喜びは悲しみの後に来ると思っていると、喜びを完全に逃してしまうかもしれません。悲しみを経験することで、私たちの心と思いに純粋な天の喜びを受けることができるでしょう。
勝利の入城
この最も大切な週に、私とウークトドルフ姉妹がBYUに戻って来れたことは光栄であり、嬉しく思います。期末試験の時期を指しているのではありません。もちろん大切なことには変わりませんが。このディボーショナルが終わり次第、試験に向けて懸命に勉強することでしょう。
ある理由で、この週はとても大切です。実際、キリスト教暦の中で、最も神聖な週がこの週にあたるそうです。私たちは救い主の現世における最後の数日に思いを馳せることでしょう。そして救い主が死を克服し、栄光をまとって復活したことを、美しいイースターの日曜日に祝い、それはクライマックスを迎えます。
ここ数日、総大会を含めて、この神聖な出来事を祝う多くの証やメッセージに恵まれてきました。
ほんの2日前の日曜日は、キリスト教の世界では棕櫚の聖日(しゅろのせいじつ)と記憶されています。今日は私たちの思いをその歴史的な日、王の中の王であるイエス・キリストが堂々と、しかし謙虚に聖都エルサレムに入城した日に思いを馳せましょう。
街の通りは、過ぎ越しの祭りでエルサレムに集まった人で賑わっていました。ナザレのイエスが来るという噂はたちまち広がり、町はざわめきあっていました。「町中がこぞって騒ぎ立ち」と聖文には記されています1。大勢の群衆が町の門に集まり、イエスを迎えました。ある人たちは地面に衣服を広げ、主が愛する町に入城したときに敬意を示しました。また別の人たちは、ヤシの木の枝を切り落とし、道に広げていました。群衆は歓声を上げ、「声高らかに…….主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところに栄光あれ」と言いました2。
その場の空気は非常に刺激的でした。
群衆は、「 これは、いったい、どなただろう?」と尋ね始めました3。
パリサイ人は、そのざわめきを抑えたいと思っていました。そしてお分かりだと思いますが、事態の沈静化は見込めませんでした。興奮と期待が辺りを漂っていました4。
救い主の弟子たちがどのように感じていたか想像できますか?これは弟子たちが待ちに待っていた瞬間でした。ついに群衆はイエスを約束されたメシヤと認めるようになったのです。ついにその時が訪れたのです!もう苦しまなくて良いのです!イスラエルの子らは、彼らの王が到着したため解放されるのです。
街にいた人の心は熱い期待で満たされていました。しかし、彼らは果たして良いことを期待していたのでしょうか?5
期待
さて、誉め言葉や歓喜の叫びは時間と共に静まりました。これは人生でもよく起こりますね。群衆もまばらになってきました。いつも通りの生活に戻っていきました。人々は過ぎ越しの食事を摂りました。人々は依然としてローマの支配下にあり、税金を納める必要がありました。彼らの多くは、エルサレムでのあの日曜日を振り返り、あの騒ぎが何だったのか考えていました。
その頃イエスは、2階の間で使徒たちと静かに最後の晩餐を催されました。イエスは、使徒たちに教え、励まし、そして彼らのために祈りました。また、彼らがイエスを忘れないために聖餐の儀式を行いました。
その後イエスはゲツセマネと呼ばれる園に足を踏み入れ、この世の罪を御自身に受けました。イエスは誰も連れずに「ひとりで酒ぶねを踏み」に行きました6。
翌日の終わりには、イエスは2人の強盗と共に十字架にかけられ、残酷で屈辱的な処刑を経験しました。主は敬愛されず、あざけりを受けていました。群衆は、「あれがイスラエルの王なのだ。 いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。」と言いました7。
見ている人の中には酷く困惑した人がいたに違いありません。数日前に、町の噂になっていた男と同一人物なのか?彼が私たちの解放者になるはずだったのではないか?自分自身すら救えない人が、どうやって私たちを救うのか?
イエスと共に磔にあっている強盗の1人が、多くの人の思いを口にしました。強盗は「メシヤなんだろう?自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と尋ねました8。
後知恵ではありますが、当時の人たちはイエスの本当の任務を誤解していたことは明らかです。ヨハネは、イエスの弟子でさえ最初は理解していなかったと述べています9。
苦しみを受け、それに耐えることで、主は確かに人々を救っていました。その中にはイエスを磔にした人も含まれています。御自身の意志と選択により、自らを最期の、そして完全な犠牲として捧げました。その人がメシヤなのです。この行いにより、救い主は皆さんと私、そしてこの世に生きる全ての人を救いました。
もし十字架から降りて自分を救っていれば、それは確かに印象的だったでしょう。イエスが人間以上の存在、つまり神の御子だと確信した人もいるかもしれません。
しかし、主が十字架を背負うことを選び、酒ぶねを1人で歩き、御自身を救う力があったにも関わらず神の子の全てを救うために究極の犠牲を神聖な祭壇に捧げた事実は、イエスが確かに神の子だという確かな証となりました。イエスは御父の御心に従い、最期の一息に至るまで御父の救いの計画を成就するために身を捧げていました。
今日に至るまで世に光をもたらした新たな洞察と豊富な啓示により、私たちが望むなら、イエスがメシヤであることを理解することができます。しかし、愛する若い友人の皆さん、エルサレムやガリラヤの瞬間に私たちはどう反応していたと思いますか?
おそらく、「思いもしなかった姿を見せた」メシヤに困惑した古代の同胞と似た反応を私たちは見せるかもしれません10。
物事が上手くいかないと思えるとき
期待していたことと実際に起きたこととの間に、時折、乖離があると思ったことはありませんか?思いがけない出来事が起こるのも、人生の一部ではないでしょうか?
イエス・キリストの福音とは、高い理想の福音です。私たちの多くが救い主に惹かれるのは、主が私たちの視野と志をこの世のものよりも高く、その先へと引き上げてくださるからです。
例えば私たちは、全ての人がこの宇宙で最も栄光に満ちた御方の愛する子供だと信じています。そのおかげて、私たち1人1人には無限の可能性と栄光に満ちた神聖な行く末があるのです。
私たちは、「神の戒めを守る者の祝福された幸福な状態」を信じています。弟子としての道のりは神聖な喜びの道であり、福音に従って生きることは、世代を超えた強い家族の絆で結ばれた幸せで、平安に満ちた人生に繋がると私たちは信じています。
これらは福音の理想の一部です。それらは美しく、希望に満ちていて、真実です。私はその証人です。
ですから、この世の喧騒さと平凡さと一致しないことは驚くことではありません。
完全な世界では、誰もが神の戒めを守っています。完全な世界では、私たちの皆が恵まれていて幸せだと感じていて、末日聖徒イエス・キリスト教会の忠実な会員は堅固で充実した家族を持つことでしょう。しかし、実際には私たちの中には、非常に複雑で途方に感じてしまうような試練に直面し、これらの祝福から程遠い場所にいると思う人もいるでしょう。
では、美しく、普遍的で、永遠の福音の理想が、痛みを伴う個人的で有限な人生の現実と衝突するとき、私たちはどうするのでしょうか?
少なくとも2つのことを心に留めてください。
- 理想を捨ててはいけません。
- 現実を無視してはいけません。
その両方を認めてください。
この世的な人の思いと心が、互いに相反していそうな2つの概念に捕まることは容易ではありません。
だから、この心にあるわだかまりを解消するために、私たちは結論を急ぐかもしれません。例えば、「今つらい経験をしているから、きっと何か悪いことをしたに違いない」や「望んだ祝福が見えないなら、、約束は嘘に決まっている」、または、十字架上の強盗が疑問に思ったように「もしキリストなら、なぜ私の苦しみを終わらせないのか?」などです。
神の道と私たちの道は異なっている
しかし、物事を別の見方で考えることもできるのではないでしょうか。主は「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」と言いました12。
目を皿にして探さなくても、この原則が実践されている例を見ることができます。人生には、神が私たちとは違う見方をされるものが数多くあります。
具体例として、モルモン書でよく知られている聖句を見てみましょう。「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである」13。
私たちは、喜びとは悲しみがない状態だと考えがちです。
しかし、もし喜びが悲しみを含んでいたらどうでしょうか?
喜びと悲しみが同時に存在していたらどうでしょうか?
その2つが同時に存在しなければならないとしたら?
興味深いのは、リーハイの喜びの宣言とアダムとエバの堕落が同じタイミングで述べられていることです。この世に苦痛、死、病、そして悲しみがこの世にもたらしたエデンの園での彼らの背きが、喜びへの道を開いたとリーハイは言っているように思えます。
言い換えれば、喜びは悲しみの後に来ると思っていると、喜びそのものを見逃してしまうかもしれません。ある程度の悲しみを経験することで、私たちの心と思いに純粋な天の喜びを受けることができるのです14。
どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。その答えは、多くの答えと同じですが、イエス・キリストと御父が与えた幸福の計画にあります15。
エバの言葉を借りれば、答えは
私たちの贖いの喜びと、神が従順なものに与える永遠の命です。
そしてアダムとエバは神の名前をたたえた16。
それが原則です。
神様が与えてくださる深い喜びは、この世が声高らかに言う浅い喜びと大きく異なります。それはネルソン大管長が教えてくれた喜びです。「ひどい一日や一週間、散々な一年を過ごしながらも、わたしたちは喜びを感じられます」17。
「神は天にいまし、あなたは地におるからである」
これを踏まえて、救い主の十字架刑と強盗が言った「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と言った盗人の場面に戻ってみましょう。
その日、また別の強盗が十字架にかけられましたが、その人は「救われる」とはどういうことかについて、別の視点を持っていました。彼はもう一人の盗人にこう言ったのです。
彼は、「あなたと同じ刑に処せられているから、神を恐れないのですか?
私たちは公正に裁かれています。私たちは、自らの行いにふさわしい報いを受けています。しかし、この人は何も悪いことをしていません。
イエスよ。あなたが王国に入るときには、私を覚えていてください。」18
この2人目の強盗も最初の強盗と同じように苦しんでいました。2人目の男は、間違いなく十字架上での運命から救われたいと思っていたことでしょう。しかし、その男は主の知恵と、主の時を信頼していました。
ですから、ものごとがうまくいかないように感じるとき、良い答えが得られないときは、「良い答えなどないのだ」と決めつける前に、伝道の書にある次の助言を思い出してください。
神の前で軽々しく口をひらき、
また言葉を出そうと心にあせってはならない。
神は天にいまし、あなたは地におるからである。
山に登り、違う視点で見る
高い場所からだと、物事が違って見えることに気づいたことはありますか?Yマウンテンやこの盆地を囲む息をのむような山頂の1つに登った経験があるかもしれません。山頂に着いて盆地を見下ろすと、全てが小さく見えて驚いたのではないでしょうか。盆地底にいる間は、木や乗り物、建築物が巨大な障害物に思えるでしょう。しかし山頂から見ると、より高い視点から物を見ることができ、それほど恐ろしいものに映ることはないでしょう。
神様は、より高く、より神聖な視点につながる主の道に従うように私たちを招いておられます。そうする時に、皆さんはこの世界とその試練を別の視点で見ることができるでしょう。皆さんは、物事を創造と救いの計画という大きな文脈の中で見ることができます。混乱した状況の渦中ではできない方法で、より広く完全な理解を得ることが出来るでしょう。
聖文研究と日々の祈りは、理想と現実がより鮮明に理解できる、より高く、神聖な場所への旅の一部だと私は信じています。
親愛なる友人の皆さん、毎日天の御父とつながり、人生と皆さん個人の置かれている状況を、より高い視点から見てください。
祈り、御言葉を深く考えることによって、御父とつながりましょう。天の御父は皆さんの父です。愛にあふれた父なら誰でもするように、御父は皆さんに語りかけて欲しいと願っておられます。
個人の祈りと聖文研究は、神様と交わるための最良の方法です。個人の祈りは、皆さんの人生を最も重要なものに向ける助けとなります。20 もちろん、祈りの目的は皆さんが全知全能の宇宙の神様に新しい情報を伝えることではありません。イエスは、「求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」と言いました。21 心と思いをもって祈ってください。「くどくど祈る」ことを避けてください。22
親愛なる友人の皆さん、皆さんは人生の重要な決断を下す時期にいます。教育や職業、結婚相手、いつ家庭を持ち始めるかという重要な決断です。これら全ての選択には、天の祝福と聖霊の導きが必要です。そして、祝福と導きは確かに存在します。手に届くところにあります。主がオリバー・カウドリに教えたパターンに従ってください。まず、「心の中でそれをよく思い計り、その後、…それが正しいかどうか神様にたずねなければならない」。23
皆さんには、頭と心があります。皆さんは知ることができるのです。
ですから、天の御父に祝福と導きを求めてください。天の御父に希望や夢、そして望みを話してください。しかし、神の見方を自分の見方に合わせてもらおうとしないでください。主の方法で物事を見るために、皆さんの目を開いてくださるように主に願い求めてください。その時に、答えが湧いてくるのです。その時に、山に登り、物事をより高い視点、天の御父の視点で物事を見始めるのです。「そうするときに、神の前においてあなたの自信は増し、神権の教義は天からの露のようにあなたの心に滴るであろう。」24 24時間365日小さな雫が一滴ずつ滴るでしょう。
巨大で、圧倒的に見えた多くの物が、実際には小さく、恐れるに足りないことが分かるでしょう。
それと同時に、皆さんの目には小さく見えることの永遠の重要性が分かるようになるでしょう。 25
皆さんの祈りは単純で素朴なものかもしれません。シンプルであるべきですが、心のこもった祈りでもなければなりません。祈りは頻繁に捧げるべきですが、決して形式的なものであってはなりません。
私たちの祈りの中で、救い主がゲツセマネの園で「父よ、わたしの思いではなく、みこころがなるように」と私たちに示された模範に倣うようにしてください。26
皆さんの祈りに答えは必ずやって来ます。そのことを証します。あなたの望む方法ではないかもしれませんが、主の方法で与えられます。答えは聖文や神聖な気持ちから来ることもあるでしょうし、信頼している人の言葉から来ることもあるでしょう。しかし、答えは必ず来ます。
毎週受ける聖餐もまた、繰り返し訪れる静かな時の1つであり、人生の「最も重要なもの」を深く認識できるようになります。聖約を新たにし、弟子として歩みがどこにあるのか思いめぐらすこの神聖な時間は、皆さんにどれほど必要なことでしょう!
救い主御自身が、弟子たちに「わたしを記念するため、このように行いなさい」27と言ったときに、この儀式の神聖さを明らかにされました。進んで主を覚え、聖約を守るために時間を取ると、「いつも主の霊が皆さんを導き、助け、そして高める」28という主の神聖な約束を受けることができます。何と大きな祝福でしょう。
これらの静かで、ささやかで、シンプルでも霊的な瞬間のために時と場を意識的に用意するなら、主は確かに皆さんを知っていることに気づくでしょう。皆さんの心を知っているのです。皆さんの名前を知っています。皆さんにとってのこれらの瞬間は、美しい春の朝に1人の若い女性が墓地の外で涙を流していた時に、復活したイエスが彼女の名前を呼んだ時の場面と似ています。「マリア」とその人は 言いました。29
皆さんも、イエスが優しい声であなたの名前を呼んでおられるのを感じることができるでしょうか。忘れないでください。救い主は皆さんの名前を知っておられます。救い主は皆さんを愛しておられます。
「見よ、あなたの王がおいでになる」
棕櫚(しゅろ)の日曜日、イエスがエルサレムに堂々と入城し、群衆を惹きつけました。輝かしく、胸躍る瞬間でした。しかし、さらに重要なことはイエスがエルサレムに入城した後にしたことです。その多くがひそかに行われ、ほとんどの人に知られることもありませんでした。
それらは、人々がメシヤに期待していたものではなかったかもしれません。しかし、神様が約束されたことでした。そしてそれは、人々つまり私と皆さんを含む人類全員が必要としていたことでした。それは天からの賜物であり、神の子供たち全員が必要としていた贖いの犠牲でした。
ザカリヤは「見よ、あなたの王はあなたの所に来る」と言いました。30
救い主が堂々とエルサレムに入城したように、慈しみに満ちたキリストは、もし皆さんが受け入れるならば、皆さん一人一人の人生の中へも入って来られるのです。
ですから、この神聖な復活祭の週に、皆さん次のことを自分自身に問いかけてみてください。
- イエス・キリストが私の王となることを望んでいると示しているのだろうか?
- イエス・キリストが私の人生に勝利の入城をされるよう招いているだろうか?
- イエス・キリストに私の心を変え、視野を高くし、より高く神聖な道を教えていただくことを受け入れているだろうか?
親愛なる友人の皆さん。そして、イエス・キリストの愛する弟子の皆さん、私は生ける神の御子、救い主、贖い主、そして思いもしないメシヤについて証します。皆さんは彼に従うことを選びました。キリストが皆さんの力なのです。キリストは皆さんの救いです。キリストは皆さんの喜びです。
エルサレムの門のように大きく開かれた心を持って、喜びをもってメシヤ、救い主、そして王の中の王を喜んで迎えられるように皆さんを祝福します。皆さんがどこにいても、皆さんの目が、救い主の奇跡の力が人生の中で影響を与えていることに気づけるように祝福します。主の使徒の1人として、主の力、主の愛、そして1人1人に向ける主の深い憐れみを証し、祝福を残します。主イエス・キリストの聖なる御名により、アーメン。
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脚注
1.マタイによる福音書21:10
2Luke 19:37–38, New English Translation
3.マタイによる福音書21:10
4.ルカによる福音書19:39-40
5.もしイエスが軍隊を率いてローマを征服したのなら、イエスは名将の1人としてアレクサンドロス大王やチンギス・ハーンと並び今日に名を残したことでしょう。しかし、主の勝利はその征服よりもはるかに恒久的で永遠の観点からみて意義深いものでした。主は罪と死に打ち勝ち、天の御父と共に永遠の命を受ける道を開いてくれました。
6.イザヤ書63:3–31
7マタイ27:42
8Luke 23:39, New International Version
9ヨハネ12:16
10Elizabeth Pool, The Unexpected Messiah (New York: Ives Washburn, 1961).
11モーサヤ2:41
12イザヤ55:9、8節も参照
132ニーファイ02:25
142ニーファイ2:11-12、22-23
152ニーファイ2:26
16モーセ5:11-12
17ラッセル・M・ネルソン、「喜び—霊的に生き抜く道」、リアホナ、2016年11月
18Luke 23:40–42, NIV
19.Ecclesiastes 5:2, NIV
20.マタイ23:23
21.マタイ6:8
22.マタイ6:7
23.教義と聖約9:8
24.教義と聖約121:45
25.トーマス・S・モンソン大管長は次のように述べました。地上でのこの短い人生で得られる教訓の中で、最も重要な教訓の一つは、大切なこととそうでないことを区別するよう教えてくれる教訓であると、わたしは信じています。(「人生の旅路に喜びを見出す」、リアホナ、2008年11月号)
26.ルカ22:42
27.ルカ22:19
28.モロナイ4:8-3、教義と聖約20:8-77
29.ヨハネ20:16。
30.ザカリヤ9:9

十二使徒定員会であるディーター・F・ウークとドルフは、2025年4月15日にこのディボーショナルを行いました。