ディボーショナル

人の価値は大いなるものである

BYU英文学科准教授

2013年8月6日

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神は愛であり、イエス・キリストの福音は愛の福音であり、真の弟子となることはその愛をすべての人と分かち合うことを必要とすることを証します。私の希望は、私たちがそれらの誤った価値のシステムを知り、否定し、代わりに真の弟子の証である愛を受け入れることです。


皆さんおはようございます。数か月前に、初めてイタリアに旅行する機会がありました。イタリアに滞在している間、巨匠によって作られた芸術を見ました。ミケランジェロ、ボッティチェッリ、フラ・アンジェリコやその他数多くの芸術家です。ミラノでは、レオナルド・ダ・ヴィンチのかの有名な最後の晩餐を見ることが出来ました。この壁画はサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂にあり、15分間の鑑賞のために事前にチケットを購入し、待つ必要がありました。予約の時間が近づくと、私は24人の人と共に狭い部屋で待ち、2つの気密室に案内されてから、ようやく絵画の鑑賞を15分の間許可されました。

腰を下ろし、絵画について、また何故この絵は測れないほど貴重なのか深く考えました。15世紀に作られた古い絵だからでしょうか?ミラノという場所が関係しているからでしょうか?絵を鑑賞できる人の数が限られているからでしょうか?では、お目にかかるのが難しい物ほど価値があるのでしょうか?ナポレオンが修道院を武器庫、監獄、厩舎として使用したことや、第二次世界大戦中に爆撃で部分的に破壊されたことなどの、歴史がその絵画の価値を高めているからでしょうか?乾いた壁に濡れた石膏で描く従来のやり方とは違った方法で描画されたため、より傷つきやすく、そのために価値があるのでしょうか?著名な巨匠ダ・ヴィンチが描いたからしょうか?テーマが価値を高める原因なのでしょうか?

腰をかけ、この絵を味わうと同時に、先ほど述べた質問について深く考えていました。心を揺さぶるような奥深い答えを思いついたと言いたいところですが、実際には質問が次々と湧いてきました。どのようにして価値は決まるのでしょうか?何が物の価値を、人の価値を高めるのでしょうか?

価値の定義

文学と文化の教授として、私は意味と価値の仕組みを解剖することを生業としていて、言葉は私の取り柄なのです。  オックスフォード英語辞典—すべての英語専攻者に5番目に重要な本—を開くと、value(n) という単語には以下の意味があります  。

•等価性の基準によって測定される価値または品質
•見積もりまたは交換の基準
•価値を持つもの
• ものの物質的または金銭的価値
• 評価
• 相対的な位または重要性
• 自尊心に基づく価値
•個人または集団に及ぶ、現実のまたは想定される望ましさまたは有用性
• 人や物に対する意見または好み
• 価値またはふさわしさ

これらの定義によれば、物の価値は推定、望ましさ、好感度、価値の概念と深い関係があります。「 評価する」という言葉の意味の根幹にあるのは「分析する」です。しかし、私たちはしばしば、人や物を検討し、分類し、ランク付けする価値のシステムを決定するのは誰なのか?といった疑問を持たずにいます。評価の仕組みやその指標を決める仕組みは誰が決めているのでしょうか?あるものが他よりも価値があるという「等価性の基準」を定めるのは誰でしょうか?

人間として、私たちがこの世界を理解する1つの手段は、私たちが出会う感覚、経験、物体を整理するための意味の体系を作ることです。一番上の甥のコナーと一緒に本を読んでいた時のことを覚えています。彼は様々な動物の区分について学んでいました。犬が牛とはどう違って、シマウマと犬がどう違っているかなどです。その動物の見た目や、鳴き声や食べ物といったもの全てが考慮されていて、彼はどのようにして違った種を見分けるのか学んでいました。同様に、私たちは国籍、人種、民族、性別、宗教、支持政党、婚姻関係といった区分を作り出し、人の持つ多様性を整理し、理解してきました。しかし、あまりにも頻繁に、私たちはこれらの描写的な区分を用いて、人の価値を決めてしまいがちです。このような人が作り出した価値のヒエラルキーは、分裂、争い、自尊心の歪んだ理解を引き起こす可能性があります。

逆に、神の私たちを評価するシステムは、つながりや思いやり、愛を促しています。私たちは神様の子供です。神は私たちを無条件に、永遠に、変わらずに愛してくださります。私たちの価値は無限大です。なぜなら私たちは御父の息子、娘だからです。全ての霊の価値は等しいのです。では、なぜ、私たちは神の子供たちを愛し、「正しく測る」ことができないのでしょうか?教義と聖約18:10で「人の価値が神の目に大いなるものである」と読みますが、私たちは本当にそれを信じていますか? それとも伝道する目的のためだけに、その聖句を心の中に留めているのでしょうか? 今日は、私たちがキリストの真の弟子となるために、私たちがする他人の評価の仕方と、主の方法をどのように一致させることが出来るか考えてみましょう。

あなたの価値は何でしょうか?

では、皆さんの価値とは何なのでしょうか?この質問は、最近乗った飛行機で盗み聞きに近い形で耳にした言葉です。(弁明をすれば、飛行機の中は全ての会話が筒抜けなのです。)その質問に答えるため、尋ねられた男性はポートフォリオ、保有不動産、そして純金融資産を挙げました。私は、その時こう思いました、「金持ちっ!誰も私の価値を預金口座額で測らないで頂きたいな! そうでないと、私の価値は「低く」なってしまう!]それから私は座って、富のような外的要因が個人の価値とどのような関係があるかより考えました。私はイーディス・ウォートンの小説 『The Age of Innocence』を思い出しました。この小説でウォートンは、金ぴか時代のニューヨークで巨額の富を築いた人たちの行動を記述し、価値を測るために使っていた複雑な慣例を遠回しに批判しました。これらの細かい決まりを守る人は、価値のある人として上流階級で受け入れられてきました。これらの決まりを守らなかったり、守れなかったりすると、低俗で品がなく、「不愉快な人」など最悪の呼び名で避けられました。

私がこの小説を生徒に教えると、生徒は本に登場するキャラクターや彼らの浅はかさを笑います。しかし、21世紀初頭の人々にも、「ホッツ」と「ノット」と区別する暗喩があります。(最近ローカルニュースであるFacebookページが引用されました)。授業で、私たちは他者を階層付けする様々な印や暗喩を特定し、リストを作りました。着ている衣服、使っている携帯、運転している車、好きなバンド、ジーンズのサイズや人間関係、住んでいるアパート、好きな映画、髭を伸ばしているかなどです。私の学生は一見特に重要でなさそうなこれらの物が、受け入れられ、価値がある者と見なされる為に重要な行動や考えを実は表していることを発見しました。

時折、私たちは知らず知らずのうちに、クリスチャンの理念と矛盾するもしくは異議を唱えるようなやり方で、人の価値を判断することがあります。富、外見、教育、人種、民族、ジェンダー、性的指向、宗教、支持政党は単に親近感や嫌悪感を抱かせるために使われるカテゴリーの一部です。受け入れがたいかもしれませんが、人は他人の価値を評価し、順位付け、かなりの頻度で共通点のある人たちに高い価値を付けがちです。よく言われることではありますが、人は知らないことに恐怖を覚え、その結果、違いは「悪」として捉えられてしまいます。一方で、馴染み深さは安心感を与えるため、似ているとそれだけで価値が高くなるのです。さらに、基準に満たないことへの恐れは、これらのネガティブな行動につながることがしばしばあります。なぜなら、私たちは誰かに劣ることを恐れ、他者より優れ、自分たちは価値が高いと信じたいがために他者を評価しようとします。

欠点のある評価体系

価値を測るこれらのシステムはどこから来るのでしょうか?これらのシステムは永遠でもなければ、神秘的な物でもありません。時代と場所を基に作られた人工のものであり、多くの場合これらのシステムを作り出した権力者にとって都合の良いもです。

例えば、人種的優越性といった科学的根拠がないアイデアは、何世紀もの間アングロサクソン人が他の人種よりも優れているとし、有色人種の価値を下げ、人として扱わず、その結果彼らの土地を奪い、奴隷や被験者として彼らを用いることを正当化してきました。最近まで、社会的には、2つのX染色体を持つ人は知的に劣っていて、感情のコントロールが出来ず、他者を管理するどころか、自分すら管理することができないと信じられてきました。この評価のせいで、女性は土地を持つことも、教育を受けることも、投票することも、矢面に立つことも出来ませんでした。

人を格付けし、分類し、そして階層化するこれら人工のシステムは、時間と場所とともに変化してきました。ある人はある人よりも優れていると決めるこのシステムは、破壊的で戦争や奴隷また差別といった社会や世界規模で起こった暴力を助長してきました。

これら誤った価値基準は、身近な所にも悪影響を与えています。それは個人が持つ価値や所属コミュニティの立ち位置についての意識です。他人よりも劣っている、悪目立ちする、性格を変えない限り受け入れてもらえないと言われると、心理的にも、霊的にも、そして時には身体的にも大きく摩耗してしまいます。

個人の感情や価値に悪影響を与えている価値基準の一つは、美です。人は、理想的な美を得るため躍起になりがちです。過度なダイエットや美容整形、摂食障害、顔の隅々までのメイクや、あまりにも頻度の高い髪や爪の手入れ、そしてショッピングなどです。これらの行動全てが美しくなりたいという欲望から来ています。というのも綺麗な人はより価値があると教えられてきたからです。

ここユタも例外ではありません。2007年11月、 フォーブス 誌はソルトレイクシティを最も見栄に満ちた都市に挙げました。理由は、人口一人当たりの整形外科医と化粧品の使用量が、アメリカの他の都市よりも多かったためです。2  国道15号線を下ると、より良い自分になるために見た目に気を使おうとする看板を次から次へと見るでしょう。フェイスブックの動画をスクロールしたり、ゴールデンタイム中のテレビのCMを見ると、体を物体として捉え、辱め、個人の価値と関連づける例をいくつか見るでしょう。私たちが、リアリティーショーに夢中になっているなら、私たちは沢山の美容整形番組、ビフォーアフター番組、デート番組、危険なダイエット競争を目にしているでしょう。そして、人は十分に美しくなることはできず、幸せは自分の肌、歯、髪、体重、形、衣装に左右されるというメッセージが植えつけられるでしょう。サムエル記上16章7節には、「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」とありますが、現代文化の美への執着は確かにそれを裏付けています。

この執着には代償がないわけではありません。総大会のお話で、ジェフリー・R・ホランド長老は、この誤った価値基準とその破壊的な性質について、年齢に関わらず全ての女性にこうお願いしました。

体型やスタイルも含め、だれかほかの人のようになりたいという気持ちを少し抑えて、ぜひ自分を受け入れるようにしてください。人は皆違います。………皆さんがスリムな体型に執着するなら、皆さんの娘やマイアメイドの教え子も皆さんの影響を受けやせようとするあまり、病気になったとしても不思議ではありません。………

………霊を破壊する行為であり、現代社会で成人女性と若い女性が直面する不幸の大きな原因となっているのです。そしてもし、大人が外見に執着するあまり、皮膚を引っ張り上げ、余分なものを切り取り、体に人工物を埋め込んで、改造できる部分を全部改造するなら、そのプレッシャーや不安は必ず子供たちに浸透していきます。この問題はモルモン書が「うぬぼれた空想」と呼んだものになります。3.

ホランド長老が言ったたように、外見へのこだわりと、価値をそこから見出す美という概念は、肉体的にも精神的にも猛威をふるいます。これは女性に限られたものではありません。男性も見た目のプレッシャーと上手く付き合わなければなりません。摂食障害、運動中毒、そして美を得ようとすることに伴った心理的な問題は、男性の中でも浮き彫りになっています。

美しい人はより良い人なのでしょうか? 神の愛は美しい人に多く注がれるのでしょうか?そうではないと、皆さんは断言できると思いますが、果たして鏡を見て自分を責める時に、他人の見た目を批判している時に同じことは言えますか?私たちは自分の言うことを信じられますか? 心にとめてください。理想的な美はこの世界の創造物なのです。何がこの間違った価値基準の原因かは分るでしょう。ファッション業界、広告、テレビ業界などです。私たちは、日々このようなイメージを浴びているのです。「これは美しい。こうなれば、あなたは人気者になるよ、価値が上がるよ、デートも誘いやすくなるし、結婚も簡単にできるようになるよ、あなたは愛に相応しくなれるよ」。これは間違っていると私たちは知っていますが、ホランド長老が言うように、「手が施せるところは全て作り変えようとする」割合や摂食障害や心を病む大学生の割合を踏まえると、対岸の火事ではないことが分かります。

あなたの隣り人を愛せよ

私の好きな文学作品の一つは、ロレイン・ハンズベリーの舞台劇 『陽なたの干しぶどう』です。この劇は、社会が確立した価値のカテゴリーが、いかにして個人を摩耗させるか明らかにし、解決策を示してくれています。ヤンガー一家は、第二次世界大戦後のシカゴのサウスサイドに暮らす貧しい黒人一家です。人種差別的な住まいや就労に関する慣例が、ヤンガ一家を追い詰め、家族関係を蝕み、各人から希望を奪いました。

第三幕の最初、ヤンガ一家はあるニュースに動揺しました。そのニュースは、ウォルター・リー・ヤングの取った行動のせいで、状況を良くする手立てになりえた小さな遺産を失ないました。ウォルターの妹のビニーザは、彼を責め立て、一人の男ではなく、「役立たずの卑怯者」と言い放ちました。

母親はビニーザを諫め、彼女にウォルターを愛するように教えたことを思いだすように促しました。それに対して、ビニーザはこう返事しました。「彼を愛するだって?愛せるものなんてないよ」。実際に、人種差別の抑圧的な重荷は、ヤンガー家族に何度も価値がないことを突き付けていたため、それを信じ始めていました。

でも、母親は次の記憶に残るセリフを言いました。

いつだって愛するものはあるよ。………ねえ、誰かを一番愛すべき時っていつだと思う?良いことをしたとき?それとも皆を助けた時?それじゃ、何も学んでないよ。そんな時じゃ全くないからね。どん底にいる時、自分を信じられなくなる時が最も愛すべき時なんだよ。だって世界がその人を苦しめているんだからね。誰かを評価するときは、正しく評価しなさい、分かった?正しく評価するのよ。彼が今の状況に至るまでに経験した苦難や試練を忘れてはいけないよ。4

母親はビニーザに全ての人には価値があって、愛するものは必ずあって、そしてどのようにお互いを評価しているか考えないといけないと念を押しました。母親の最終的な主張は、正しい評価は外的要因によるのではなく、人としての普遍的な価値に基づいているのです。そして、教会の教えを実践するクリスチャンである母親にとって、より深い意味合いを持ちます。価値は減ることはなく、愛するものは常にあります。なぜなら、一人一人が神の子供だからです。

天の御父は、私たちがこのことに苦労するだろうとご存知でした。実際、聖文は人々を順位付けしようとする人の衝動に抵抗し、代わりに神からの視点でありのままの人を見るようにとする教えで溢れています。例えば、レビ記には、イスラエルの民が彼らの中にいるすべての者を受け入れ、愛するようにとの戒めが含まれた聖文にこう書かれています。

もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。

あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。 あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。(レビ19:33-34)

神はイスラエルの民に、民族や宗教的慣習の人が作った仕組みを過去のもとし、「寄留の外国人」を「同じ国に生まれた者」として、愛するように仰いました。神は、私たちが別個と捉える他者を困らせてはならないと仰いました。神は、私たちに「私たち/彼ら」といった区別は人工のものと捉えるようにとも仰いました。すべての人は神の子供だからです。神はまた、イスラエルの民に、彼ら自身も寄留の外国人であり、私たちは皆、人生のどこかで寄留の外国人になりえることを注意されました。もし神が慈愛をイスラエルの民に、すなわち神の子供たちに示されてきて、これからもお出来になるのであれば、イスラエルの民も他の人々に慈愛を示すべきなのです。

レビ19:33-34節の前に、神はイスラエル人にこう命じられました。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」(レビ記19:18)。ここには「ある条件を満たす場合のみ、隣人を愛しなさい」のような但し書きはありません。最後の「私は主である」という文は、誰が話しているのかを強調し、等しく愛せよという神の戒律を、人を区別し、評価し、差別し、受け入れるという人の傾向と分け隔てています。

神の兄弟姉妹

私が最も苦手とする言葉の一つは、  「寛容」です。その言葉の一般的な用法は、話し手に優越性を、話題となる対象に劣等性を与えるニュアンスが含まれるからです。人の人となりや信念、行動をあなたが大めに見ることは、即ちあなた自身の人となり、信念、または行動が優れていることを意味します。しかし、これは主の道ではないと、私たちの指導者たちは指摘しました。CES(教会教育プログラム)のディボーショナルで、ダリン・H・オークス長老は、寛容を「馴染みのない意見や習慣、あるいはそれらを守り、実践する者に対する友好的で公正な態度」と定義しました。5     この定義の、友好的公平な言葉に気を向けてください。オークス長老はまた、「寛容の本質についてもっと思慮深くなるよう」にと私たちに尋ね、こう強調しています、「みんな…神の兄弟、姉妹なのです。敬意を払うべき存在です。」6

互いに尊重しあう姿勢は、ラッセル・M・ネルソン長老が総大会で、寛容に関する説教で使用した言葉であり、十二使徒定員会の最近の声明を用いています。「私たちは、思いやりと慈悲をもって相手を認めると、私たちには大きな違いがあるにも関わらず、穏やかに共存できると気づくことが出来ます。謙遜ではなく、思いやりと慈悲は、教会指導者が私達に重視するように招く特質です。」⁷

ディーター・F・ウークトドルフ管長は、「あなたはわたしの手である」の説教の中で言いました。

救い主のことを考える時、私はよく手を広げておられる姿を思い描きます。慰めと、癒やし、祝福と、愛の御手を伸べておられる姿です。謙遜な者、柔和な者を愛して彼らの中を歩み、彼らを教え導き、希望と救いをお与えになりました。

それが、主が現世の生涯で行われたことです。もし主が今の世で生涯を送られたとしても、同じことをなさっていたでしょう。そしてそれは、主の弟子として、末日聖徒イエス・キリスト教会の会員として、私たちが行うべきことなのです。

寛容が暗喩する判断、軽蔑、嫌悪は、上から目線ではなく、腰を下ろして会話なさる主の模範や惜しみなく全ての人を愛するという主の教えと一致しません。主と教会指導者が言われてきたように、思いやり、尊敬、公平、友好、思慮深さは、私たちが人生の中で意見、信念、立場の違いをどのように受け取るべきか示しています。オークス長老が言ったように、皆は神の視点からすると兄弟であり姉妹です。

キリスト自身が、人を階級、国籍、人種、性別、政治、信仰で区別することを拒否されました。その代わりに一人一人を、主の時間、奉仕、教え、愛を受けるべき存在の神の子と見てくださいました。病を患い、人から避けられた女性が主に近づき、助けを求め衣服に触れた時、救い主は彼女を非難も立ち去らせることもせず、彼女を祝福されました。(ルカによる福音書8:43-48) 罪の女が足を洗うために近づいたとき、キリストは彼女を懲らしめず、代わりに彼女の善行を受け入れられました。(ルカ7:37-38) パリサイ人が、相応しくない職業を生業としている人、政治家、そして占領軍と食事を共にしていることを非難したとき、キリストは、御言葉とその愛はすべての人のためであると言って彼らを叱責されました。(マルコ2:15-17;ルカ15:1-2) イエスは井戸でサマリア人の女性を見たとき、女性でありサマリア人である彼女をタブー視せず、彼女に話し、教え、そして彼女に愛をしめされました。(ヨハネ4:5-42)

同様にキリストのたとえ話は人を分類し、評価する人が作った垣根を超えて、本当の存在つまり神の子として見る必要があると教えています。ルカによる福音書10章の善きサマリア人は、その完璧な例です。皆さんに馴染みのあるお話です。一人の聖職者とレビ人が傷を負った男を見ましたが避けて通り過ぎました。サマリア人が次に来ました。イスラエルの敵とされるこの人は、「ああ、この人は外国人だ」、「この人は私の敵だ」、「この人は異教徒だ」、「彼は私に関係がないし、時間を割く価値もないから、誰か他の人が彼の世話をすべきだ」と言うことが出来たかもしれません。しかし、これらの違いや区別を認識する前に、そのサマリア人はこの男性を一人の価値ある男性と捉え、その認識に従って行動しました。外から来たこの男、異国の寄留人は強盗にあった男に同情し、傷を癒し、宿泊所を提供し、さらなる世話をしました。

このたとえ話を使って、キリストは、私たちはすべての人々を愛し、世話する必要があると教えられました。なぜなら、すべての人々は神にとって価値があるからです。さらに、この教訓を弟子たちと共有しておられるので、私たちの弟子としての基準は、私たちが他のすべての人とどのように関わるかということです。私たちは、他人を決めつけ、無視するのでしょうか? それとも足を止め、助け、奉仕するのでしょうか?

キリストの真の弟子となる

フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールが書いたことを思い起します。「愛、友情、怒り、思いやりによって、他人の人生に価値を与える限り、人の人生には価値がある。」。9 さて、私はすべての命には価値があると思います。しかし、キリストの弟子としての私たちの価値は、私たちが他の人々の命の価値にどのように貢献するのかによって決まるということです。もし私たちが他人を軽蔑したり、侮辱したり、否定したりするならば、私たちの弟子としての価値は減り、私たちを人たらしめる思いやりを破壊します。しかし、他者を尊重するとき、私たちは人の属性で最良のものを示すだけでなく、キリストの弟子としての役割を大いなるものにします。

聖書の中で何度も、預言者、使徒、そして主自身がすべての人々を愛するよう私たちに呼びかけています。幾つか例を挙げます。先程読みましたが、レビ記19:18は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と私たちに告げています。これはマタイ19:19節でも繰り返された戒めです。ヨハネによる福音書では、末日聖徒のコミュニティーで愛される賛美歌となった次の言葉を目にします。

新しいいましめを与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。

互に愛し合うならば、あなたがわたしの弟子であると、すべての者が知るであろう。(ヨハネ13:34、『共に愛し合え』、賛美歌、192番)

この明確な戒めは、キリストが弟子に助言し、弟子が伝道の準備をする時に与えられたものです。しかし、この戒めは、後世の主の弟子である私たちにも当てはまります。もし私たちがイエスを信じるのなら、私たちは互いに愛し合わなければなりません。互いにとは末日聖徒イエス・キリスト教会の会員だけでなく、地上にいる神の子供たちすべてを意味します。皆さんが教えている人々は、「キリストを確固として信じ、完全な希望の輝きを持ち、神とすべての人を愛して力強く進まなければならない。」とニーファイが求めたことと同じことをするでしょう(2ニーファイ31:20)。もし私たちが主を信じるならば、私たちはベニヤミン王の民が行ったように、「彼らの神、主に感謝をささげ、神 とすべての人々、そして神とすべての人に対する愛で満たされるように」するでしょう。(モーサヤ2:4)

聖文は繰り返し、弟子となることは互いに愛することだと教えています。繰り返しにはなりますが、ここには資格は一つもありません。聖文は、「神を愛し、すべての男女を愛しなさい。ただし、ある条件を満たす人は除く。」とは言っていません。  私たちは、キリストの弟子であるならば、すべての人を愛するように命じられています。

『 Institutes of the Christian Religion』において、 キリスト教の改革者ジョン・カルヴァンは、真の弟子であり、全ての人を愛にふさわしい神の子供であると認識することに必要な条件について語りました。カルバンは、誤った評価体系を支える様々な議論に取り組み、愛の福音でそれらの影響を和らげました。カルヴァンはこう書きました。

ある見知らぬ男がいたとしよう。主は、あなたがたになじみのある印をその男に与えられた。そのため、主はあなたがたが自分の体を蔑まないように命じた。  さらにその男は意地悪で思いやりのない人としよう。それでも主は、彼を主自身のかたちの輝きによって区別された者というだろう。(イザヤ書lviii, 7) あなたは、主と何の約束も交わしていないとしよう。しかし、主はその男を主自身の代わりに置いた。それによって、あなたは主が課した多くの偉大な義務を認識できるようにしているのだ。その男は、あなたが尽くすに値しない人だとしよう。しかし、神が彼を通してあなたに示す姿は、あなた自身と全ての努力に値するのだ。たとえ彼が何の益も生み出さず、ただあなたを傷つけ、悩ます存在だとしても、だからと言って、あなたが彼に愛を抱かず、愛の務めを果たさない理由にはならない。10

カルヴァンが何度も繰り返していることは、神のかたちと恵みは、私たちが拒絶したり、軽蔑するすべての人々にも見られるということです。神はまた、私たちはすべてつながっており、他の誰よりも優れている者はないと強調しています。そして、すべての人間は神の子供であり、すべての人は、私たちの愛情と「愛の務め」に相応しいのです。あるいは、ウークトドルフ管長の話に戻ると、私たちは皆、神の形にかたどられており、またキリストの犠牲が全ての人の魂に刻まれているので、すべての人が主の御手となり、他者に仕え、認め、歓迎し、友人となり、癒し、高めることを求められています。モロナイ8:16には、「完全な愛はあらゆる恐れを取り除く」とあります。神と人の愛は、違いや評価されることから来る恐れを払拭します。それは私たちを神のような者に近づけ、私たちに愛を示すより大きな能力を与えます。

これは私の好きな聖書の一節、ヨハネの第一の手紙からのメッセージです。この手紙でヨハネは、神の愛の本質と愛がキリストの弟子の真の証であることを説明しています。

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。(1ヨハネ4:7)

愛さない者は、神を知らない。神は愛である。

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。

愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。………

………神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。(ヨハネの第一の手紙 4:16)………

わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。

神を愛していると言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。(ヨハネ4:7-11, 16, 19ー21参照)

私たちは神の子供であり、偉大な価値があり、神は私たちを愛しておられます。神は私たちを愛し、恵みをもって祝福してくださったので、私たちはすべての人を神の子と見て、彼ら、私たちの兄弟姉妹を愛するように命じられている。この手紙は、偽善に対する警告です。もし私たちが神を愛していると言っても、他人を卑下するなら、私たちは神を真の意味で愛していません。なぜならば、神が抱く愛は、私たちの心から邪な思いを追い出すからです。ヨハネが書いているように、「そのひとり子を たまわったほどに、この世を 愛して 下さった。それは 御子を 信じる者が ひとりも 滅びないで、永遠の 命を 得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)、「神はこの世―この世の一部や、この世に住む特定の人々ではなく、その世界―を愛しておられた」ため、神は御子を遣わされました。これは、神にとって大きな犠牲を伴うものでした。その代わり神は、私たちが些細な分裂や、排他的な宗派対立、また誤った価値の階層を捨て、一人間としてのまた神の子供しての価値に目を向けるように求められています。

愛する「理由」ははっきりしていますが、その「方法」は 時として理由ほど明確ではありません。神の子を愛するには、謙虚さと愛したいという願望が必要です。それは、人を人工のカテゴリーに分類して見るのではなく、神の子供として見なければならないことを意味しています。こうなるには、忍耐と努力を要します。この領域には、簡単にはたどり着けません。時には失敗することもあるでしょう、上手くいかなくても、自分を許し、より良い弟子になるために努力する必要があります。

あなたの無限の価値

これらを踏まえたうえで、あなたの価値とは何でしょうか?人がこれまでに作った誤った基準による価値よりも、もっと高い価値があると理解して欲しいのです。ポートフォリオに組み込まれているもの、服のサイズ、支持する政党、肌の色、ジェンダーといった物とは無縁でいてあなたには無限の価値があります。なぜでしょうか?第一に、あなたは人間であり、すべての人間の価値は等しいからです。第二に、皆さんは皆さんを愛しあなたの価値を理解しておられる天のお父様とお母様の子供だからです。

神は愛であり、イエス・キリストの福音は愛の福音であり、真の弟子となることはその愛をすべての人と分かち合うことを必要とすることを証します。私の希望は、私たちがそれらの誤った価値のシステムを知り、否定し、代わりに真の弟子の証である愛を受け入れることです。イエス・キリストの御名により、アーメン。

脚注

1.  オックスフォード英語辞典 (2013年、オンライン)、S.V. 「value」。

2.Rebecca Ruiz“America’s Vainest Cities,“Forbes  2007年11月29日, forbes.com/20 29年11月7日/plastic-health-surgiry-forbeslife-CX_RR_1129health.html. 

3.ジェフリー・R・ホランド「若い女性の皆さんへ」”リアホナ”2005年11月号、29-30

4.Lorraine Hansberry, a Raisin in the Sun   (1958; repr. New York: Cascade Books, 1994年), 144-45; 

5.ダリン・H・オークス,“Truth and Tolerance”CES devotional address, 11 September 2011; See Also“Balancing Truth and Tolerance”, Ensign,   February 2013, 26.

6.ダリン・H・オークス 「Truth and Tolerance」

7.Statement of the First Presidency and the Quorum of the Twelve, 18 October   1992, 4; quoted in the Church News, 24 October 1992, 4; quoted in Russell M. Nelson,“Teach Us Tolerance and Love,”Ensign, May  1994, 71.

8.ディーター・F・ウークトドルフ 「あなたはわたしの手である」 ”リアホナ”2010年5月号、68-70、

9.シモーヌ・ド・ボーヴォワール、 The Coming of Age, trans.パトリック・オブライアン(ニューヨーク: パトナム, 1972), 541.

10.ジョン・カルヴァン, Institutes of the Christian  Religion, vol.2, trans.ヘンリー・ベヴァリッジ(ミシガン州グランドラピッズ: WM. B. Eerdmans Publishing Company, 1981), 11-12

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脚注

1.  オックスフォード英語辞典 (2013年、オンライン)、S.V. 「value」。

2.Rebecca Ruiz“America’s Vainest Cities,“Forbes  2007年11月29日, forbes.com/20 29年11月7日/plastic-health-surgiry-forbeslife-CX_RR_1129health.html. 

3.ジェフリー・R・ホランド「若い女性の皆さんへ」”リアホナ”2005年11月号、29-30

4.Lorraine Hansberry, a Raisin in the Sun   (1958; repr. New York: Cascade Books, 1994年), 144-45; 

5.ダリン・H・オークス,“Truth and Tolerance”CES devotional address, 11 September 2011; See Also“Balancing Truth and Tolerance”, Ensign,   February 2013, 26.

6.ダリン・H・オークス 「Truth and Tolerance」

7.Statement of the First Presidency and the Quorum of the Twelve, 18 October   1992, 4; quoted in the Church News, 24 October 1992, 4; quoted in Russell M. Nelson,“Teach Us Tolerance and Love,”Ensign, May  1994, 71.

8.ディーター・F・ウークトドルフ 「あなたはわたしの手である」 ”リアホナ”2010年5月号、68-70、

9.シモーヌ・ド・ボーヴォワール、 The Coming of Age, trans.パトリック・オブライアン(ニューヨーク: パトナム, 1972), 541.

10.ジョン・カルヴァン, Institutes of the Christian  Religion, vol.2, trans.ヘンリー・ベヴァリッジ(ミシガン州グランドラピッズ: WM. B. Eerdmans Publishing Company, 1981), 11-12

クリスティン・L・マシューズ

このディボーショナルが行われた2013年8月6日当時、クリスティン・L・マシューズはブリガム・ヤング大学の英文学准教授であり、アメリカ研究プログラムのコーディネーターを務めていました。