたが、無難な質問であるだけでなく、正しい質問でもあります。この質問と同じくらい適切な質問をすることは、必ずしも簡単ではありません。実際、最良の答えは試練が最も大きいときにやってくることが多いのです。
1838年から1839年にかけての厳しい冬の間に、ジョセフ・スミスと彼の仲間たちが、リバティーの監獄で経験した途方もない苦しみについて考えてみてください。苦しみの渦中にいた預言者の絶望感と、主に問いかけた嘆きのような言葉を想像してみてください。
おお、神よ、あなたはどこにおられるのですか。あなたの隠れ場を覆う大幕はどこにあるのですか。
あなたの御手はいつまでとどめられ、あなたの目、まことにあなたの清い目はいつまで永遠の天からあなたの民とあなたの僕たちへの不当な扱いを眺め、またあなたの耳はいつまで彼らの叫び声で貫かれるのですか。’
まことに、おお、主よ、彼らがどれほど長くこれらの不当な扱いと不法な虐げを受ければ、あなたの心は彼らに和らぎ、あなたの胸は彼らに対する哀れみの情に動かされるのですか。[教義と聖約121:1-3]
言葉にならない悲惨な状況のなか、主はジョセフが尋ねなかった質問を含め、分かりやすく答え、彼を慰めました。私たち一人一人に対してもそうであるように、主はその状況に対する御自身の理解を示してくださり、憐れみ深く、明確でした。(D&C 121-123)しかしその後、主は次の驚くべき答えを与えられました。その中には重要な質問も含まれていました。「人の子はこれらすべての下に身を落とした。あなたは人の子よりも大いなる者であろうか」。(教義と聖約122:8)
贖罪を執り行うため、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れてゲツセマネの園を訪れたときに三人が受けたあからさまな叱責について考えてみてください。主が苦悩と深い祈りのさなか、主が最も理解を示し、思いやりを持っていると考えていた弟子たちが眠っているところを見つけました。イエスは言いました。「ひと時も目をさましていることができなかったのか」。(マルコによる福音書14:37)
このような質問を主がわざわざ問いかけなくてもいいように、私たちが自分自身に尋ねると良いでしょう。
慎重で思慮深い質問は、する側にとっても受ける側にとっても、人生に欠かせないものです。求めるものをどのように捉え、質問にどう答えるかが、私たちの「第二の位」を守るため、すなわちこの世で幸せになり、来るべき永遠の命にふさわしくなるための努力とその進歩の成果を大きく左右するでしょう。(アブラハム3:26)ラドヤード・キップリングの『ぞうくん』では、次の良いアドバイスがあります。
私には六人の召使がいる。
(私が知っていることは彼らが全部教えてくれたのさ)
彼らの名前は「何を」、「なぜ」、「いつ」、「どうやって」、「どこで」、「だれが」なんだ。
『ジャスト・ソー・ストーリーズ 』(1902年)
私たちの最も大事な質問に対する最善の答えの根源について、私たち独自の視点を加えて、ヨハネの勧告を思い出してみましょう。
わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれてくださるということである。
そして、わたしたちが願いを求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。(ヨハネ第一の手紙5:14–15)
疑問を思慮深く、賢明に考え、問いかける時には大小様々な質問を尋ねるだけでなく、私たちが本当に知る必要のある御方から必要で素晴らしい答えを受ける特権があることに、感謝を常に表しますように。イエス・キリストの御名みなによって、アーメン。
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セシル・O・サミュエルソンは、2001年11月13日にブリガムヤング大学でこのディボーショナルの演説を行ったとき、末日聖徒イエス・キリスト教会七十人第一定員会の一員でした。