ディボーショナル

「確信を放棄してはいけない」

3月 2, 1999

確信したものを常に持っていなさい。かつて感情がどのように変化したかを覚えておきなさい。あなたの経験した事柄をいつまでも心にとどめておくのです。粘り強さが、敵の力に取り囲まれたときのモーセを救ったのであり、あなたをも救えるのです。

預言者ジョセフ・スミスが最初の示現で体験した事柄の中で、一つの教訓があります。この場にいる皆さんのほぼ全員が経験したことがあるか、またはいつか近い将来体験するでしょう。それは、簡潔ではありますが、非常に厳粛な真理です。偉大な瞬間を迎えば、特に霊的な瞬間の前に、逆境や反対する力、暗闇がやってくる可能性が高いということです。人生にはこのような時が何度か訪れます。わたしたちが人生で大切な決断を下そうとしているときや重大な局面を迎えようとしているときにやってくる場合があります。

わたしたちがもっと読むべきこの驚くべき話の中で、ジョセフは、祈りを始めた瞬間、圧倒しそうな何かの力に捕えられていることを感じたと述べています。ジョセフの説明によるとその「深い闇」は彼の周囲に集まり、彼を完全に滅ぼそうとしていたようです。しかし、ジョセフは全力を尽くし、この敵の力から救い出してくださるように神に呼びかけました。こう祈った時、真昼の太陽よりも明るく光った柱が次第に降りて来て、ジョセフに降り注ぎました。光が現れたその瞬間、ジョセフは自分の身を縛っていた敵から解放されたのを感じました。その後に続いたのは、時の中間に起きたキリストの十字架上の死、復活、昇天以来の最大の出来事です。御父と御子がジョセフ・スミスに御自身を現され、時満ちたる神権時代が始まりました(ジョセフ・スミス—歴史1:15-20参照)。

「すべての事物には反対のもの」があり「天から」降りた一人の「神の天使」が存在し、その行いによって「とこしえに惨めな状態」になった者が存在することをわたしたちのほとんどはすでに知っているのでこのことについてこれ以上話す必要はないでしょう。なんと恐ろしい運命でしょう。リーハイは、これがルシフェルの行く末であるため,「人類もまた惨めな状態にしようとした」と教えました(2ニーファイ2:11,17-18)。

今朝のディボーショナルは、神がわたしたちのために用意しておられる多くの良いものに対するサタンの準備周到で、先行的な反対というテーマについて時間が尽きるまで話すことも出来ますが、今日は、その観察を置いて、もう少し気づくにくい別の真実について話したいと思います。これは、運動競技の用語で、「試合終了まで競技は終わらない」という教訓です。戦いがまだ続いていると注意を喚起させてくれるのです。光と進歩をわたしたちにもたらしてくれた劇的な出来事が初めにあったとしても、残念ながらそれによってサタンが敗北したと考えるべきではありません。

要点を少し明確にするために、他の聖文の他の示現を見せたいと思います。ご承知のようにモーセ書はモーセが「非常に高い山」に連れて行かれるところから始まります。聖文には「彼は顔と顔を合わせて神にまみえ、神と語り、神の栄光がモーセのうえにあった」と書かれています(モーセ1:1-2)。その後に起きたことは、高い山に連れて行かれたほかの預言者たちに起きたことと同じでした。主はモーセにこう言われました。

「『見なさい。そうすれば、わたしはあなたに、わたしの手で造られたものを見せよう。』

[そして]‌モーセは‌…地を、まことに、その全てを見た。彼が見なかったものはちり一つもなく、彼は神の御霊によってそれを見極めた。

また、彼は地に住む者も見た。 彼が見なかった者は一人もなかった。」[ モーセ1:4、27-28]

この経験はどのような基準に照らしても、驚くべき出来事でした。それは人類の歴史上で与えられた偉大な啓示の一つです。預言者が神との間で経験した事柄の最も偉大な出来事の一つです。

しかし、モーセの現代に生きているあなたへのメッセージは、「注意を怠ってはならない」ということです。偉大な啓示や驚くべき光り輝く瞬間を迎え、霊感あふれる道が開かれたからといって、すべてが終わったと考えてはなりません。「試合終了まで競技は終わらない」ことを忘れないでください。啓示の瞬間の後にモーセに起こったことが、もしそれほど危険なものではなく、いつも通りであったならば、こっけいなことだったでしょう。敵対を続け、すぐにではできないとしてもいずれ攻撃を仕掛けようと執拗つけねらっていたルシフェルは、神が預言者に御自身を現された後に、怒りといらだちのに等しい感情を見せながら姿を表して、叫びました。「モーセよ、わたしを拝みなさい。」しかし、モーセはほとんど反応しませんでした。実物を見たばかりで、比べるとこのような馬鹿げた行いは見るに堪えられないものでした。

「モーセはサタンを見て言った。『おまえはだれだ.‌.‌.おまえの栄光がどこにあるので、わたしがおまえを拝まなければならないのか。

見よ、わたしは、神の栄光がわたしのうえに及んで、神の御前で変貌しなかったならば、神を見ることはできなかった.‌.‌.ところが、今わたしは生まれながらの人として、おまえを見ることができる‌.‌.‌.

‌.‌.‌.おまえの栄光はどこにあるのか、それはわたしにとって闇だからだ。わたしはおまえと神とを区別することができる.‌.‌.

サタンよ、退け。わたしを欺くな。』」[モーセ1:13-16]

続いて、サタンの哀れであると同時に恐ろしい反応が記されています。

「さて、モーセがこれらの言葉を語り終えると、サタンは大声で叫び、地上でわめきたてて、『わたしが独り子だ。わたしを拝め』と命じて言った。

そこで、モーセはひどく恐れ始めた。そして、恐れ始めると、地獄の惨苦を目にした。  それでも、彼は神に呼び求めた〔まさにジョセフ・スミスが用いた言葉です〕ので、力を与えられた。そこで、彼は命じて言った。『サタンよ、わたしから離れ去れ。わたしは栄光の神であられるこの唯一の神のみを礼拝するからである。』

すると、サタンはおののき始め、地が揺れ動いた‌.‌.‌.

するとサタンは、涙を流し、泣きわめき、歯ぎしりをしながら、大声で叫んだ。そしてそこから…立ち去って、姿が見えなくなった。」[モーセ1:19-22]

それでサタンは去りました、いつかまた来るとわたしたちは確信できますが、栄光あふれる神にいつも打ち破られることも確信できます。

光を得て賢明な判断を下した後に、啓示と確信に基づく平安を得て、決して負けることはないとの確信を得た後に、しばしば強い反対の力に遭います。このことについて皆さんに励ましを与えたいと思います。使徒パウロはヘブル人への手紙の中で、教会に加わったばかりの新会員を励まそうとしました。彼らは確かに霊的な経験をし、証の純粋な光を受けたことでしょう。しかし、教会に入ったことによって彼らの苦労に終止符を打ったのではなく、むしろ新しい困難の始まりだと気付かされるのです。

結婚についてのヒュー・B・ブラウン大管長の冗談の言葉を思い出します。彼は「結婚は自分の悩みを解決する」とよく聞かされていて、実際に彼が結婚すると、それは悩みの終わりではなく、終わりの始まりであることに気づいたのです。ここにいる独身の帰還宣教師の皆さん、笑いすぎないで下さいね!また後でこの話をしたいと思います。

パウロは、今日ゴードン・B・ヒンクレー大管長が新会員に要請していることと大筋において同じことをこれらの新会員に求めています。ここで強調されているのは、そのような永遠の重要性と永遠の結果のある事柄は一度きりのものではなく、戦いが伴うということ知らずに決意することは出来ないということを思い起こして下さい。良い戦いであり、勝利できる戦いですが、それでも戦いであることを知る必要があるのです。新たな証、個人の改心、霊的なバプテスマを経験することによって、その後のあらゆる問題が解決されると考えている人々に対して、パウロはこのように言っています。「あなたがたは、光に照らされたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい」(ヘブル10:32)。

そこで、この素晴らしい勧告がくるのですが、これは今日のわたしの話のタイトルでもある、わたしの皆さんへの勧告の中心となるものです。

「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。

神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である.‌.‌.

‌.‌.‌.もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない‌.‌.‌.

‌.‌.‌.わたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではな」い。[ヘブル10:35-36,38-39]

末日聖徒であるわたしたちはこのように言うかもしれません。「それは確かにつらい戦い」です。教会に入る前、教会に入ろうとしている間、そして教会に入ってからも戦いは続けます。このような状態は常に起きています。しかし、「信仰を捨て」てはならないとパウロは言いました。ろうばいしたり、たじろいだりしてはなりません。自信をなくしてはなりません。かつてあなたがどのように感じたかを忘れてはなりません。あなたの経験した事柄に不信の念を抱いてはなりません。この不屈の態度が、敵の力に取り囲まれたときのモーセを救ったのであり、あなたをも救えるのです。

わたしの声が聞こえるほとんどすべての帰還宣教師や改宗者はこのことをはっきりと理解していると思います。レッスンの約束がキャンセルされたり、ビニール袋に入った返したいモルモン書が玄関のドアにつり下げられたり、バプテスマの日付が守られないなどのことがあります。それはレッスンを受けている期間、バプテスマを決意するときや、教会に入てからの数週間、数月間、そしてほぼ永遠に続きます。少なくともサタンは、あなたの決意の弱いところや、あなたの鎧のほころびを見つけられると考えている限り、いつまでも追いかけます。

良いことが起こる場所ではまずどこにでも、この強い反対の力が発生します。教育を受けようとするときに遭遇することもあれば、宣教師として着任した最初の月が過ぎたころに受けることもあります。もちろん、恋愛や結婚に関する事柄で遭遇することもあります。(さて、先ほどの笑っていた帰還宣教師に戻ります)。これは付き合っている若い男性女性によくある話です。その人が祈って、互いの関係において主の導きを感じたことを知り、主の御心であることを知るために十分に祈り、互いに愛し合い、互いの付き合いを楽しみ、すばらしい相性を生涯にわたって見えるようになったのに、パニックに陥ります。 脳が機能しなくなり、恐怖に圧倒されてしまうのです。パウロが言ったように、彼らは「信仰を捨て」てしまうのです。この者は滅びないとしても、夫婦関係の麻痺に落ちてしまうのです。

わたしは、結婚のような重要で深刻なことに注意するべきではないと言っているのではありません。そして、若い男性がある女性と結婚するという啓示を、彼一人が受けたからと言って、もしその女性が確認を受けていないのであれば、結婚すべきとは決して言っていません。わたしは若い人たちの生活の中で、このような一方通行の啓示をたくさん見てきました。注意すべき事柄やよく考えなければならないことがあるのはもちろんですが、光に照らされた後に、良いものから目をそらさせようとする誘惑に注意してください。以前、ある事柄について祈り、信頼したとき、それが正しいものであったならば、その正しさは今も変わりません。どうなに難しい状況でも諦めてはなりません。アパートを見つけることができます。義母と仲良くできます。ハーモニカを売って、もう1食の資金を調達することができます。無理と思っていても、これは全て以前にできていたことです。諦めないでください。あなたの幸せを壊そうとする者に屈してはなりません。その者は‌自分のように、全員を不幸にさせたいのです。自分の疑問に向き合い、恐れを克服してください。「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない」のです。踏み外すことなく、あなたの前に繰り広げられる麗しい人生に目を向けてください。

これらの経験や人生の大切な時期を切り抜けるための助けとして、モーセに関連したもう一つの聖句を引用してみたいと思います。それは、啓示を必要としていたこの神権時代の初期で、道を確立し、それを継続していかなければならない時期に与えられました。

ほとんどここにいる皆さんは教義と聖約9章 で与えられている「啓示の公式」を知っていると思います。すなわち、心の中でそれをよく思い計り、その後、主が確認するか否定してくださることについて記された聖句です。わたしたちのほとんどがこの聖句に関連づけて読んでいないのは前の書、すなわち第8章です。主はこの啓示の中で、啓示を次のように定義しておられます。

「あなたに降ってあなたの心の中にとどまる聖霊によって、わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。」わたしはここで思いと心の両方の組み合わせが好きです。神は、論理によってまた啓示によって、つまり思いと心の両方に聖霊によって教えてくださいます。

「さて見よ、これは啓示の霊である。見よ、モーセがイスラエルの子らを導いて乾いた地を通って紅海を渡らせたのは、この霊による。」[教義と聖約8:2-3]

‌質問があります。主は「啓示の霊」について説明する際、なぜ紅海を渡ったことを典型的な例として用いられたのでしょうか。なぜ最初の示現を用いられなかったのでしょうか。それとも、なぜ先ほど読んでいたモーセ書の例を用いられなかったのでしょうか。それとも、ヤレドの兄弟の示現を例示されなかったのはなぜでしょうか。もちろん、主はいずれをも用いることがおできになりましたが、そうされませんでした。この啓示で主は別の目的を心に抱いておられたからです。

通常、わたしたちは啓示を神から与えられた情報として考えます。主よ、わたしたちに本を開いてください。ルイジアナ買収の政治的意義、または熱力学の第二法則の本質は何でしたか? 学校のテストの問題でこのような質問を見るとき、啓示が必要ということは明らかです。期末試験がある限り、祈りは学校から排除されることは決してないだろうと誰かが言いました(冗談)。第8章で特にパウロが語り、わたしが話し合ってきたこれらの「苦しい大きな戦い」に関してわたしたちの理解をどのように広げてくれるかを説明したいと思います。

まず、啓示はほとんどの場合、疑問の答えとして、たいていは差し迫った疑問に対する答えとして与えられます。ここでは情報が与えられます。ただし、緊急に必要な情報、特別な情報です。モーセのチャレンジは、自分を含めたイスラエルの子らを彼らが置かれている恐ろしい境遇からどのようにして脱出させるかということでした。背後からは戦車が迫っており、周囲は砂丘で囲まれ、目の前は海でした。モーセはどうすべきかを知る必要がありました。尋ね求めていたのは普通のことではなく、この場合、文字通り死活の問題でした。

あなたも情報を必要とするでしょう。しかし、重大な事柄については、それを緊急に必要とし、信仰をもって謙遜に求めるのでなければ、与えられないでしょう。モロナイはそれを「誠心誠意」で求めると表現しています(モロナイ10:4)。あなたがそのような方法で求め、それを続けるならば、悪魔の攻撃に遭っても義にかなった道からそれたりはしないでしょう。‌どれほど激しい攻撃や苦難にさらされてもあなたは持ち堪えることができます。なぜなら、真の確信を受けるための代価を払っているからです。

モーセの示現の後のように、疑いや混乱が来るかもしれませんが、本物と比較するとき、かなり弱いものに見えるのです。「かつて受けた啓示を忘れてはなりません。」以前、あなたはどれほど必死で助けを必要としていたか、それをどのようにして得たかを思い出してください。啓示を真剣に求める人に紅海は開かれることでしょう。敵は道をふさぎ、パロの軍勢を集結させ、海辺まで追いかけて来る力を持っていますが、本物を作り出すことはできません。敵はわたしたちが許さなければわたしたちを征服することはできません。自分の「力を尽くして神に呼び求め」ると、光が再び戻り、暗闇が再び退いて、安全が再び確保されることでしょう。これが啓示の霊によって紅海を渡ることに関して学ぶ、第1の教訓です。

第2の教訓は第1の教訓と密接な関係があります。啓示を受け、重要な決断を下す過程で、恐れが破壊的な力を持ち、時には無力化する役割を演じるということです。生涯ただ一度の機会であったとも知らずに、その機会を失ったオリバー・カウドリに対して主は「あなたは開始したときのように続けなかった」と言われました。光を受けながら、その後に心に浮かんだ別の考えを追いかけたり、以前の疑問に戻ってしまったりする人々に、これは的を射た言葉ではないでしょうか。「あなたが今翻訳することは適切ではない」と言われた主の言葉は、オリバーにとって聞きづらかった言葉だったでしょう。「見よ、あなたが始めたときには適切であった。しかし、あなたは恐れた。そして、時は過ぎ去り、今や適切ではなくなった(教義と制約 9:5,10−11)。

わたしたち一人一人が恐怖のリスクを冒しています。あなたも、わたしもそうです。高価な真珠の記述の大事な行に気付きましたか。「そこで、モーセはひどく恐れ始めた。そして、恐れ始めると、地獄の惨苦を目にした 」(モーセ1:20)。あなたが恐れを抱く時に目にするのがこれです。

イスラエルの子らが紅海の岸辺まで来たときに直面したのがまさにこの問題でした。これが第2の教訓です。これは、過去に受けた光に忠実であるかどうかに大いに関係しています。記録はこのように告げています。「パウロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。」

一部の人たち、パウロが説明したような人たちはこう言いました。「引き返そう。無駄なことだ。わたしたちがきっと間違っていたのだ。エジプトを出るように命じたのは、正しい霊ではなかったでしょう。」実にモーセに向かって言ったのはこうでした。「なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか‌.‌.‌.荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」(出エジプト14:10-12)。

返事に、わたしはこう言わなければなりません。「これまで起きたのは一体何だったのですか。ここへ来るまでに起きた奇跡は一体何だったのですか。かえるやぶよは何だったのですか。杖と蛇、川と血は。雹、いなご、火、長男である男の子に起きた奇跡は何だったのですか。」

わたしたちは何と早く忘れてしまうのでしょう。残って、エジプト人に仕えている方が良かったということは決してないのです。教会に入らない方が、結婚をしない方が、伝道の召しや教会の奉仕を断った方が良かったということは決してないのです。もちろんこれらの疑念やほかの考えと戦うときにわたしたちの信仰は試されます。いつの日か、わたしたちは奇跡的な方法でエジプトから導き出されて、うわべだけの自由を得て、自分の道を歩む気でいるかもしれませんが、実際はそろそろもう一度紅海の水のような問題を目の前に現れるのです。このような時に、狼狽したり、放棄してしまおうとしたりする誘惑を退けなければなりません。このようなときに、敵が用いる最強の武器は恐れです。

「モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救いを見なさい‌.‌.‌.主があなたがたのために戦われる。』」

偉大なるエホバはそれを確認する言葉をモーセにかけられました。「イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい」(出エジプト14:13-15)。

これが啓示の霊に関する第2の教訓です。メッセージを理解し、主の愛を感じるための代価を支払い、「前へ進みなさい」という主の言葉を聞いたら、前へ進むのです。恐れを抱いたり、躊躇したり、言い逃れをしたり、弱音を吐いたりしてはなりません。アモナイハの地へ向かったアルマのように、かつてたどったことのないような道を歩まなければならないかもしれませんが、それはまさに主がイスラエルの子らのために行っておられることなのです。このような方法で紅海を渡った人はかつていないのです。それだからどうというのでしょうか?誰でも初めてはあります。啓示の霊をもって、恐れを捨て、両足を浅瀬につけて歩きましょう。ジョセフ・スミスはこう言いました。「兄弟〔姉妹〕たちよ、わたしたちはこのような偉大な大義において前進しようではありませんか。退かずに前に進んでください。兄弟〔姉妹〕たちよ、勇気を出してください。勝利に向かって進み、進んでください」(教義と聖約128:22)。

紅海を渡る奇跡における主の啓示の霊から学ぶ第3の教訓は、義にかなう目的や義務に向けてわたしたちを導いてくれる啓示とともに、神はその目的を成し遂げるための手段と力を用意してくださるということです。この永遠の真理を信頼してください。もし神が何かが正しいと言われ、それがあなたにとって紛れない真実であるなら、神はあなたがそれを成し遂げるための方法を用意してくださいます。‌教会に入ること、教育を受けること、伝道に出ること、結婚すること、あるいは若い人生で価値のあることであれば全てのことに該当します。救い主が聖なる森で預言者ジョセフ・スミスに言われたことを思い出してください。1820年にはどのような問題があったのでしょうか? ジョセフはなぜほかの教会に加わらなかったのでしょうか。少なくともその理由の一部は「彼らは人の戒めを教義として教え、神を敬うさまをするけれども神の力を否定している」のです(ジョセフ—歴史1:19)。

神の恵みは十分です。

主はかつてイスラエルの子らが「力により、また伸べられた腕をもって、囚われの身から導き出され」たときと同じように、ジョセフに繰り返し繰り返し語られたことでしょう。

「それゆえ、あなたがたは気落ちしてはならない‌.‌..わたしの天使たちはあなたがたの前に上って行き、わたしもともにおり、やがてあなたがたは良い土地を所有するであろう。」[教義と聖約103:17-20]

なんの良い土地? あなたの良い土地。あなたの約束の地。あなたの新しいエルサレム。乳と蜜の流れるあなた所有するわずかな土地です。あなたの未来。あなたの夢。あなたの行く末。神はわたしたち個人にそれぞれの方法で、森か山か神殿へ連れて行き、わたしたちのための神の計画を示してくださると信じています。わたしたちはモーセやニーファイやヤレドの兄弟のようにそれを完全に見ることはできないかもしれませんが、わたしたちに対する主の御心を知り、人知で計り知ることのできない愛を注いでおられることを知るうえで必要なだけ見るのです。また、悪魔と、惨めなたくらみをもって悪魔に従う者たちは、わたしたちのそのような経験を妨げ、経験したことに暗雲を投げかけようとしていることをわたしは信じています。しかしこれは、福音や、回復の業の根底に啓示の霊があると主張する末日聖徒の道と相いれるもではありません。

暗闇や絶望と戦い、光を求めた結果として、この神権時代が開かれました。そしてその状況が現在まで続いています。これによってあなたは前進を続けるのです。わたしはパウロと一緒に、皆さんにこう申し上げます。

「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。

神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。」[ヘブル10:35-36]

わたしは、反対する力と逆境が存在することを認めます。しかしながら、わたしは栄光あふれる神がおられることを、神の御子の贖いが及ぼされることを、そして光と希望と輝く未来があることを証します。わたしは皆さんに、神が生きておられ、皆さん一人一人を愛しておられること、反対する闇の力に制限と限界を設けておられることを約束します。イエスがキリストであり、死と地獄と、地獄のたくらみを持つ堕落した者に打ち勝たれた御方であることを証します。イエス・キリストの福音は真実であり、そして現在回復されています。

「あなたがたは恐れてはならない。」‌第2、第3、第4の攻撃が加えられるときに、「あなたがたは恐れてはならない.‌.‌.主があなたがたのために戦われる。』」「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。」わたしはこれらのことの保護者であり贖い主、主イエス・キリストの神聖で聖なる御名によって話します。アーメン。

ジェフリー・R・ホランド

ジェフリー・R・ホランドは、1999年3月2日にブリガム・ヤング大学でこのディボーショナルの説教が行われたとき、末日聖徒イエス・キリスト教会の十二使徒定員会の会員でした。