今日は、たくさんの友人や家族、そして愛する方々がここに来てくださり、心から感謝しています。皆さんがこの場にいてくれることに、本当に胸が熱くなります。実は、この説教をすることは2か月ほど前から決まっていました。正直に言えば、2か月は少し長すぎます。なぜなら、私はいつも、人生における恐怖の期間はできるだけ短い方がいいと思ってきたからです。しかし、実際には、この2か月は、ここに集まっている皆さんがどのような方々で、何が有益になるのかを考える時間となりました。人生の長い道のりをこれから歩もうとしている若い学生の皆さんのことを考えました。また、しばらく正規の学校教育から離れた後に戻ってきた、少し伝統的ではない学生のことも考えました。さらに、私たちのような教職員やスタッフ、そして遠くから足を運んでくれた大人の方々のことも思い浮かべました。そして、一緒に何を学べるか考えました。私のために、そして皆さんのために、私たちがともに学び、私が話すことが価値あるものとなるよう、皆さんのお祈りを求めています。
リー学長が述べたように、私は10人兄弟の末っ子として育ちました。私がすぐに気づいたのは最年少であることには長所もあれば短所もあります。利点の一つは、末っ子として甘やかされて育ち、両親にとって愛らしい存在であることです。欠点の一つは、末っ子として甘やかされて育ち、世の中の他の人々(きょうだいも含めて)は、決して自分を愛らしい存在だとは思ってくれない、ということです。もう一つの利点は、家族の誰よりも年下であるため、一般的に期待されることが少ないという点です。そして、もう一つの利点ではないことはまた、家族の誰よりも年下であるため、一般的に期待されることが少ないという点です。8歳になる前の、まだかなり幼いころに大人になるということ自体が架空のものかもしれない、と考えていたのをよく覚えています。大人になるというのは、イースターバニーや歯の妖精 (西洋において乳歯が抜けた時、抜けた乳歯を枕の近くに置くと、寝ている時に、その歯をもらい、その代わりにお金や贈り物を残してゆく妖精のこと)のように、大人が子どもに話すけれど実際には存在しないものの一つだと思っていたのです。大きくなったと言われても、他の人と同じ大きさにはならないことに気づいていました。私は誰にも追いつけそうに思えませんでした。兄弟たちは私よりずっと大きく、そしていつも私より優秀だったからです。私がようやく何かを成し遂げられるようになったときには、兄弟たちはすでに、さらに多くの、もっと素晴らしいことを成し遂げていました。私はいつも若すぎたり小さすぎたりして、彼らのしていることを真似することはできませんでした。重要なこと、意義のあることは、自分には決してできないのではないか、そう思えてなりませんでした。
それでも、私は何か重要なこと、意義のあることをしたいと願っていたのを覚えています。何か、違いを生み出せるようなことをしたいと思っていました。私はすぐに、世界に変化をもたらした人々がいることを知りました。成長するにつれて、公共図書館にある少年向け伝記のほとんどを読みました。ジョージ・ワシントン、フローレンス・ナイチンゲール、エイブラハム・リンカーン、クララ・バートンなどの物語から大きな励ましを受けました。私は映画を見に行き、ジャンヌ・ダルクやロビン・フッド、あるいはカウボーイのヒーローの一人でさえ、崇高な大義のために強敵と戦うのを見て興奮しました。
私は教会の教師の言葉に耳を傾け、サウル王とイスラエルの軍勢が天幕の中で縮こまり、どうすべきか思い悩んでいたときに、ダビデが恐れずにゴリアテに立ち向かったことが大きな違いをもたらしたのだと知りました。また、エステルが自分の命を懸けてハマンの裏切りを明らかにし、ハマンの企てた全面的な滅亡からユダヤ人が自らを守れるようにしたことも、重要なことなのだと分かりました。そして、美しい春の朝、ある14歳の少年が一人で森に入り、信仰を持って誠実に尋ね、その後に受けた答えに生涯忠実であり続けたことが、大きな違いを生んだことも知りました。私もまた、違いを生み出したいと心から願っていることが分かりました。
私がこれらのことをお話しするのは、子供の頃の夢を嘲笑するためでも、美化するためでもありません。ただ、それが当たり前のことだったと思うからです。すべての人ではないにしても、多くの方が人生のどこかで、そのような夢や願望を抱いたことがあるのではないかと思いますし、そうであったと望んでいます。また、皆さんが、ある時期に何か重要なこと、本当に違いを生むようなことをしたいと望んだことがあると思いますし、そのような願いを持ってきたと望んでいます。そのような望みは、神の子供である私たち皆に自然に備わっているものだと思います。今では、大人になってしまいましたが、その望みが消え去っていないように、今日、祈ります。そして、その望みが今も心に残っていることを願うのは、私は、大きな変化をもたらすということ、重要なことを行うということについて、お話ししたいからです。大人になってから、私はこの問題についていくつか新しい理解を得ることができました。
そして、この新しい理解こそが、今日、私がお話ししたいことです。これを今日話することで、皆さんの中の誰かが私よりも早くあるいは私より深く学べるかもしれません。また良い夢がもたらす甘美さや正しさ、そして希望を思い出せるかもしれません。またもう一度、救い主がその生涯と贖いを通してもたらしてくださった大いなる変化を、思い起こし、感謝することができるかもしれません。さらに、主の贖いによって、主は私たち一人一人も、大きな違いを生み出す者となることができるようにしてくださったと、私たちが気づけるよう願っています。
何か偉大なことを行うことについてのわたしの話は、教義と聖約64:33の聖句を基にしたいと思います。そこにはこう書かれています。「それゆえ,善を行うことに疲れ果ててはならない。 あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして、小さなことから大いなることが生じるのである」。この聖句を紹介するにあたって、まず皆さんに考えていただきたいのは、本当に、大いなることは小さなことから生じるのか、という点です。
よく考えてみると、この考えは、多くの点において、この世の多くの常識や教えとは矛盾しています。この世の人々は大いなるものから大いなるものが生まれると期待します。変化を起こすためには、人々は大声でわめき、叫ばなければならない。戦争を戦い、武器を集め、首脳会談を開かなければならない。そして、間違いなく、メディアがそれを記録し、世界が注目するものだと思いがちです。
しかし、主は不変の真理の律法によって、舞台裏で静かに働いておられます。そして、人は一人ずつ現れ、正しいことを支持するために立ち上がります。小さな経済的圧力や自然の力、あるいは見過ごされがちな小さな出来事が重なり合うとき、やがて「大きな」変化が起こります。そして人々は、その瞬間に立ち会いながらも、そのようなことががどのように生じたのかを不思議に思うのです。人々はベルリンの壁を取り壊し、その破片を家に持ち帰りました。しかし、壁を打ち砕いたのがハンマーやノミではなかったことを、朧げながら知っています。メディアが記録できなかった、あるいは記録しなかった数え切れない小さな出来事の積み重ねによって、大いなることが生まれました。
小さなことから大いなることが生まれるという真理を力強く教えてくれる例が、ほかに3つあります。例の1つは、最近よく話されているソルトレーク神殿です。1か月ほど前、私はソルトレークにある教会歴史博物館で、神殿に関する展示を訪れました。皆さんの多くと同じように、私も神殿建設に携わった人々の忍耐や創意工夫に深く心を打たれました。しかし、私に最も強い印象を残したのは建造物ではありませんでした。私は神殿を囲む当時のソルトレーク市の姿に目を留めずにはいられませんでした。そこには小さな家々、商店、通りが並び、町全体がちっぽけで荒涼として見えました。
その町に暮らして神殿を建てていた人々を思い描きました。馬に鋤をつけて山よもぎの地を開墾し、少しずつ収穫を得はじめていた農民――もっとも、彼らが馬を所有できるほど恵まれていれば、ですが。日干し煉瓦の家に住み、洗濯をし、子供を育て、家族に食事や衣服用意した主婦たち。そして金融や工業の中心から遠く離れた地で、なんとか商売をしようとするビジネスマン。
私は神殿完成時に残された報道の言葉を読みました。新聞各紙は、まさに偉大なことが成し遂げられたと驚嘆しました。新聞には書かれなかったことがたくさんあります。交換しなければならなかったひびの入った石、花崗岩を運ぶ牛車の折れた車軸、花崗岩の移動、何度も何度も鈍くなり、また研ぎ直された道具、建設されては放棄された運河、そして建築が後回しにされた人々の家々。それらはすべて問題でした。しかし、その数えきれない小さな積み重ねから、人々がのちに驚嘆し、賞賛することとなったあの大いなる神殿の建設が成し遂げられたのです。
数年前にも私は、自分がいかに、小さなことが生み出してきたものに対して盲目であったかに気づかされる経験をしました。私は研究プロジェクトのために、20世紀にメキシコ北部の末日聖徒が築いたコミュニティーの1つであるコロニア・フアレスを訪れることになりました。コロニア・フアレス出身の友人がテキサス州エルパソまで迎えに来てくれて、彼女の住む地域まで車で送ってくれました。その道中、西テキサスや北メキシコの風景を絵にしたような砂漠地帯をいくつも通り過ぎました。砂と土、サボテン、時折現れる小さなプエブロ(村)には日干しレンガの建物、壊れかけた車があり、舗装された道路は一本だけ——それが私たちの走っていた幹線道路でした。あたり一面が、暑さと砂埃に包まれているように見えました。約4時間後、道が下りにさしかかり、少し曲がりながら進んでいくと、角を抜けたその瞬間、突然コロニア・フアレスの町が目の前に広がったのです。私は驚いて何も言えませんでした。そこには、美しい果樹園や、庭のある煉瓦造りの家々、通りの溝を流れる水、そして豊かな木陰をつくる木々が並んでいました。もし自分がどこにいるのか知らなかったら、ここはユタ州で見慣れた小さな町の 1つだと信じて疑わなかったことでしょう。すべてがそっくりに見えました。そして私は、ユタ州の小さな町や大都市が特別なのは、その規模や古風さゆえではなく(洗練された人々はそう考えるかもしれませんが)、コロニア・フアレスのように、砂漠から築き上げられた町だからだと気づきました。多くの人々の小さくとも前向きな行いが積み重なり、大きなことが成し遂げられ、そこに真の奇跡が生まれたのです。
小さなことから大いなることが成し遂げられるという最後の例は、私自身のチリでの経験です。私は25年前、チリで伝道しました。そして今年7月、フルブライト奨学金を受けて、約6か月間チリに戻る機会がありました。この国が成し遂げた経済成長と力強さを見られて、嬉しかったです。しかし、それ以上に驚いたことは、教会の成長を実際に目にすることができたことです。私が初めてチリを離れたときには、ステークは一つもありませんでした。今回再び去るときには、すでに55を超すステークがありました。私が初めてチリに到着したとき、会員数はおよそ1万6千人でした。しかし今回は、会員数は10万人をはるかに超えていました。
けれども、私にとって個人的に最も感銘深かったのは、その数の増加ではなく、質の面での成長でした。25年前にチリで出会った人々の何人かを訪ねる機会がありました。私が教えていたバプテスマを受けていない人々を訪ねました。また、バプテスマを受けた後に道を踏み外してしまっていた人々も訪ねました。バプテスマを受け、教会に出入りしていた人々を訪問しました。バプテスマを受けて、活発にとどまっていた人々を訪問しました。伝道に出て自ら奉仕した人、もう少し年齢が上の場合であれば自分の子どもを伝道に送り出した人、神殿で結婚し、召しを受けた場所で、召しを果たしている人々とも会いました。そこに私は違いを見ました。まるで4つの異なるグループを対象にした長期的な実験を観察する機会を得ることが出来たかのようでした。そこで私は、特定の処置が違いをもたらすこと、小さなこと、小さな不確定要素が、どれほど大きな違いを生み出すかを理解することができたのです。いつも活発に集ってきた会員たちの個人的な平安、深みのある人格、そして幸福を目にしました。その家族の強さと、その強さによって子どもたちが受けてきた良い結果も見ました。また、彼らの増し加えられてきた能力と、教会での奉仕や職場での働きが、そのような能力によってどのように支えてこらえたかも知ることができました。彼らが、どれほど物質的にも、知的にも、霊的にも成長していたかを見ることができました。私は文字通り、彼らの生活における福音の実を見ることが出来たのです。この実は、小さなことから始まった大いなることであり、バプテスマを受ける決断、活発で居続ける決断、指導者の助言に従う決断、そして奉仕する決断が、すべてその実を結んでいました。私は、そこから生じた大いなること、すなわち、偉大な人格、平安、幸福という成果を目の当たりにしました。そして、これからはさらに大いなることが起こると信じています。私は彼らから、小さなことが大きな違いを生むことを学びました。
ここで、私たち一人一人が生活や大切な事柄に変化をもたらすために、どのような小さなことに取り組めるのかについて、お話ししたいと思います。その1つが、チリの例によく表れています。それは、主を信頼し、信じるという小さな決断です。
数年前、非常に優秀なある私の教え子が、自分の証について疑問を抱いていました。彼女は、どういうわけか、教会について祈っても力強い答えを受けたことがないと感じていたのです。助けになりたいと思い、話をしたとき、彼女が語った言葉は、その簡潔さと真実味ゆえに、今もなお私の心を打ち続けています。「はい、教会は良いものだと考えられる論理的な理由はたくさんあります。けれども結局、教会が真実であると信じる人は皆、信仰によってそれを行っているのです。信じることを選ばなければなりません」。
彼女の言葉は真実です。遅かれ早かれ、誰もが信じるか否かを選ばなければなりません。私たちは、教会が真実であると受け入れるときにもたらされる御霊の甘美さを認めることを、選ばなければならないのです。教会とモルモン書が真実かどうかを主に祈り求めるとき、「すでに真実だと知っている」という思いが、私たちの心のすべて御存じの御方から来ていることを認めなければなりません。そして確かに、私たちはそれらが真実だと知っていると認めなければなりません。
しかし、信じるという決断は、十分な証拠もなく行わなければならないものではありません。私の以前の教え子の思いを聞いた後、どうして私は信じているのか、自らの人生を改めて吟味しました。教会の教えに従うことに関連して、真の喜びと幸福を数え切れないほど経験してきたことを思い起こしました。たとえ教会が真実であるという御霊からの平安の確認をはっきりと受けていなかったとしても、信じて従うことを選ぶだろうと気づきました。なぜなら、その道を選ぶとき、幸せになれるからです。また、間違った選択をして真の幸福と平安を得た人には、これまで一度も出会ったことがないことにも気づきました。試した人を何人か知っていますが、その多くは当初、幸せだと主張していました。しかし、そのうちの何人かは後に、自分の選択の結果と向き合い、自分たちの主張が偽りであったこと、そして偽りの父にだまされていたことを、涙ながらに告白しました。私は、教会と福音を信じるという決断は小さなことであり、そこから大いなる祝福が生じることを知っています。そして、一度もしくは複数回、信じることを拒む選択が最終的には悲しみをもたらすことも知っています。
しかし、偉大なことを成し遂げるために必要なのは、教会と福音を信じるという決断だけではありません。私たちはまた、主の御言葉を信頼し、それが自分自身にも当てはまることを理解する必要があります。若い頃にとある経験をしました。以前にも別の場でお話ししたことがありますが、今お伝えしたいことをよく表しているので、ここでもう一度お話ししたいと思います。
字が読めるようになってすぐ、10歳年上の兄の寝室のドアに、「立入禁止!これはお前のことだ。」という看板が掛けられているのを見つけました。その看板を見たとき、なんとも言えない不思議な気持ちになったのを覚えています。兄はいったい誰を部屋に入れたくなかったのでしょうか。兄の部屋は地下室のいちばん奥にあり、近所の子どもたちは誰もそこに行くようには思えませんでした。私は自由に兄の部屋を出入りしていたので、兄が誰のことを言っているのか、まったく見当がつきませんでした。何年も後、私が自分自身も十代になってからその看板を再び見たとき、ようやくそれが誰のために書かれていたのかに、突然、気づきました。当時の私が自分のことだと気づかなかったため、その看板はまったく効果がなかったのです。
多くの人が、福音の教えに対しても同じような態度をとっているのではないでしょうか。福音が真実であることは知っていても、個々の教えが自分自身や自分の状況に直接当てはまるとは思わないのです。たとえば、私たちが正直に什分の一を納めるなら、主が「天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐ」こと、そして神が「食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえる」という約束を、信頼していないことがあります (マラキ3:10-11)。それは、自分たちのように経済的な問題を抱えていない人々への約束だと考えてしまうのです。
あるいは、安息日を正直に守ることが「目を楽しませ」、「心を喜ばせ」、「体を強くする」、「霊を活気づける」こととは関係がないと思うこともあります (D&C 59:18-19)。しかしこれらのことは、「世の汚れに染まらず、自らをさらに十分に清く保つ」という能力と同様に、約束されているのです (D&C59:9)。と 安息日を守ることは、3時間の集会に出席している間だけ、あるいは私たちほど忙しくない人々にだけ当てはまると考えてしまうのです。つまり、私たちは主の言葉を信じることを選んでいないのです。
私は、パーリー・P・プラットが自伝の中で述べている、主の御言葉をどのように、そのまま信頼したかという話が大好きです。パーリーは聖書を調べ、主がご自身に従う人々に約束されたすべての祝福を見つけ出しました。彼はそれぞれの祝福の言葉を一枚一枚の紙に書いて箱に入れ、「宝物」と呼んで持ち歩きました。それらの祝福はすでに与えられたものとして数えていたのです。彼は、その祝福が必ず実現すると絶対の確信をもっていました。しかも、パーリーは福音の回復について耳にする前に、すでにこのことを行っていたのです。後に、彼は回復がもたらす祝福を信頼し、バプテスマを受けて従うことを選びました。この小さな決断が、彼にとって大いなる祝福への鍵となりました。福音を信じ、すべてのことにおいて主の言葉を信頼するという決断は、私たちにとっては小さなことですが、それもまた、私たちにとって、大きな祝福への鍵となります。
私がお話したい、主を信頼するというもう一つの小さな決断の具体例は、悔い改める決意についてです。私たちは、罪から離れないまま隠しておくことがないように、また、悔い改めの過程を軽んじないように注意する必要があります。私は、悔い改めるために克服しなければならない最大の障害の一つが、自分自身の高慢であることを学びました。悔い改める必要があることを認めるには、本当に深い謙虚さが求められます。にもかかわらず、聖書にはこう書かれています。「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって〔います。〕」 (ローマ3:23)。私たちには時々、自分がしたことはそれほど悪くないと考える傾向があります。自分の欠点を積み上げ、それを、隣人やルームメイト、夫や妻、同じワードの会員の欠点と照らし合わせて評価し、自分は、なかなか良い人のようだと思い込んでしまうのです。しかし、もし私たちが自分自身にほんとうに正直であり、主がご覧になっておられるものを見ようとするなら、私たちは自分が「はかりで量られて、その量の足りないことがあらわれた」ことに気づくでしょう (ダニエル5:27)。完全に至るまでの道は、一連の「小さな」悔い改めを通らなければ進むことができません。しかし、正しいことや善いことを充分、行っていないこと、また、間違ったことをしたことを認めないかぎり、その道を歩むことは決してできないのです。ですから、正直に自分の罪を見つめ、それを克服しようとすることは、たとえ小さなことであっても、実に重要なことなのです。
私は自分の経験から、悔い改めの過程において聖霊が大いに助けてくださることを知っています。私たちが求めるなら、主は私たちの罪を明らかにしてくださいます。それは、私たちが自分の過ちに圧倒されて落胆してしまうような、一度にすべてを示す形ではなく、私たちが対処できるときに、適切な割合で、一つずつ示してくださるのです。聖霊は、今いる場所から行くべき場所へと、私たちを導いてくださいます。ここでも、信頼が試されます。バプテスマは永遠の聖約であり、自分の罪を認めて悔い改めるときに、主が私たちを清めてくださると信じなければなりません。
聖餐は、バプテスマの聖約とその永遠の意義を思い起こさせ、悔い改めの過程を助けるために備えられた、毎週の小さな機会です。この小さなことから、私たちの霊的成長にとって非常に大きな祝福がもたらされるのです。私が若いころ、優れたセミナリー教師であったボイド・ビーグリー兄弟から学んだ教えを紹介したいと思います。それは、私を長年にわたり、繰り返し、数え切れないほど祝福してきた、聖餐の受け方についての教えです。
ビーグリー兄弟は、毎週、聖餐を受けるたびに、ただ「悪いことをして申し訳ない。もっと頑張ろう。」と思うだけではなく、私たちは自分のことを真剣に吟味し、それまでの一週間で、ご自身の血を流された主を悲しませるかもしれない具体的な行いを思い起こすべきであると勧めました。私たちは行動だけでなく、前回、聖餐を受けてからの思いや態度も振り返るべきです。
心からへりくだり、主の助けを求めるなら、聖霊は私たちが自分の短所や欠点の中から、これからの一週間で最も取り組むべきことを1つ選び取れるよう助けてくださいます。毎週新しい課題に取り組むこともあれば、数週間にわたって同じことに努力を続けることもあります。また、ときには繰り返される過ちや自分の最も大きな弱点に立ち返ることもあるでしょう。御霊が主にとって最も喜ばれないこととして示されるものが何であれ、私たちはそれに取り組む決意をしなければなりません。そのうえで、次の一週間に自分を誘惑に陥らせる可能性のある時間帯や状況を考え、誘惑を避け、あるいは克服するための具体的な方法を前もって計画するのです。そして、私たちは聖約における自分の役割を思い起こし、いつも主の御霊を受けられるようにと願いながら 聖餐を受けるのです。その一週間、私たちは最善を尽くすよう努めます。選んだ弱い分野において最善の努力をするのです。翌週、再び聖餐の席に着くとき、私たちは、再び自らを吟味します。そのときもまた、御霊が私たちに次に取り組むべきことを示してくださいます。そして、私たちが正直に努力し、悪に打ち勝つとき、赦しの平安を感じられるようにしてくださるのです。もう一度申し上げます。私たちは主を信頼することを選ばなければなりません。私たちは、主がこう仰ったことを覚えておかなければなりません。「見よ、自分の罪を悔い改めた者は赦され、主なるわたしはもうそれを思い起こさない」。 (教義と聖約58:42) 重荷を背負い続けたり、自分を決して赦さずに責めたり、自分は全く良い人間ではなく、主が愛し、赦すにはあまりにも弱いと考える必要もありません。主が私たちを祝福してくださるのは、必ずしも、私たちがふさわしくて善良だからという理由ではなく、主ご自身が善であり、完全にふさわしくあられるからです。この一連の過程は、実際には小さなことですが、私は自分の経験を通して、それが実際に人生を大きく変える力を持っていることを証します。主を心から信頼すること、そして毎週、正直に悔い改めるという、この2つのささやかな行いを、心からお勧めします。
それでは、お話したい最後の質問に移りたいと思います。この2つの小さなことから、どのような大いなることが生じるのでしょうか。文字どおり、これらは生まれながらの男性、女性をキリストのような男性、女性に変える力を持っています。普通の男性、女性を神のような人へと変えることは決して容易なことではありません。私たちの働きがメディアに取り上げられることは、決してないかもしれません。私たちの行いが世の中の何らかの「トップ10」リストに載ることも、ないかもしれません。しかし、私たちがしていることがどれほど重要であるかを示す、これ以上により良い証拠があります。それは、万物の中で最も偉大であり、すべての事物の真の価値を理解し、ご自分が望むどのような業にも携わることのできる御方、まさにその御方ご自身が、この業に携わっておられるということです。「見よ,人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと,これがわたしの業であり,わたしの栄光である」。 (モーセ1:39) 私たちは、小さな事柄に心を奪われて、この重要な業から離れてしまうこともできますし、主が定められた静かな方法で、この更に大いなる業に携わり、それが永遠に終わりなく、違いをもたらすことを知ることもできるのです。
数年前、ある有名な映画監督について書かれた新聞記事を読みました。その記事には、その映画監督の言葉が引用されており、監督が誰だったかは思い出せませんが、私は、その言葉を信じており、その言葉は、今も私の心に残っています(私がその言葉を引用すると、多くの人が「それはおそらくフランク・キャプラだ」と言います。)監督は「性格は運命だ」と言いました。私はそのことを信じています。私は、真の自分が「明らかになる」と信じています。致命的な欠点や、静かに育まれた長所は最終的に結果をもたらすこと、私たちの行く末は、気づいたかどうかにかかわらず、何をしたかだけでなく、どのような人物になったかによって決まるのです。小さなことによって、私たちは偉大な人になっていくのだと信じています。
そして、これらの小さなことを行うことがより大きな社会に違いを生じさせるのだと思います。さらに、それは私たちの子どもたちにも受け継がれていくことに違いをもたらすと思います。もし私たちが小さいけれども正しいことを行うなら、子供たちにより良い世界と真理と永遠に対する、より広い視野を与えることができるのです。その小さなことを行うならば、現在、将来の社会に大きな違いがもたらされるでしょう。その小さなことが恵まれない環境にいる人を救い出し、鍵や鍵穴がなくても隣人が安全に生活することにつながったり、あらゆる形の虐待が次の世代へと受け継がれることを止めることになるかもしれません。そして、優しさ、思いやりと犠牲を捧げる愛を社会的な規範とするならば。これまでお話ししてきた小さなことが、やがて私たちすべてにとって本当に偉大なこと、すなわち、すべての神権時代の預言者や聖徒たちが長い間、預言し、待ち望んできたことへとつながっていくと、私は信じています。心の清い者の町であり、子羊の血によって、一人一人、一つ一つの罪を洗い流した者の町であるシオンを築くことができると心から信じています。
前回、チリを訪れたとき、私は人々の生活に現れた個々の成果以外のものを見ることができました。それは、個人が変われば、社会も変わるということでした。例えば、教会が数十年前から存在していた地域では、どのような成長があり、どのような社会が築かれてきたかを見ることができました。それは、25年前に私がそこにいたときとはまったく違う社会でした。状況は良くなり、人々の期待も高まりました。一方で、教会がまだ存在していなかった地域では、いまだに社会が不親切や卑しい行い、そしてあからさまな不正直に支配されているのを目にしました。そして、ここに戻ってきました。ここは、数世代にわたって教会とその教えの影響を受けながら成長してきた場所です。私たちの周りを見渡すと、まだシオンに完全に到着したわけではありませんが、教会が始まった当初よりも、確かにその到着に近づいていることが分かります。私たちがシオンに到着する速さは、私たち一人ひとりにかかっています。
私の子供の頃の夢に立ち返りましょう。私たちは本当に、何か大切なことを行いたいのでしょうか。私たちは本当に、意義のあることを成し遂げたいと願っているのでしょうか。私たちは本当に、世界に違いを生み出せるようなことをしたいと思っているのでしょうか。その機会は私たちの手の中にあります。そして、私たちの準備が出来た時、キリストは再び来られます。
ですから、最初に読んだあの聖句をもう一度思い起こしましょう。パーリー・P・プラットのように、主の確かな約束を思い起こすために、それを紙に書いて、いつも持ち歩くことができるかもしれません。「それゆえ,善を行うことに疲れ果ててはならない。 あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。そして、小さなことから大いなることが生じるのである。」(教義と聖約64:33)
私たち一人一人が、主の目的を理解し、主が私たちの中の偉大なものをもたらすことを可能にするような小さなことを行う決意をすることができますように。私たちが行うなら、主は必ず行ってくださると知っています。私たちがこれを実行できるように祈ります。これらのことをイエス・キリストの御名により申し上げます。アーメン。
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