ディボーショナル

「観察が鋭い」

十二使徒定員会

2024年2月24日

信仰が奇跡に先立つように、水のバプテスマが火のバプ テスマに先立つように...観察が鋭いことは識別の賜物を持つ前提条件であり、準備となるのです。

必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。

兄弟姉妹、わたしとベドナー姉妹はこうして皆さんとともにいられることをうれしく思います。わたしたちは30年以上にわたって大学生活に熱心に取り組み、そして教会の若い人たちを愛しています。今朝皆さんと過ごした時間は、わたしたちにとって神聖な特権です。わたしは今から必要不可欠な霊的真理について皆さんと話すので、聖霊の助けを求め、招きます。

1987年10月の総大会で、十二使徒定員会のマービン・J・アシュトン長老は霊的な賜物について話しました。わたしは当時、長老のメッセージから大きな影響を受けました。そして、その教えは今もわたしに影響を及ぼしています。メッセージの中でアシュトン長老は、あまり目立たない霊的な賜物、すなわちわたしたちの多くがあまり認識していない属性や能力について例を挙げて説明しました。アシュトン長老が強調したものには、例えば、人に質問をする、人の話によく耳を傾ける、静かな細い声に聞き従う、人のために嘆き悲しむ、争いを避ける、人当たりがよい、むなしい言葉を繰り返さない、義を追い求める、神に導きを求める、キリストの弟子としてふさわしい生活をする、人々に関心を向ける、物事を深く考える、力強い証を述べる、聖霊を受ける、などがあります(マービン・J・アシュトン、『聖徒の道』1987年 11 月号、20-22 参照)。

今朝は、もう一つの一見単純で、しかも正当に評価されていないと思われる霊的な賜物である「観察が鋭い」という能力についてお話ししたいと思います。現在また未来に生きている皆さんやわたしにとってこれはきわめて重要な賜物である理由を説明してみます。

観察が鋭いという霊的な賜物

わたしたちは皆、モルモン書の主な登場人物から重要な教えを学んでいます。ニーファイやレーマン、アルマやノア王、モロナイやそのほか大勢の人物の生涯について読んだり研究したりするとき、なすべきことと、してはならないことが分かりますし、なるべき人物と、なってはならない人物についてよりよく理解できます。

わたしはモルモン書の研究において、ニーファイ人の記録の主要な編者であるモルモンの特定の記述に特に感銘を受けました。この高潔な預言者の記述の中で、特に注意を向けたいのは、モルモン書第1章の最初の5節にあります。

「さて、わたしモルモンは、自分がこれまでに見聞きしたことを記録して、これをモルモン書と呼ぶ。

アマロンは数々の記録を主に託して隠したころ、わたしのところにやって来た。(当時わたしは十歳くらいで〔あった〕)そして、アマロンはわたしに言った。

『わたしはあなたがまじめな子供で、観察が鋭いことを知っている。

だから、あなたが二十四歳くらいになったら、この民についてあなたが見てきたことを思い出してもらいたい。

そして、この民についてあなたが見てきたことをすべてニーファイの版に刻みなさい。』

わたしモルモンは…アマロンから命じられたことを思い出した。」 (モルモン1:1-5)

これらの節では、「観察」が(日本語のモルモン書では「見てきた」も含まれ)3回使用されていることにご留意ください。モルモンは、若いながらも「観察が鋭い」と形容されています (モルモン1:2)。皆さんが大学生として研究し、学び、成長していくに従って、観察が鋭いとはどういうことかについて学び、実際に観察の鋭い人物になってほしいとわたしは願っています。皆さんの今後の成功や幸福は、大部分この霊的な能力によって決まるからです。

どうぞこの霊的な賜物の大切さについて考えてください。聖典に見られるように、「観察」という言葉には主に2つの使い方があります。1つには「注意を向ける」「理解する」「気づく」という意味があります。これはイザヤ書42:20から学ぶことができます。「多くの事を見ても認めず、耳を開いても聞かない。」

2つ目には「従う」「守る」という意味もあります。このことは教義と聖約によって明らかです。「しかし、聖約を守り、戒めに従ってきた者は幸いである。彼らは憐れみを受けるからである。」(教義と聖約 54:6)

ですから、観察が鋭ければ、わたしたちは即座に注意を向けて従うでしょう。注意を向ける、そして従うという二つの基本要素は、観察が鋭くなるためには不可欠です。預言者モルモンは、この賜物を用いた見事な模範です。

観察が鋭いという賜物に恵まれている場合に学べる教訓の例をいくつかご紹介します。

わたしには、ステーク会長としてかつて奉仕していた親しい友人がいます。彼が管理していたステークの祝福師は、健康上の問題があって、召しを果たすことができませんでした。病気で苦しんでいた祝福師は、動き回ることや着替え、 身の回りのことをするのも困難で、体力も限界に達していました。ある安息日の午後、ステーク会長は、祝福師を励ますために、また暮らしぶりを確かめるために彼の家を訪れました。ステーク会長が家に入ると、祝福師がスーツに白いシャツとネクタイを身に着け、居間のリクライニングチェアに座っているのを見つけました。ステーク会長は、愛する祝福師に挨拶をしました。そして、彼にとっては着替えさえも大変なことだと知っていたス テーク会長は、安息日にスーツに着替える必要はないし、訪問者に会う必要もないと丁重に提案しました。祝福師は、優しいながらもきっぱりした口調でステーク会長にこう答えました。「今のわたしにとって、これだけが、主をどれほど愛しているかを示す唯一の方法なのですよ。」

そのステーク会長は観察が鋭い人でした。彼はこの教訓を理解し、心にしっかり受け止め、生かしました。ステーク会長として、安息日を尊重し、安息日にふさわしい服を着て、適切に振る舞うことを、さらに重要視するようになりました。その教訓を見、聞き、覚え、そして実践する霊的な能力は、彼の生活だけでなく、多くの他の人々の生活にとって大きな祝福でした。

聖餐会に出席する前に、ベドナー姉妹は「御霊によって、助けが必要な人々に気づけますように」と、よく祈ります。集会に集まった兄弟姉妹や子供たちに注意を向けるとき、彼女はしばしば、ある人を訪問したり、電話をかけたりするようにという霊的な促しを感じます。そしてそのような霊感を受けると、ベドナー姉妹は即座にそれにこたえ、従います。多くの場合、閉会のお祈りで「アーメン」と言い終わるやいなや、10代の若者と話をしたり、ある姉妹を抱き締めたり、家に戻ってからすぐに電話をかけたりするのです。わたしがベドナー姉妹を知るようになって以来ずっと、人の必要を識別し、それにこたえるベドナー姉妹の能力を見て、人々は驚嘆しています。ベドナー姉妹はしばしばこう尋ねられます。「どうして分かったの?」観察が鋭いという霊的な賜物のおかげで、 ベドナー姉妹は周囲の人を理解し、即座に行動できるようになりました。そして、多くの人の人生を祝福してきたのです。

学長のサミュエルソン長老は、毎月ソルトレーク・シティーで開かれる教会教育管理会集会に参加しています。ヒンクレー大管長はその理事会の議長を務めています。大管長会顧問、十二使徒定員会の会員数人、そのほかの中央幹部と中央補助組織指導者もこの管理会に参加しています。ブリガム・ヤング大学アイダホ校での奉仕期間、わたしは毎月の理事会にも参加するという祝福にあずかりました。

2004年6月の理事会の終わりに、ヒンクレー大管長はデビッド・B・ヘイト長老に閉会の祈りをささげるよう呼びかけました。これは、ヘイト長老が参加した最後の理事会集会でした。97歳のヘイト長老は立ち上がって祈りをささげようとしましたが困難でした。

何度か立ち上がろうとした後、ヒンクレー大管長は丁寧に「デビッド、大丈夫です」と言いました。その「大丈夫です」というのは、ヘイト長老が椅子に座って祈りをささげることは大丈夫だという意味だとわたしは思います。

ヘイト長老は確固とした適切な声で答え、「大管長、わたしは立たなければなりません」と言いました。

この信仰強い使徒が、大管長会と十二使徒の同僚の前で座って祈ることは決してありませんでした。そしてもっと重要なことは、天の御父と話すときに座るつもりはなかったことです。それでヘイト長老は再び立ち上がる努力をし、成功しました。ヘイト長老の祈りを聞いたときにわたしが感じた御霊を決して忘れません。そのとき、常に祈りに伴うべき尊厳と謙虚についての力強い教訓をすぐに観察したのであればいいと願っています。現在のわたしの召しで、わたしはヘイト長老の模範に祝福され、その日見たこと、感じたこと、そして学んだことに深い感謝の気持ちを感じています。

ベドナー姉妹とわたしの知り合いのある帰還宣教師は、一人の若い女性と一時期付き合いました。彼は彼女がとても好きでした。もっと真剣に交際したいと望んでいました。彼女と婚約し、結婚することを深く考え、そうなることを望んでいました。二人が交際しているときに、ヒンクレー大管長から扶助協会の姉妹や教会の若い女性に向けて、イヤリングは1組だけにするようにとの勧告が出されました。

この若者は、彼女が余分なイヤリングを外すのを辛抱強く待っていました。しかし彼女は外しませんでした。このことは、彼が判断を下すに当たって貴重な情報となりました。預言者の訴えに従おうとしない彼女に対して、気持ちが揺らいできました。このことやそのほかの理由から、彼は結局彼女との交際をやめました。なぜなら彼は、何事においても、いつでも、預言者の勧告に即座に従う勇気を持つ永遠の伴侶を探していたからです。観察が鋭い彼は、彼女の観察が鋭くないことに気づいたのです。

続ける前に、皆さんの中には、この3つ目の例に納得のいかない人がいるかもしれないと思います。実際、観察が鋭いこの若者の例が、キャンパスで論争の炎を煽り、 デイリーユニバース(キャンパス新聞)に異を唱える手紙が投稿されるかもしれません!若者の判断は性急すぎると思うかもしれません。永遠にかかわる重要な事柄を決めるのに、そんな小さな問題を判断基準にするのはばかげている、偏狭だと思うかもしれません。たぶん、話の焦点が若い兄弟ではなく、預言者の勧告に従わなかった若い姉妹に向いていることが、納得のいかない原因なのかもしれません。深く考えてみてください。観察が鋭いことでどのような力を得ることができるでしょうか。また、この例の場合、実際には何が観察されたのでしょうか。問題はイヤリングではないのです!

最後の例です。わたしは長い間、ニーファイ第一書の第11章から第14章まで記された、主の御霊とニーファイとの交流に心を引かれてきました。ニーファイは父リーハイが命の木の示現で見たことを(第1 ニーファイ8章参照)、自らも見、聞き、理解することを望みました。第11章から第14章まで、聖霊はニーファイに、父リーハイの示現の意味について教えています。興味深いことに、これらの章の中で、主の御霊はニーファイに13回も「見なさい」と命じています。見ることは、学ぶ過程において基本となります。ニーファイは見るように繰り返し促されました。観察が鋭かったおかげで、ニーファイは命の木 (第1 ニーファイ 11 : 8)、救い主の母(第1 ニーファイ 11 : 20)、鉄の棒 (第1 ニーファイ 11 : 25)、そして神の小羊、すなわち永遠の父なる神の御子 (第1 ニーファイ 11 : 21) を見ました。

わたしは、ニーファイが見た霊的に重要な事柄をほんのわずかだけ述べました。これらの章をもっと深く研究し、ニーファイの経験を通して、ニーファイがどのように学んだか勉強してください。研究し、深く考えるときに、もしもニーファイが観察の鋭い人でなければ、ニーファイは見たいものも見られず、理解すべきことも理解できず、また、最終的になすべきこともできなかったということを心に留めてください。兄弟姉妹の皆さん、この真理はわたしたちにも当てはまります。

観察が鋭いこと。即座に注意を向け、従うこと。この単純な賜物によって、わたしたちは個人的にも家族としても祝福され、ほかの大勢の人々をも祝福することができます。わたしたちは皆、観察が鋭いという、この価値ある霊的な賜物にふさわしくなれるよう努力することができますし、努力するべきなのです。

観察が鋭いことの重要性

さて、この観察が鋭いという霊的な賜物が、皆さんやわたしが現在と将来を生きるこの世にあって、なぜそれほど重要なのかという疑問に答えましょう。簡単に言えば、観察が鋭いことは、霊的な識別の賜物に先立ち、識別の賜物に結びついているからです。皆さんにとってもわたしにとっても、識別の賜物は、ますます暗くなっていく今の世にあって、防御と導きの光なのです。

信仰が奇跡に先立つように、水のバプテスマが火のバプテスマに先立つように、福音の基本原則が複雑な教義に先立つように、清い行いが心の清めに先立つように、 アロン神権の儀式がより高度なメルキゼデク神権の儀式に先立つように、観察が鋭いことは識別の賜物を持つ前提条件であり、準備となるのです。観察が鋭ければ、見て従っているならば、識別の賜物やその防御と導きの光を天に願うことができるのです。

4人の大管長の顧問を務めたジョージ・Q・キャノン管長は、識別の賜物について力強く教えています。

「主との聖約に入った人々に主が約束された福音の賜物の一つは、霊の識別の賜物です。多くの人々がそれほど考えもせず、恐らくほとんど祈り求めることもない賜物ですが、実は非常に価値があり、すべての末日聖徒が持つべき賜物です。

さて、霊の識別の賜物を有する男女は、他人の心に入って影響を与える霊を、識別する力が与えられます。さらに、自分自身に影響を与える霊を識別する力も与えられます。この賜物を持つ人は偽りの霊を見抜くことができます。神の御霊がともにあるときにそれを知ることもできます。末日聖徒の私生活において、この賜物は大変重要です。この賜物を持ち、使うなら、どんな邪悪な影響力にも、その人の心に入り、思いや言葉や行いに影響を与えることは許さないでしょう。その人は邪悪な影響力を追い払います。たとえそのような霊が入り込んだとしても、すぐさまその影響に気づいて追い出してしまいます。言い換えればそのような霊に導かれたり促されたりすることを拒むのです。」[Gospel Truth: Discourses and Writings of President George Q. Cannon, comp. Jerreld L. Newquist (Salt Lake City: Deseret Book, 1974), 1:198–99]

この霊的な賜物が今日の生活にどれだけ必要か分かりますか。観察が鋭いことによって、識別の賜物をどれほど豊かに恵まれるか分かるでしょうか。

デビッド・O・マッケイ大管長の顧問を務めたスティーブン・L・リチャーズ管長は、識別の本質と祝福について次のように教えています。

「まず、識別の賜物について言及しますが、これは善と悪を…差別する力を体現しています。この賜物が非常に研ぎすまされると、主に印象、言ってみれば霊的な印象に対する鋭い感受性から生じると信じています。うわべの下を読み、隠れた悪を見つけ、そしてさらに重要なことに、隠されているかもしれない善を見つける霊的な印象です。最良の識別は、他の人のより良い性質、彼らの持って生まれた善を見通し、彼らに明らかにしてあげるものです…

…回復されたキリストの教会の会員はすべて、望むならこの賜物を得ることができます。この賜物を持つ人は世の詭弁に欺かれることはありません。また、偽預言者や破壊的な偽りの宗教に惑わされることもありません。経験の浅い人たちでさえ、少なくともある程度は、偽りの教えを認識することができるでしょう…わたしたちはこのような感覚を持っていることに毎日感謝すべきです。この感覚のおかげで、善悪の観念が常に働き、罪や悪事を働く人の内にある危険に対して絶えず警戒することができるのです。」(CR 、1950年4月、162–63;強調追加)

キャノン管長とリチャーズ管長の教えをまとめると、識別の賜物は基本的にはおもに4つの方法で作用することが分かります。

第1に、「うわべに表れない事柄を読み取る」ときに、識別の力によって、他人の隠れた過ちや悪を見抜くことができます。

第2に、もっと重要なことですが、識別の力によって、わたしたち自身の隠れた過ちや悪を見抜くことができます。したがって、霊的な識別の賜物は、人や状況を識別するためだけでなく、キャノン管長が教えたように、わたしたちの内にあるものの真の姿を識別するためにもあるのです。

第3に、識別の力により、ほかの人の隠れた善を見いだし、明らかにすることができます。

第4に、識別の力により、わたしたち自身の隠れた善を見いだし、明らかにすることができます。霊的な識別の賜物は、すばらしい祝福であり、防御と導きの源なのです!

キャノン管長とリチャーズ管長が説いた、隠れた悪を見抜き、表面に表れない善を見いだす識別能力の教えは、リーハイの示現の中の一つの要素について考える際に、さらに貴重な意味を持ってきます。この示現の中では、様々な人々が命の木へ通じる道にたどり着こうとして、押し進んでいました (第1ニーファイ8:21参照)。鉄の棒に沿って細くて狭い道があり、木の所まで続いていました (第1ニーファイ8:20参照)。示現の中で述べられている暗黒の霧とは、悪魔の誘惑を表しています。悪魔の誘惑は人の子らの目をくらまし、広い道に踏み込ませ、迷わせるのです
(第1 ニーファイ12:17 参照)。さて、ニーファイ第一書8章23節に特別な注意を払ってください。この聖句を現代に当てはめて、ますます邪悪になっているこの世の中でわたしたちが出遭う試練に当てはめてみてください。

「さて、暗黒の霧が起こった。まことに、非常に深い暗黒の霧であったため 、道を歩き始めていた人々は道を見失い、迷って姿が見えなくなってしまった。」(第1ニーファイ8:23)

もう一度この真理を繰り返し、強調します。識別の力は、闇がますます深くなるこの世の中で、防御と導きの光となるのです。皆さんもわたしもこの末日に暗黒の霧の中を安全に、そして無事に押し進んで行くことができ、霊的な導きをはっきり認識することができるのです。識別することは、善悪を見分ける以上のことです。識別の力により、関係のあるものと関係ないもの、重要なものと重要でないもの、必要なものと単に良いだけのものとを見分けることができるのです。

識別の賜物があると、肉体の目や耳ではとうてい見たり聞いたりできない展望が見えてきます。識別するとは、霊の目で見、心で感じ取ることです。偽りの教えや、人々の隠れた長所を、見抜いたり感じ取ったりすることです。識別するとは、霊の耳で聞き、心で感じ取ることです。口に出して言わない心配事を聞き取ったり、証や教義の真実性を感じ取ったりすることです。

わたしは十二使徒定員会会長代理であるボ イド・K・パッカー会長が、教会員や神権指導者に次のように勧告するのを何度も聞いたことがあります。「もし肉体の目や耳で見聞きしたことだけしか知らないなら、多くを知ることはできないでしょう。」パッカー会長のこの洞察は、わたしたち皆がこの霊的な賜物を適切に願い求めるよう励ましてくれます。

観察し識別すれば、細くて狭い道にたどり着こうとしている人や、キリストにあってしっかりと押し進みたいと望んでいる人を助けることもできます。この霊的な賜物を得ていれば、わたしたちは道を見失うこともなく、迷うこともありません。観察が鋭くなりさえすれば、崇高な識別の賜物や、それに付随する守りと導きの光を得ることを願えるのです。アルマが息子ヒラマンに教えたとおりです。「あなたはこれらの神聖なものを大切にしなさい。神に頼って生きるようにしなさい。」(アルマ37:47)

わたしはイエスがキリストであり、贖い主であり、救い主であることを特別に証します。主が生きておられることを知っています。皆さん一人一人に主の祝福があり、観察が鋭くなり真の識別の力を得ることを望めるように祈ります。イエス・キリストの聖なる御名により、アーメン。

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デビッド・A・ベドナー

十二使徒定員会のデビッド・A・ベドナーは、2005年5月10日にこのディボーショナルを行いました。