ディボーショナル

主なるキリストの贖罪により聖徒となる

十二使徒定員会

2022年1月18日

わたしたち皆がともに必要としていること、皆さんやわたし、必死に踏みとどまろうとしている人々はもちろん、教会にあって確固としている人々まで、どのような状況にあったとしても、わたしたちに必要なものは、いつのときも変わりません。それは、力強い信仰です。裁きの日、あるいは日の栄えの栄光を受ける間だけでなく、この現世で、今、わたしたちを支えてくれる信仰なのです。

必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。

2016年10月の総大会で、わたしはネバダ州ヘンダーソンにあるダッチマン・パスワードの友人、トロイ・ラッセルとディードラ・ラッセルの話をしました。この説教を覚えている人はいないかもしれませんが、この二人の経験をお話ししました。トロイが地元のデゼレト産業に物品を寄付しに行こうと、ガレージから小型トラックを出したときのことです。車を動かすと、後ろのタイヤが何かを踏んだのを感じました。何かがトラックから落ちたのだろうと思ってトラックから降りて確認すると、最愛の息子である9歳のオースティンが道路にうつ伏せに倒れているのを見つけました。叫び声、神権の祝福、救急隊に病院のスタッフ—だれもがそれぞれの持ち場で、この美しい少年の命を救おうと努めましたが、その甲斐なく、オースティンは帰らぬ人となりました。

トロイとディードラは徐々に、主イエス・キリストへの信仰、慰めを与えてくださる聖霊の存在、手を差し伸べてくれた多くの愛ある友人や隣人、とりわけ、当時の「ホームティーチャー」であったジョン・マニングに平安を見いだしました。1

今日のわたしの目的は、そのメッセージを繰り返すことではありません。大学生活を送る皆さんにお伝えしたいことがあるのです。人生で学ぶ教訓の中には苦しいものもあり、自分で乗り越えられると思う以上に、また確実に自分が望む以上に、その教訓と向き合うことが求められることでしょう。

ラッセル兄弟姉妹のオースティンの事故のように、悪夢のような形で子供を失うことは、若い夫婦が親として直面する試練としては、もう十分だと思う人もいるかもしれません。しかし、モルモン書に刻まれた最も偉大な説教の中核を成すメッセージの一つは、人生に苦難や試練が度々もたらされるであろうことを暗に伝えています。ベニヤミン王は最後の説教において、死すべき世の基本的な目的—恐らく現世の根本的な目的そのものとは、「主なるキリストの贖罪により……聖徒」となることだと教えました。そのためには「子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者」となり、「子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従〔う〕」必要があると、続けて述べています。2

この聖句は、わたしたちにとってどのような意味があるのでしょうか。少なくともそれは、苦闘や争い、悲嘆や喪失といった経験は、どこか別の場所で、別のだれかにしか起きないということではありません。また、信仰にしがみつくのが恐ろしく難しいと感じる瞬間は、かつての迫害と殉教の日々に限られたものではないことを意味しています。主なるキリストを通して聖徒となることが、ほとんど—十中八九、成し遂げられないように思える時が、依然としてわたしたちに訪れるのです。そして、それは神が御自分の民に永遠の報いを確約してくださるまで続くでしょう。わたしたちは御心を受け入れ、従い、子供のようになることを求められます。今の状態では難しい、今後も厳しいだろうと感じる人もいることでしょう。

今日、わたしが愛してやまないこの大学の学び舎において、わたしが願うことは、わたしたちが将来必ず訪れる苦難と精錬の時に備え、今から訓練し、今確固とした者になることです。これからの大学生活を送る中で、そのような時に直面する人もいることと思います。そのときこそ、神への信仰、キリストへの信仰、末日聖徒イエス・キリスト教会に対する信仰の真価が問われます。そのようなときこそ、揺るぎない信仰を持たなければなりません。精錬する者の火にあって信仰が問われ、それが「やかましい鐘や騒がしい饒鉢」3以上のものであるかどうかを確認されるからです。一部の人にとって、その試練の 過酷さは、「現世 I」クラスでの、マラソンのように終わりの見えない期末試験のように思えることでしょう。そのような日々こそ、ハムレットが「苦難の海」と呼んだ海で航海するときであり、自分の小さな舟を浮かせるために、持てるすべての信仰が必要になるときなのです。

しかし、ベニヤミン王が語っているように、子供のように「従順で、柔和で、謙遜で、愛にあふれた者」であれば、海を渡ることはできます。この一節に関して、唯一解釈が必要だと思われるのは、神がわたしたちに試練や重荷を「負わせ〔る〕」〔訳注—英語では「inflict」〕ことを示唆していることだと思います。さて、改良エジプト文字は分かりませんが、ラテン語の「infligere」を語源とする、英語の「inflict」という言葉には、少なくとも二つの意味があります。一つは「打つ、打ちつける」あるいは「打ち倒す」5という意味ですが、これらは神や神の天使には当てはまりません。ベニヤミン王が用いたように、この言葉を適切に定義するなら、「負わなければならないこと、または耐えなければならないこと」6が起こることを容認することです。神は、最終的にわたしたちの益となるならば、それらが起こることを容認することができますし、そうしてくださることでしょう。もう一度言います。神は現在も、またこれからも決して、皆さんに破壊的な、悪意ある、不公平な事柄を及ぼされることはありません。ペテロが「神の性質」7と呼ぶものの中にそのような要素はありませんし、そのようにできるわけでもありません。神は定義においても現実にあっても、完全かつ全面的に、いつの日も、永遠にわたって善なる御方であり、神がなさることは何事もわたしたちに益をもたらすものなのです。8神はわたしたちを落胆させたり、害を及ぼしたり、夢や信仰を踏みつぶしたりする方法を、夜な夜な考えておられるわけではないと約束します。

さて、長々と前置きをしましたが、ほんの4か月前のトロイ・ラッセルとディードラ・ラッセルのもとに戻ってみましょう。9月8日の早朝、彼らの2番目の息子がBYUアイダホ校への入学の準備をするのを夜を徹して手伝っていたディードラ・ラッセルは、州間高速道路15号線を北上していました。高速道路がバージンリバー・ゴージ渓谷の脇にかなり切り込む箇所にある、マイル標識14の近くで、ディードラは小型トラックが高速道路のスピードで走ってくるのを目にしました。不運にも、そのトラックはディードラの方に向かって走行しており、ディードラがいる北上車線を南下していました。ハンドルを握っていたのは、酩酊状態にあった39歳の男性運転手でした。

これは、朝の5時半ごろに救急隊員が撮影した写真なので、写りが悪いのは御了承ください。正面衝突の後、ディードラが乗っていたチャコール色のホンダ車は、原型すらとどめていませんでした。〔大破した車両の写真が提示される〕

この残骸から連想される結果とは異なり、ラッセル姉妹は車内で身動きが取れなかったにもかかわらず、事故によって命を落とすには至りませんでした。救急隊員の卓越した働きにより、彼女はつぶれた車両から救い出され、ドクターヘリでセントジョージ地域医療センターへと搬送されました。この病院での彼女の入院は、約40日間にわたる集中治療を含め、今朝132日目を迎えました。彼女の命をかけた闘いは未だに続いています。

しかし幸いにも、ディードラは確かに生きています。

事故の2か月後、長男のコリンはカナダ・エドモントン伝道部で、タガログ語を使って奉仕するために出発しました。息子との別れを惜しんだディードラの精いっぱいの姿がこちらです。〔別の写真が提示される〕コリンの伝道の準備を手伝い、奉仕の業に出て行く息子を見送りたいという彼女の夢は、州間高速道路15号線、マイル標識14付近に置き去りにされてしまったのです。

ディードラの病状に関して、詳しくお伝えすることはしませんが、彼女の裂傷や骨折の度合いとその治療に必要な手術は、想像を絶するものでした。これまでに18回、手術室で手術を受けてきましたが、手術は今後も続きます。腎臓は損傷しており、外傷のうち少なくとも二か所は、縫合できるようになるまで傷口VAC(陰圧閉鎖療法)〔訳注—傷の治りを促進させる治療法〕を用いるため、開いたままにしておく必要がありました。言葉では言い尽くせないほどの痛み、相互に影響し合う損傷、繰り返される悪夢、また、ごく最近では、連続的なまひ発作が昼夜を問わず彼女を苦しめています。それでも、これらすべてのことは、彼女が何とか乗り越えようとしているということを示しており、わたしたちは皆心から感謝しています。

これはディードラの写真ですが、右手にいるのがトロイ、左手にいるのが地域七十人のジョン・シュミット長老です。今日お見せした写真の多くは彼を通じて入手できたものです。〔写真が提示される〕

天の恵みはわたしたちの功徳をしのぐ

こうした報告を友人たちから聞いたときにわたしが感じた福音に関する考えを、ここで幾つかお話ししたいと思います。

教訓1

まず第一に、この正面衝突から奇跡的に生き延びた運転手に対して非難の言葉を述べることは、今日のメッセージの目的ではありません。彼とご両親、またラッセル家の数人が、特別ゲストとして今日会場にいらっしゃいます。わたしたちの目的は、学ぶことです。それこそが、大学に通う理由です。この兄弟と、そのご家族が教えてくださったことの一つは、過ちを犯したとき、わたしたちはその深刻さにかかわらず、心からの後悔と悲しみを感じ、引き起こした損害や苦しみに対して責任を負うべきだということです。その過程にあって、そうした害を及ぼす出来事を招いた習慣や行動の変化を自らに課すべきです。しかし、自分にできることを果たしてもなお、あまり多くのことはできないのがほとんどです。だからこそ、わたしたちは自分の力が及ばない部分の埋め合わせや返済のすべてを担ってくださるよう、神に願い求める必要があるのです。わたしたちは天の恵みが自分の功徳をしのぐものであることをいつも心に留め、そのような助けを受けるにふさわしい生活を送ろうと努める必要が確かにあるのです。事故を起こしたこの善良な兄弟が、自分が成し得るすべてを行おうと努力し、わたしがたった今述べたことを、彼が知り得るあらゆる方法で果たしてきたことに心を打たれました。

例を挙げるなら、ディードラとトロイにあてて手紙を書き、祈り、訪問したことに加え、今年、彼と彼の親族は、クリスマスのプレゼントに一銭も使いませんでした。その代わりに、それに相当する金額をラッセル家に渡し、間違いなくラッセル家を破産へと追いやるほどの、すさまじい経済的負担を軽減するために使ったと知って、心を動かされました。

同じく心に迫り来る、真の後悔の例は、8枚におよぶ手書きの手紙であり、そのコピーがここにあります。この場ですべてを読むには長すぎるので、1、2行を少しだけご紹介します。

「ディードラ、わたしは自分があなたに〔してしまったことを思い、〕とてつもない後悔の念を感じています。心が〔痛み、〕息もできないほどです。あなたを苦しめてしまっていることを、心から申し訳なく思っています。.‌.‌

〔わたしを赦してくれるなんて〕トロイ、あなたは天使です。.‌.‌.‌これまでの人生ですでに、大変な経験をしてこられたのに、今度はわたしのせいでこんな状況に陥るなんて、ほんとうに申し訳ありません。.‌.‌.‌〔しかし、〕わたしはもう一度教会へ行こうと思います。毎晩聖典を読んでいます。

お子さんたちに、お母さんを痛い目に遭わせてしまったことを申し訳なく思っていると、お伝えいただければと思います。〔ディードラ、〕自分があなたの命を奪いかけたことは承知しています。ですが、もし気にかけていただけるようでしたら、お伝えさせてください。あなたはわたしの命を救ってくださいました。

心を込めて.‌.‌

この話の真の希望に満ちた、前向きな結末を願う一方で、わたしの頭の中では、鳴り響くドラムのようにいつも思い出すことがあります。雨の日も晴れの日も、昼夜問わず、春夏秋冬どの季節でも、福音の律法に従うことには愛に満ちた理由があり、福音の原則を守ることには尊ぶべき理由があるのです。神の戒めを守るのはほんとうに大切なことです。明らかにされている「すべきこと」「すべきでないこと」には確かな目的があるのです。

わたしたちは皆、愛にあふれる神の知恵に気づかなければなりません。決意を新たにするために、あのようなホンダ車の写真をもう一枚見る必要はないのです。神は、車や高速道路、ドクターヘリなどの想像もつかなかった何十年も前に、アルコール摂取がもたらす破壊的な可能性について明らかにされたのです。この事故による被害者および加害者が負担した費用を再び書き出さなくとも、わたしたちは天の御父が流される涙を知るべきです。御父はただ、わたしたちが互いを大切にし、姉妹たち、兄弟たちの幸福に無頓着になるのではなく、人々の幸福のために注意深くなるよう求めておられるのです。親の呼びかけと神の警告に対して子供のように従順であるならば、最終的にわたしたちやほかの人々の激しい苦悩を避けることができます。だからこそ、御父の独り子はこう叫んだのです: 「もし〔あなた〕がわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」9その嘆願と要請のために、救い主とともに立ち上がることは、同僚であり仲間でもある十二使徒の方たちとともに、わたしが使徒として果たすべき責任の一部です。わたしたちはいつでも愛の手を差し伸べます。その愛情の証拠として、わたしたちは戒めに対する従順を求めるという道徳的義務をいつも負っています。

どうか、どうかお願いします。わたしは今日、人生の試練や苦難に対して、また神聖な戒めに対して、聖徒として子供のように、またキリストのように従うことについて伝えようと努めています。皆さんは苦難や試練をすでに経験済みだと感じているかもしれませんが、ホランド長老の今日のディボーショナルのテーマは知恵の言葉だったと、来れなかったルームメイトに伝えるために、この場から出ていくことがないように、どうかお願いします。老いぼれたこのわたしが泣くのを見たいのなら、構いませんが。飲酒運転がもたらす悲しみよりも、もっと重要で、意義深いメッセージを見いだせるようにと祈ります。

教訓2

戒めが存在する理由、また戒めを破った際に赦しを求める必要性を理解いただいたところで、2つ目の教訓に移ります。それは、赦しというコインの裏側にあるものです。戒めに背いた人が、解放と平安へと至る一環として赦しを求めるのと同じように、また、少なくとも一つには自分に解放と平安がもたらされるように、わたしたちは人を赦す必要があります。トロイとディードラはこの恐ろしい経験に対して、当然ながら憤りを感じてきたかもしれませんが、二人は害をもたらした相手に対して、赦しを差し控えることなどできない、差し控えるべきではないとも感じてきました。少なくとも、そうした思いが湧く理由の一つは、トロイ自身が過去5年間の人生おいて、不慮の事故であったとはいえ、自分の行動が原因で9歳のオースティンを失ったことに苦しんできたからです。

今朝、それをこの場に当てはめるなら、ある時どこかで犯した何らかの過ちのために赦しを必要としなかった人など、このキャンパスのどこにも、だれ一人として存在しません。わたしたちの行いは、今日詳しく語ってきたように、深刻なものではなかったかもしれませんが、わたしたちは皆間違いを犯してきましたし、重大な過ちを犯したこともあったでしょう。過去の過ちが何であれ、わたしたちは皆、神が赦しの御父であられること、御父が憐れみと解放という賜物を与えてくださることに感謝しています。突き詰めると、それらすべては神の独り子、主イエス・キリストの荘厳な贖罪を通してもたらされるのです。わたしたちはそのささげ物に加わり、携わる必要があります。ラッセル家は、それを実践しました。一家は苦悩の中にあっても神を仰ぎ見て、へりくだりつつも確固たる思いで救い主に従い、助けを必要としている人に赦しの手を差し伸べたのです。彼らは「従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者」となりました。彼らを困らせるつもりはありませんが、確かにラッセル家は「主なるキリストの贖罪により聖徒となり」つつあるのです。

教訓3

さて、この事故から学んだ3つ目の教訓です。ラッセル家の人々が口にするのを聞いたことはありませんが、苦難と苦痛にあるすべての人と同じように、彼らも時にはこう叫んだかもしれません。「なぜわたしが? なぜ再び、このような目に遭うのでしょうか?」あるいは「人生の間、どれほどの苦難に立ち向かわなければならないのですか」「神はそもそも、ほんとうにわたしのことを気にかけてくださっているのでしょうか」と。

そのように問いかけたことがあったなら、同じ問題を抱える仲間と言えるでしょう。詩篇の作者は、「主よ、いつまで……わたしをお忘れになるのですか」と尋ねました。10預言者ジョセフは「おお、神よ、あなたはどこにおられるのですか」と問いかけました。11救い主御自身でさえ、贖罪の耐え難いほど過酷な試練の中にあって、見捨てられてしまったのではと思われたのです。12それでも、こうした忠実な霊の持ち主一人一人に対する神の答え、絶望という暗闇の淵で発せられた問いに対する答えは、常に、間違いなく同じです: 「安らかにしていて、わたしが神であることを知りなさい。」13神がわたしたちを置き去りにされることはありません。わたしたちは見捨てられてはいません。神の約束は確かなものです。聖き愛は、絶えることがないのです。「万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。」14

ですから、逆境という鉄床〔訳注—加熱した金属を載せて加工するための作業台〕の上に打ちつけられているとき、恐らく他の方法では学び得ない、厳しい教訓をもって霊が精錬されるとき、あわてて逃げないでください。船から飛び降りないでください。ビショップ、伝道部会長や神に向かって拳を震わせないでください。その苦痛に満ちた時期にあって皆さんを支えてくれる、唯一の助けと力の源にとどまり続けていただきたいのです。人生というレースにあってつまずくときは、皆さんのけがを治療し、立ち上がらせ、コースを完走できるように手助けしようと、いついかなるときにも変わらず待機してくれている、これ以上望むべくもない医者から、はって逃げたりしないでください。

人生において、自分の身に起こるあらゆることの理由が分かるわけではありません。悲劇を免れることがあれば、そうではないこともあります。しかし、そのようなときこそ、信仰が真に何らかの意味を持つはずであり、そうでなければ、そもそも信仰とは言えないのです。そのような厳しい状況にあって、そう望むのはまれなことですが、アルマが思い起こさせてくれた、信仰と知識は関連しているものの同義語ではないという事実を頼みとすることができます。知識、純粋な知識、完全な知識を持てる事柄もありますが、ある事柄に関しては、知識がもたらされるまで信仰を実践する必要があります。15また、愛するホランド姉妹がいつも宣教師に話すように、何かほかにしがみつく対象があるのであれば、それはほんとうの信仰とは言えません。

わたしたち皆がともに必要としていること、皆さんやわたし、必死に踏みとどまろうとしている人々はもちろん、教会にあって確固としている人々まで、どのような状況にあったとしても、わたしたちに必要なものは、いつのときも変わりません。それは、力強い信仰です。裁きの日、あるいは日の栄えの栄光を受ける間だけでなく、この現世で、今、わたしたちを支えてくれる信仰なのです。わたしたちの多くは、教会の真実性や、キリストの贖罪および復活の現実性など、究極的、長期的、大きな問題に対しては、信仰を持っています。しかし、そのような信仰を今日、今朝の時点まで引き寄せて、目先のチャレンジに役立てることに関しては、毎度できているとは限りません。オースティンの死やディードラの自動車事故、財政難に、デートでの落胆、あるいは結婚や健康、そのほか何らかの個人的な必要に関して切望している祝福を請い求めることなど、答えがない、応じてもらえない、聞いてもらえていないと思える、数々の祈りがあるのです。こうした問題に関して、わたしたちが必要としているのは信仰です。この教会が真実であることや、キリストの贖罪および復活が現実のものであることなどの究極的な事柄に対してだけでなく、目先の問題に応じるときにも信仰が求められるのです。

目先の、迫り来る日々の生活にあって、従順に子供のような信仰を持つようにという、この呼びかけをもって、若き友人の皆さんを、ベニヤミン王が言い表した生活、イエスが完全なる模範を示された生活へと、皆さんを歓迎します。忍耐や寛容といった概念、言葉や原則が、皆さんの知り得なかった意味をもっている世界へようこそ。知識がなくとも、信じることをやめない世界へようこそ。天の御父を信頼し、目先のことであれ遠い未来のことであれ、御父のあらゆる約束が完全に、一言も違わず成就すると信じる世界へようこそ。しかし、この旅路にはある程度の苦悩が伴うことに留意してください。なぜなら、信仰から純粋な知識、現世における試練から日の栄えで受ける報いへと至る道のりは常に、何らかの形で、ゲツセマネを経由しているからです。その場所で、世の救い主と共にいるよう招かれるとき、わたしたちは、イエスがペテロ、ヤコブ、ヨハネに発せられた言葉:「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか」という厳しい問いかけに答える備えをしておかなければなりません。16例えて言うならば、探し求め、待ち望み、悔い改め、赦すというサイクルのすべては、重要なものでありながらも、アダムとエバから世の終わりまでのすべての人類の、あらゆる悲しみとあらゆる罪、あらゆる過ちを清めるために流された主の血に比べれば、「ひと時」よりもはるかに短いということになります。

この業にあって疑いなく、すばらしい同僚である若き皆さん、どうか皆さんの人生に涙や悲劇、心痛が次々と襲いかかってくるように思えるとき、そうした試練の意味や答えが理解できないとき、「まだ見ていない〔ながらも〕真実のことを待ち望む」よう、〔アルマ〕のように願います。17皆さんが生きているように確かに、アブラハム、イサク、ヤコブ、またサラ、リベカ、ラケルに約束された祝福のすべてが、すぐ先にも、遠い未来にも、そして永遠の世でも、皆さんを待ち受けているのです。

「悩みの時のとりで」

そうです! 悲劇と従順。心痛と信念。悔い改めと和解の虹。愛と真っ向からの衝突。これらは立派な男女が経験する問題ですが、一見すると、相反するものに思えることもあります。それでも、わたしは主の御名によって皆さんに約束します。助けはやって来ます。イエス・キリストの福音が持つ結束した力、かつてジョン・テーラー大管長が、永遠の真理に宿る、「強め、調和へと導く影響力」18と呼んだものによって、こうした矛盾が解決されるのです。

ですから、トロイ・ラッセルとディードラ・ラッセルも、若き聖徒のように従います。そして、彼らは愛と信仰という奇跡が絶え間なく広がり続ける輪にあって波紋を起こしていき、実に何百人もの人々、文字どおり何百人もの人々に達するのを目の当たりにするのです。例を挙げるなら、ラッセル家の洗濯をこなした人、日々食事を届けた人、子供たちを学校へ送り届けた人、毎日毎晩、セントジョージにある病院のベッドで過ごすディードラの傍らにいた、多くの人々です。ラッセル一家がネバダ州ヘンダーソンに住んでいることを忘れないでください。愛と信仰は、トロイがその何百キロもの距離を運転し、132日の半分を伴侶とともに過ごす助けとなりました。トロイがディードラに集中できる時間を持てるよう、彼の同僚たちは自分の仕事を早めに終わらせるようにしています。一方で、トロイの患者のうち二人がモルモン書を読み始めました。長年にわたって、5人のバプテスマ会と幼児の祝福の儀式への招待を断り続け、末日聖徒の礼拝堂には決して足を踏み入れないと誓っていた親しい友人は、コリンが伝道へ行く前に話をする聖餐会に来てくれました。この友人はそれが、何百キロも離れた集中治療室に横たわり、その場にいることのできない母親に代わって、自分にできるせめてものことだと考えたのです。つまり、チャコールグレーのホンダ車と、白いシルバラード小型トラックの変わり果てた残骸からでさえ、すべては御父が容認された事柄に立ち向かう際に示す、子供のような従順さと柔和さに応じて、奇跡がもたらされるのです。

〔病室から聴衆に語りかけるラッセル夫妻のビデオが映し出される〕

[ディードラ・ラッセル:]

ホランド長老が今日、皆さんに証を分かち合う機会をくださったことに感謝しています。数々の試練がわたしたちの人生に無かったら良いのにと願うことはありますが、自分にとってほんとうに、とてつもなくつらかった過去数か月で学んだことの一つは、わたしたちには愛に満ちあふれた天の御父がおられ、御父がこのような試練を経験することをお許しになる理由は、わたしたちが自分自身について学ぶことができるようにするためです。わたしたちは信仰を持つべきこと、強さを増し加えるべきことを学ぶことができます。中でも、救い主に頼る方法を身につけることができます。天の御父は確かに、天使を遣わしておられます。わたしたちを助けるために、たくさんの人を送ってくださったのです! 主は、わたしたちがどん底にあるときに、人々を通して助けを与えてくださいます。これらの経験がなければ、天の御父がわたしたちをどれほど心から愛してくださっているかについて、これほど強い証を持つことはなかったと思います。

[トロイ・ラッセル:]

オースティンがこの世を去って数週間後、一人の友人がやって来て、わたしが、だれもが経験し得る中でも、最悪の事態に見舞われたと言いました。わたしは少し考えてから、こう言いました。「そうは思わないな。だれもが経験し得る、最悪の事態は、家族と永遠に一緒にいられないことだと思うんだ。」妻は過去4か月の間に3、4回、生き長らえることができるか分からない状態に陥りましたが、心の奥では、たとえ彼女が耐えきれずとも、この世と永遠にわたって神殿で結び固められていることを理解していました。それこそが、ほんとうに重要なことでした。ほんとうの意味でわたしたちに備わっているものは、選択する能力だけだと思います。わたしたちの体は神から授かった賜物です。わたしたちが吸い込む空気も、神が与えてくださいました。すべての形あるものは、いつ何時に取り去られるか分かりませんが、わたしたちに持てるものが一つあるとすれば、それは選択の自由なのです。そして、わたしたちが経験する苦難や試練、困難のすばらしい点は、人を赦すことができるか否か、人に愛や思いやりを示すことができるか否か、人に助けの手を差し伸べることができるか否か、わたしたちが選択の自由を行使する機会をもたらしてくれるということです。わたしたちが救い主を愛していることを、皆さんに知っていただきたいと思います。主がわたしたちのために亡くなられたこと、また主のおかげで、家族としてともにいられると知っています。自分を不当に扱った人々を赦し、愛と思いやりを示し、ほかの人々のそばにいるために、いつも選択の自由を行使できるようにと願うばかりです。このことをイエス・キリストの御名により申し上げます、アーメン。

[ホランド長老:]

愛する若き友人の皆さん、わたしも皆さんに証します。人生が皆さんに落胆や悲しみをもたらす時が訪れると思いますが、そのような時にもイエス・キリストの福音と、完全な福音を支持する教会が、真実かつ力強いものとなることを証します。それは、詩篇の作者が「しえたげられる者のとりで、なやみの時のとりで」と呼んだものです。19愛と信仰、悔い改めと粘り強さ、神の寛容と神の憐れみ深い恵みについて証します。とりわけ、冒険の旅路の果てにある喜びについて証します。その喜びの中には、旅路の過程でわたしたちが経験するよう求められる、困難な事柄がもたらしてくれるものがあります。わたしたちは再び生まれ、精錬され、「主なるキリストの贖罪により聖徒」となる過程にあることを証します。その経験を重ねる途上で、わたしたちは子供のような信仰と謙遜さに近づくことでしょう。わたしはこれらの真理について証し、使徒としての祝福を皆さん一人一人に残します。天地の神が自分の生活の中におられることを探し求める中で、皆さんの心にある義にかなった望みのすべてが実現しますように。わたしは喜びと愛をもって、皆さんの中に、皆さんとともに、皆さんのために、自らの信仰を分かち合います。そのような信仰は、背負いきれるものも、背負いきれないものも含め、皆さんが感じているあらゆる重荷から皆さんを引き上げてくれるものであり、致命的ではないかと今恐れている、すべての傷に癒しをもたらすことでしょう。わたしは主の御名によって、愛を込めて分かち合います。主はそのようなことを行う力をもたらしてくださる御方であり、わたしたちが永遠の命へと引き上げられるために、自ら十字架に上がられた御方なのです。20イエスキリストの聖なる御名により、アーメン。

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1.ジェフリー・R・ホランド「教会の使者」 「リアホナ「2016年11月号、62、67参照

2.モーサヤ3:19;強調付加

3.1コリント2:14

4.ウィリアム・シェークスピア「ハムレット「「シェイクスピア全集「第3幕、第1場、小田島雄志訳、白水社、第3巻、

5.Random House Webster’s Unabridged Dictionary, 2nd ed. (1987), s.v. “inflict.”「inflict」979。

6.Random House Dictionary, s.v.  “inflict.”

7.黙示1:4。2から11節も参照

8.2ニーファイ26:24。モロナイ7:12-13も参照

9.ヨハネ14:26

10.詩篇13:1。アルマ31:26も参照

11.教義と聖約121:1-31

12.マタイ19:26、マルコ15:34参照

13.教義と聖約101:16。詩篇46:10参照

14.詩篇46:11

15.アルマ書32:21も参照;

16.マタイ26:40

17.アルマ32:21。へブル11:1も参照

18.John Taylor, “Discourse,” Deseret News, 1879年8月20日, 450.

19.詩篇9:9

20.3ニーファイ27:14-15も参照

ジェフリー・R・ホランド

十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランドは、2022年1月18日にこのディボーショナルを行いました。