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ディボーショナル

恐れるな

2014年12月9日

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今日の主の皆さんへのメッセージは、はるか昔に主が天使たちを通して送られたメッセージと同じです。「恐れるな。」主がそう言えるのは、主がわたしたちよりも多くのことを御存じだからです。主はわたしたちに見えないものを御覧になっています。主はこれから起こることを御存じであり、永遠の観点から見れば、それはわたしたちが考えるほど悪くはありません。


この12月の寒い朝に皆さんとご一緒できることに感謝します。ともに過ごすわずかな時間の間に、御霊の温かさがわたしたちを祝福し、教化されるように祈ります。

今日は、これまで語られた中で最も偉大な物語と、あまり目立たないですが、最も重要なテーマの一つについてお話ししたいと思います。恐らく、この物語の多くを暗唱できるでしょう。それは聖典の1ページあまりにすぎません。それは、税金を支払うというおなじみの義務から始まります。当時としては珍しくはなかった旅で続きます。「宿屋」に部屋が見つからないと、話の筋が混み入ってきます。1 神の御子が「尊い選ばれた」おとめマリヤからお生まれになるときに最高潮に達します。2

わたしたちは実在の人物についてほとんど知らず、実際の出来事の詳細もほとんど知りません。それでも、最初のクリスマスの物語を何度読んでも、そこには必ず何か新しいことを学べることがあるようです。それは、預言者たちが教えているように、「神の言は生きている」からです。3 わたしたちが霊的にそれを受け入れる準備ができているときはいつでも、それは新鮮で深い意味を帯びてきます。

救い主の降誕の話でわたしが特に印象に残っているのは、4回にわたって天使が現れ、「恐れてはならない」と告げたことです。

天使ガブリエルがザカリヤの妻にメシヤの先駆者である息子を産むという知らせを持って現れたとき、ザカリヤはこう言いました。「恐れるな、あなたの祈りが聞きいれられたのだ。」4

後に同じ天使が「美しく、または麗しい」5 マリヤのもとを訪れ、彼女が神の御子の母親になることを告げ、同じような言葉で断言しました。「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。」

その後、天使が夢の中で大工のヨセフに現れ、こう言いました。「心配しないでマリアを妻として迎えるがよい。」7

そして、その聖なる夜に、永遠のすべてが敬虔な沈黙の中で見ていたとき、天使が羊の群れを見守る謙遜な羊飼いたちに現れました。「非常に恐れた」8 羊飼いたちは、天使がこう宣言するのを聞きました。「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。」9

降誕の物語の重要な瞬間に起こったことの多くは、ザカリヤ、マリヤ、ヨセフ、羊飼いのような人々の勇気にかかっていました。神は彼ら一人一人に重要な使命を与えていました。彼らの人生は永遠に変わろうとしていたのです。もし彼らが恐れに負けていたとしたら、どうなっていたでしょう。もし彼らが後戻りし、疑い、神が求めておられたことを行わなかったらどうなっていたでしょうか。

最初のクリスマスの話に出てくる、このあまり目立たないテーマに興味をそそられます。なぜなら、わたしも皆さんと同じように恐れを抱いており、時には恐れてはならないことを思い出す必要があるからです。皆さんの恐れは何なのかわかりません。自分にはもう二度と子供ができないのではないかと恐れていたザカリヤのように、自分の家族について恐れを抱いているかもしれません。あるいは、恐れているのは、子供を産めないことではなく、 子供を産むこと 、つまり家族に対する敵意が増す有害な世界で子供を育てなければならないことかもしれません。マリアのように、自分の能力をはるかに超えていると思われる割り当てや責任があるかもしれません。ヨセフのように、結婚することに恐れを抱いているかもしれませんし、自分は結婚しないだろうと恐れているかもしれません。神が自身の計画よりも大きな計画を用意しておられるために、平和でシンプルな生活が乱されるとき、羊飼いのように「非常に恐れ〔る〕」かもしれません。

人生には恐れを抱く機会が際限なくあります。人にどう思われるかを恐れることがあります。失敗や拒絶を恐れることもあるでしょう。生活の中で変えなければならないと分かっていても、変化をもたらすことを恐れているのかもしれません。あるいは、来週の期末試験が怖いだけかもしれません。失敗や拒絶を経験し、自分にはその資質があるのだろうかと疑問に思うこともあるでしょう。経済的な不安、教育や職業上の不安、人前で話すこと、蛇やクモに対する恐れがあるかもしれません。そうです、わたしたちは美しい世界に住んでいますが、そこには恐ろしいことがあります!

わたしは、皆さんの多くが、教化され、霊感を受けるために今朝来ているのに、今わたしが皆さんを怖がらせてしまったのではないかと恐れています。まあ、皆さんを怖がらせるためにここに来たのではないし、皆さんがここに来たのは恐怖を思い出させるためでもないでしょう。わたしたちは皆、人生のストレスや困難の中、神の平安と強さを受けたいと切望します。

今日の主の皆さんへのメッセージは、はるか昔に主が天使たちを通して送られたメッセージと同じです。「恐れるな。」主がそう言えるのは、主がわたしたちよりも多くのことを御存じだからです。主はわたしたちに見えないものを御覧になっています。主はこれから起こることを御存じであり、永遠の観点から見れば、それはわたしたちが考えるほど悪くはありません。主はわたしたちを強め、救う方法を御存じなので、わたしたちが主の助けを受けながらそれらに対処できることを御存じです。10

何よりも、主は恐れるなと告げておられます。なぜなら、恐れはわたしたちを無力化することを御存じだからです。それは、わたしたちが神の御心を知り、主の祝福と愛と光を受け入れ、主の目的を果たすことにたいして大きな障害となります。ハワード・W・ハンター大管長は次のように教えました。

恐怖…は、サタンが人類を不幸にするために用いる武器庫の主要な武器です。恐れる人は、人生の戦いで悪と戦う力を失います。そのため、悪しき者の力は常に人の心の中に恐れを生じさせようとします。

気弱で、恐れを抱いている人々はよい働きができませんし、決して神の業を行えません。末日聖徒には神から割り当てられた果たすべき使命があり、恐れや不安でそれを無にしてはなりません。

サタンはわたしたちが恐れに屈することを望んでいます。神はわたしたちが希望を抱き続けるよう望んでおられます。

好きな聖句は、2テモテ1章7節です。「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」これらの言葉を枠組みとして、力、愛、慎みが恐怖の解毒剤としてどのように役立つかを一緒に探求しましょう。

まず、「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力の霊」なのです。

この「力の霊」は、この世の力のようなものではありません。主と主の聖約の民は、この世が通常行っているようには働きません。この世は、力は富や人気からもたらされ、人生は、より多くのものを手に入れたり、言葉や破壊兵器を振り回したりして、人よりも先に進む競争であると教えています。 

主の道は、より深く、より高く、より神聖なものです。神の力は、「寛容により、温厚と柔和により、また偽りのない愛により、優しさと純粋な知識による」治めておられます。12 この世の力が劇的なデモンストレーションに依存するのに対し、主の力は「天からの露のように」13、奇跡的ですが、静かに、謙遜に滴ります。この世の力が少数の特権階級の人のためのものですが、すべての人が主の力にあずかることができます。それは神権の儀式に現れます。14 わたしたちは神聖な聖約を交わし、それを守ることによって主の力を得ることができます。心からの祈り、断食、そして「キリストの言葉をよく味わう」ことによって、それを養います。15

恐らく、このような力を持ち、それゆえに恐れを知らない人を知っているでしょう。恐らく、この世の基準では力強いと認められることはないけれど、その霊的な力は否定できない人です。

30年近く前に事故で亡くなった父もそのような人でした。今でも、「彼は今まで知った中で最も親切な人だった」と言う人々に会います。彼は華やかでも一流企業でもない製鉄所で働いていました。恥ずかしながら、若い頃は父に対して、もっと頭が良くて、かっこよくて、お金持ちだったらいいのにと思っていました。ありがたいことに、私はそれ以来成長し、今では、これほど尊敬する人はいません。

製鉄所で一日を過ごしたことがある人はいないと思いますが、製鉄所は静かで清潔な環境ではないとまず言っておきましょう。そのような状況では、権力は通常、ぶっきらぼうで粗野な言葉によって主張されます。それなのに、父はそこで30年以上暮らしましたが、卑語を使ったり、思いやりのない言葉を言ったりしたことは一度もありませんでした。彼は声を荒げることすらありませんでした。彼が亡くなった後、彼の仲間たちは、状況に関係なく、彼がいつも楽しく前向きであることを頼りにできると私に言いました。お弁当箱には、彼が昼休みに熱心に研究し、仲間によく配っていた教会のパンフレットが丸まって入っているのを見つけました。仲間の多くは、彼の善良さと模範のために教会に活発になりました。

それは恐れを知らない力です。それは、神を信頼し、イエス・キリストを信じる信仰を持つ人々にもたらされる力の一種です。世の方法と異なっていても、神の方法で行動する信仰です。その信仰は、単なる前向きな考えや、やる気を起こさせるものではありません。預言者ジョセフが教えたように、信仰は力です。16 信仰はわたしたちに霊感と力を与え、そうでなければ成し得ないすばらしい勇気あることを行う力を与えてくれます。実に、このような信仰は「神〔と人〕の前において自信は増〔す〕」17 という力を与えてくれます。

自分は無力だと感じて恐れを抱いているなら、主に立ち返るようお勧めします。すでに交わし守っている聖約の力を活用してください。神の力を信頼してください。神の力は地上のいかなる力よりも強大だからです。古代イスラエルに対する神の言葉は、皆さんに対する神の言葉でもあります。「あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手をとってあなたに言う、『恐れてはならない、わたしはあなたを助ける。』」

パウロが挙げた恐れを追い払う徳の次は愛です。パウロとモルモンが教えたように、「完全な愛はあらゆる恐れを取り除く」のです。19 伝道に出たことのある人ならだれでも、わたしが話していることを経験で理解しているでしょう。考えてみれば、専任宣教師としても、神とその子供たちに対する愛がなければ、恐怖で心が震えるような経験になることでしょう。しかし、皆さんの多くを含む何万人もの若い男性と女性が、毎年奉仕しています。なぜなら、神がキリストのような愛という賜物をお与えになったからです。

わたしたちは皆、伝道の召しを受けたとき、地図でグアテマラを見つけることはおろか、綴りすら書けなかった若い宣教師を知っています。しかし、帰還するころには、寝室の壁にグアテマラの国旗が掲げられ、愛するグアテマラの人々との思い出が心に刻まれていました。伝道に出る前にこの愛の賜物を受け取る宣教師もいます。ほかの人は、伝道の途中までそれに気づきません。しかし、すべての宣教師はどこかの時点で人々を愛することを学ばなければなりません。そうしなければ、伝道は悲惨なものとなるでしょう。

これは、何年も前にアルゼンチンで宣教師として学んだ最も偉大な教訓です。伝道中、最善を尽くし、成功という祝福を受けましたが、1年目と2年目は違いました。最初の年、わたしの動機は完全に純粋ではありませんでした。バプテスマで伝道部を導き、伝道の指導者としての階層を上り、人々に好印象を与えたいと思っていました。ありがたいことに、わたしはより献身的な宣教師の同僚になり、その同僚は人々をもっと愛し、楽しみ、心と精神を込めて彼らに仕える方法、自分を忘れて愛をもって働く方法を教えてくれました。焦点と動機が変わり、帰還した時にはほんとうに新しい心を得て、出発したときとは違うものになりました。

恐らく、恐れに打ち勝つ愛の力の最も驚くべき模範は、モーサヤの息子たちと、レーマン人に対する彼らの驚くべき伝道からでしょう。彼らがどれほど勇敢だったか、私たちは十分に理解していないと思います。レーマン人は福音に無関心であっただけでなく、あからさまに敵意を抱いていました。彼らは不倶戴天の敵であり、ニーファイ人であるというだけで日常的にニーファイ人を殺していたのです。彼らは正確には金人ではありませんでした! では、なぜモーサヤの息子たちはそのようなことをしたのでしょうか。

「〔彼ら〕は、救いがすべての造られたものに告げ知らされることを願った。彼らは、だれでもあろうと人が滅びるのに耐えられなかったからである。まことに、無窮の苦痛を受ける人がいると考えただけで、彼らは震えおののいた。」

二人の強烈な愛がとても強かったので、彼らはただ福音をすべての人に分かち合わなければならなくなりました。そうしないことに耐えられませんでした。そのような強さと真心から愛するとき、わたしたちは恐れに打ち勝ちます。

もちろん、愛は伝道活動だけでなく、人生のあらゆる面において恐れに打ち勝ちます。若いゴードン・B・ヒンクレーとマージョリー・ペイが婚約していたとき、ゴードンは恐慌に苦しんだ1930年代の結婚生活の経済的な現実について心配し始めました。彼は婚約者に電話し、話をする必要があると言いました。二人は昼食を食べながら会うことにしました。

「知っておいた方がいいと思うんだけど、ぼくは150ドルしか持っていないんだ。」彼は月に185ドルしか稼いでいないと付け加えました。

マージョリーは思いがけない楽観的な返答によって、彼の不安を打ち消しました。「ああ、それはいいんじゃない、150ドルあれば、大丈夫でしょう!」

その日の思いを振り返りながら、マージョリーはこう言いました。「夫が欲しいと思っていたのに、加えて150ドルももらっていたわ!」21 ヒンクレー姉妹の愛と信仰は、二人がともに人生を歩み始めるに当たって「恐れるな」という力を与えてくれました。この結婚は、70年近くにわたる愛と信仰と奉仕の結婚生活となりました。

愛は、人生の不確かな中にあっても、人生に意味を与えてくれます。それは、私たちがあきらめそうになったときに前進し続けるものです。それは、朝に私たちを目覚めさせ、夜に私たちを甘い夢に落ち着かせてくれるものかもしれません。愛はイエス・キリストの福音の真髄なのです。愛には終わりもなく、限界もありません。他のすべてが失敗しても、それは残ります。愛は決してあきらめないし、尽きることもない。ただ堪え忍び、克服するのです。実に、それは「いつまでも絶えることがない」のです。22

そのような愛を世に求めることはできません。大衆文化が愛という言葉をどのように使っているかを調べると、サタンがそれを理解していないことは明らかです。常に、愛のまがいものは、あっという間に薄く覆われた利己心、情欲、高慢、そして憎しみにさえも変わっていきます。

一方、神は愛を理解しておられるだけでなく、真の愛であられます。23 実際、わたしたちの愛の表現は、ただ神の絶え間ない無限の愛の反響です。愛を養おうとするわたしたちの努力は、その過程で神の愛が注がれなければ、実を結ばないでしょう。結局、すべての愛は神からもたらされるものです。主を求めれば求めるほど、主の愛がわたしたちの心と、愛する人々の心に大きな変化をもたらすのを感じるでしょう。そのような愛で満たされば、何を恐れるのでしょうか。

数年前の寒い冬の夜、わたしたちの親戚の何人かが、クリスマスの季節にホームレス施設で夕食を配ることをボランティアで行いました。最初、小さな子供たちの何人かは、都心部の避難所の光景、匂い、音に少し怯えていました。これほどの苦悩に直面したのは初めてでした。しかし、やがて小さなクリスマスの奇跡が起こりました。

温かい食事を配りながら、私たちは皆、ホームレスの住民たちと交流し始めました。笑顔や笑い声、お喋りを交わしました。すると、歌が始まりました。住人あるいは子供か、誰が最初に歌い始めたかはだれもわかりませんが、やがて全員がクリスマスキャロルを歌い始めました。部屋はクリスマスの愛らしい精神で満たされました。まるですばらしいパーティーのようで、家族の再会のようでした。彼らはもはや他人ではなく、兄弟姉妹であり、同じ神の子供だったのです。それは力強く、個人的で、心に響く、決して忘れられない夜でした。

チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』の一節で、スクルージの甥のフレッドが、叔父の馬鹿げた態度から、クリスマスを大胆に擁護する場面を思い出しました。クリスマスを次のように表現しています。

「親切な、人をゆるしてやる、慈悲心に富んだ、楽しい時期だと。男も女も一様に揃って、閉じ切っていた心を自由に開いて、自分達より目下の者どもも実際は一緒に墓場に旅行している道伴侶で、決して他の旅路を指して出掛ける別の人種ではないと云うように考える、  一年の長い暦の中でも、私の知っている唯一の時期だと思っているのですよ。」

その夜、避難所で天使が歌うことはありませんでしたが、天国が近くにあるように思われました。神への愛、互いへの愛、全人類への愛を感じました。夜が更けて寒い夜に戻ると、わたしたちはそれぞれクリスマスの喜びと意味をより深く感じました。星が少し明るく輝き、私たちは皆、人生の共通の旅を旅行している仲間の何人かと少し仲良くなったように感じました。

恐れを抱いているなら、どんな恐れを抱いていようと、主に心を向け、主の愛と慈しみと恵みに頼るようお勧めします。地上のいかなる力よりも強大です。初期の聖徒たちに対する主の愛に満ちた言葉は、皆さんに対する主の言葉でもあります。「幼い子供たちよ、恐れてはならない。あなたがたはわたしのものであり、わたしはすでに世に勝っているからである。」

慎み

最後に、神は力と愛に加えて、恐れを払いのける健全な心の霊を与えてくださいました。「健全な心」とはどういう意味ですか。健全という言葉は(英語ではsound, 〔着実〕として翻訳されている)、安全、安心、信頼できるという意味です。どうすれば健全な心を持つことができるでしょうか。それは、海の中の最も安全で、最も確実で、最も信頼できる岩、すなわち主イエス・キリストと主の回復された福音に自分の錨を下すことです。

皆さんもわたしも、世の人々は、知的な嵐、哲学やイデオロギーの嵐のただ中におり、教義の風がわたしたちの多くを’あちらこちらへ’吹き飛ばします。26 宗教一般、特にキリスト教と末日聖徒に敵対するグループや個人が影響力を増し、欺きのメッセージを広めています。彼らの目標は単純です。信仰を打ち砕くことです。悲しいことに、だれにでも、友人や愛する人がその犠牲になりました。そのような状況で健全さを保ち、恐れを避けることは容易ではありません。救い主にしっかりと基を据えた人だけが生き残ります。

内陸のプロボでは、嵐や錨より身近なイメージを用いるために、この建物のすぐ外にそびえ立つ美しい山々について考えてみてください。「永遠の丘の影」という言葉が思い浮かびます。かなり安定していて、永続しているようでしょう。すぐに消えることはなさそうです。しかし、それらの山がどれほど頼もしく見えても、私は自分の霊的な安全をそこに賭けるようなことは決してしません。イザヤが「すべての谷は埋められ、すべての山と丘は低くされる」と預言したときに言おうとしていたのは、このことかもしれません。27 イザヤは続けてこう述べています。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言はとこしえに変わることはない」。28

ほんの数か月前まで、キャンパスの芝生がどれほど緑だったか覚えていますか?かつて中庭を飾っていた色とりどりの花を覚えていますか?今日のような日には遠い記憶のようでしょう。神の言葉に比べれば、人の教義、王国、制度はすべて、枯れた草や色あせた花のように永続的なものです。こんなに儚いものに信頼を置いていたら、間違いなく恐ろしかったでしょう。それは確かに健全な心の産物ではありません。いや、この嵐の中で、わたしはむしろ神の言葉を拠り所としたいと思います。

これは、ニーファイの弟ヤコブが行ったことです。聖文をよく味わい、喜び、大切にしたので、説得力のあるシーレムが現れ、「キリストの教義を覆そうとして」29 、「多くの人の心を惑そうと」30 、務め、最終的にヤコブをだまそうとしたとき、ヤコブは「動揺することは〔ありませんでした〕。」31 イエスは永遠の真理に関する霊的な経験をあまりにも多くしてきたので、偽物に欺かれることはありませんでした。

皆さんやわたしがヤコブの模範に従い、キリストの言葉という堅固な基礎の上に生活を築くことができるなら、欺きに対する免責を超えて、さらなる祝福を受けるでしょう。間違いを正す必要があるときや、深刻な疑問や疑いが湧いてきたとき、あるいはより大きな行動へと駆り立てるためにさらなる啓示が必要なとき、わたしたちは気分を害したり、動揺したり、いらだち、欺かれたりすることはありません。実際、わたしたちは心から愛する神の言葉をさらに、柔和に受け入れて喜ぶでしょう。

ヤコブが民に叱責の言葉を語らなければならなかったとき、彼は「真理の言葉はすべての汚れに対して厳しい…しかし、義人は真理を愛し、おののかないので、真理の言葉を恐れない。」32「心の清い人」にとって神の言葉は「喜びをもたらす」もので、「心は確固としている」ので、「とこしえに」「神の愛をよく味わ〔う〕」ものだと述べています。33

イエス・キリストの福音にしっかりとつながっている健全な心のある男女には、恐れる必要がないことがお分かりでしょうか。証と真の改心が心と頭の中で燃えているとき、彼らは最新の流行や哲学に動じません。 なぜなら、彼らはそれをありのままに認識しているからです。そして、たとえ変わることを求められても、真理を受け入れることを恐れません。このような謙遜でありながらも堅固な人々について、ニーファイは次のように述べています。「見よ、岩の上に建てられる者は喜んで神の真理を受け入れるが、砂の土台の上に建てられる者は、倒れるのではないかと震えおののくからである。」

大好きな賛美歌の力強い歌詞に勇気を出しましょう。それらは、あたかも主御自身の口から出たかのように書かれています。

「恐れるな、われは汝が神 

常に汝と共にあり 

わが正しき力をもて 

汝れを支え、励まさん。」

確かに、「固き基」は、痛む時も、健康の時も、貧しくも、富める時も、海に、火の矢、火のような試練など、人生におけるあらゆる困難に直面するとき、わたしたちを支えてくれます。

「主、われに頼るものの霊

敵の手には渡し得ず

地獄、彼に迫るとも 

われその霊を見捨てはせず 

必ずわれは見捨てず」

天の御父はそばにいていつでも助けようとしておられます。主に頼り、主の固き基の上に築くよう、皆さんにお勧めします。地上のいかなる土台よりも力強く、永続的なものです。世界は皆さんの霊的な強さと力、愛と光、健全な精神と心を必要としています。ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリに対する主の言葉は、皆さんに対する主の言葉でもあります。

それゆえ、小さい群れよ、恐れてはならない。善を行いなさい。この世と地獄をあなたがたに対して連合させなさい。あなたがたがわたしの岩の上に建てられるならば、それらは打ち勝つことができないからである。

あらゆる思いの中でわたしを仰ぎ見なさい。疑ってはならない。恐れてはならない。

よきおとずれ

最初のノエルの夜に「神に栄え」を歌った天の聖歌隊の一員だったかどうかは分かりませんが、天使たちの証にわたしの謙遜な証を加えたいと思います。イエスはキリストであり、神の御子であられることを証します。そして、「ダビデの町に〔わたしたち〕のために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」ので、恐れる必要はありません。主は確かに地上に平和を、また人々に善意をもたらしてくださったからです。これらのよきおとずれは、わたしと皆さんを含む、すべての人々に向けられたものであることを証します。37 イエス・キリストの御名により、アーメン。

脚注

1.ジョセフ・スミス訳ルカによる福音書2:7

2.アルマ書7:10

3.ヘブル人への手紙4:12;ヒラマン書3:29と教義と聖約27:1も参照。

4.ルカによる福音書01:13

5.ニーファイ第一書11:15

6.ルカによる福音書01:30

7.マタイによる福音書1:20

8.ルカによる福音書2:9

9.ルカによる福音書02:10

10.アルマ書7:11-12を参照。

11.ハワード・W・ハンター、“An Anchor to the Souls of Men”BYUディボーショナル1993年10月。

12.教義と聖約121:41-42

13.教義と聖約121:45

14.教義と聖約84:20-21を参照。

15.ニーファイ第二書 32:3エズラ・タフト・ベンソン大管長は次のように述べています。「モルモン書には力があって、真剣に読み始めるやいなやその力は読む者の人生に流れ込み、誘惑に打ち勝つ力となります。またそれは欺きを避ける力となり、細くて狭い道と命にとどまる力となります。」(モルモン経—私たちの宗教のかなめ石、聖徒の道 、1986年11月)

16.Lectures on Faith(信仰に関する講話)、 9-16参照

17.教義と聖約121:45

18.イザヤ書41:13–31

19.モロナイ書8:16;ヨハネの第一の手紙4:18も参照

20.モーサヤ書28:3

21.バージニア・H・ピアス編、 Glimpses into the Life and Heart of Marjorie Pay Hinckley (ソルトレーク・シティー: Deseret Book、1999年)、77-78;シェリー・L・デュー、 Go Forward with Faith: The Biography of Gordon B. Hinckley (Salt Lake City: Deseret Book、1996年), 115–16。

22.コリント人への第二の手紙13:8。モロナイ7:46-47も参照

23.ヨハネの第一の手紙4:16。

24.チャールズ・ディケンズ、「クリスマス・キャロル」(1843年)

25.教義と聖約50:41

26.エペソ人への手紙4:14

27.イザヤ書40:4–31

28.イザヤ書40:8–31

29.ヤコブ書7:2

30.ヤコブ書7:3

31.ヤコブ書7:5

32.ニーファイ第二書9:40

33.ヤコブ書3:2

34.ニーファイ第二書 28:28

35.「主のみ言葉は」 讃美歌、2002年、46番

36.教義と聖約 6:34、 36.

37.ルカによる福音書2:11;10-14節も参照

ロイド・D・ニューエル

ロイド・D・ニューウェルは、このディボーショナルが2014年12月9日に行われたとき、ミュージック・アンド・スポークンワードの声優と執筆者であり、BYUの教会歴史・教義学教授でした。