もし私たちが注意していれば、ゲツセマネの庭師の思いやりに満ちた御手が、私たちには今は想像もつかない方法で、私たちの人生を形づくっておられるのが見えることでしょう。
サミュエルソン学長、ご紹介に感謝します。皆さん、今日私はベンジャミン王がその民に語りかけた時のように感じています。「あなたがたに語っている今でさえ,わたしの全身はひどく震えている」と。1 私は何ヶ月もの間この日の不安を予期していました。
図書館の同僚たちに同情してもらおうと、私はディボーショナルで講演をするよう招かれたことを彼らに伝えました。ところが、この知らせに対して皆が一様に「笑い」で応じました。それはわたしが期待していたような同情ではありませんでした。しかし、リチャーズビルディングの運動仲間は、私が皆さんにお伝えできるアドバイスをたくさんくれました。ほとんどは役に立たない助言でしたが、それでもやはり感謝しています。運動仲間の皆さん、借りができました。
1842年夏、イギリスの画家ウィリアム・ヘンリー・バートレットが聖地を訪れました。エルサレムの街を初めて見たときのことを、彼はこう語っています:
私たちの視界の左手にある急な崩れかけた道を下ってキドロンの谷に入り、小さなアーチを渡ってその乾いた谷底を越え、この地で伝統的に崇拝の対象とされてきた、驚くべき場所の数々へとたどり着きます。右手には石のように堅い地面が広がり、低い石垣に囲まれたその一角には8本の非常に古いオリーブの木が立っています。私たちのスケッチを見れば、ゲツセマネの園にあったであろう、これらのオリーブの木のねじれ、年月にさらされた姿が想像できるでしょう。これらの木々はレバノン山のソロモンの有名な杉を思い起こさせました。その堂々たる幹は頭上にかすかに茂る葉と比べて、まるで不釣り合いなほどに太く、由緒ある風格を漂わせていたのです。長い年月にわたり巡礼者たちはひざまずき、涙ながらにこれらの木々に口づけをしてきました。地面に落ちた果実や樹皮のかけらを手にしながら、贖い主が彼らのために「悲しみのあまり死ぬほどである」と語られたあの苦しみの場所を心に刻んだのです。2
現代においても、巡礼者たちはこの聖地から聖なる遺物を持ち去っています。つい数年前、私の隣人がイスラエルから戻った際、ゲツセマネの園の地面から拾い集めたオリーブの葉を携えてきました。
私はしばしば、その聖なる園に思いを巡らせてきました。二千年近く前、今日そこに立つ木々の祖先が、キリストの贖いの犠牲の始まりを見守っていたのだと考えるのです。あの木々にもし声があったなら、どれほど美しい物語を私たちに語ってくれることでしょう。
また、そこが庭であったのだから、あの木々を愛情を込めて手入れしていた庭師がいたに違いないと、私はよく思っていました。干ばつの時には貴重な水を与え、実がなるように丁寧に剪定し、熟したオリーブを収穫したのでしょう。
聖書がしばしば救い主を庭師として描いているのは、単なる象徴ではないと私は信じています。モルモン書の預言者ヤコブは、預言者ゼノスの言葉を引用して、次のように述べています:
「聴きなさい、おお、あなたがたイスラエルの家よ。主の預言者であるわたしの言葉を聞きなさい。
見よ,主はこう言われる。『おお,イスラエルの家よ,わたしはあなたを,人が自分の果樹園に植えて養いを与えた,一本の栽培されたオリーブの木にたとえよう。その木は生長し,やがて老い,朽ち始めた。
そして,果樹園の主人がやって来て,オリーブの木が朽ち始めたのを見て言った。「この木を刈り込み,木の周りを掘り,養いを与えよう。そうすれば,恐らくこの木は柔らかい若枝を出し,枯れないであろう。」 3
救い主が私たちの人生をどのように導かれるかについて、私が特に心を打たれた物語のひとつは、私が十代だった頃、デイヴィッド・O・マッケイ大管長の顧問を務め、教会員から深く愛されていたヒュー・B・ブラウン長老が語ったものです。私がこの話を初めて聞いたのは、1960年代にドイツで宣教師として奉仕していたときです。私の仲間の宣教師の一人はブラウン長老の孫であり、彼の祖父が「庭師とスグリの木」と題するこの経験について記録したテープを持っていました。ブラウン長老自身の言葉を使います:
夜明けに、若い庭師が木と低木を剪定していて、一本のスグリの木が伸びすぎているのを見つけました。そのためこのままではほとんど、あるいはまったく実を結ばないことを心配しました。
そこで彼はその木を刈り込み、丁寧に剪定して、不要な枝を切り落としました。実際、完了したとき、切り株と根以外にはほとんど何も残っていませんでした。
彼は残されたものについて愛情を込めて考えました。その木は、とても悲しくて、深く傷ついているように見えました。それぞれの切り株には、剪定ナイフによって早春の芽吹きが断ち切られた所に涙があるように見えました。かわいそうな木は、まるで彼に話しかけているかのようでした。彼にはこう訴えている声が聞こえるようでした—「ああ、なぜあなたは私に、これほどまでに残酷なことをするのですか?
あなたは、私が幼い頃に私を植え、世話をし、養い、成長を励ましてくれた友であると言っていたではありませんか。あなたの手入れに、私がどれほど素早く応えてきたか、分からないのですか? 私はフェンスの向こうに並ぶ木々の半分ほどの大きさにまで育っており、やがてそれらの一本のようになっていたかもしれませんでした。しかし今、あなたは私の枝を切り落としてしまいました。青々とした美しい葉はすべて失われ、私は仲間たちの中で面目を失っています。」
若い庭師はしおれた木に目を向け、その嘆願に同情と理解をもって耳を傾けました。優しさに満ちた声で、庭師はこう語りかけました。「泣いてはいけません。私がしたことは、あなたが私の庭でえり抜きのスグリの木となるために必要なことだったのです。泣いてはいけません。これらすべては、あなたの益となるのです。あなたが物事をよりはっきりと見渡せるようになり豊かな実を結ぶようになったとき、あなたはきっと私に感謝し、こう言うことでしょう。「確かに、彼は賢くそして愛に満ちた庭師だった。彼は私の存在の目的を知っていた。そして今、私はあのとき残酷だと思ったすべてのことを彼に心から感謝している。」
この時点でブラウン長老の話は40年前を振り返って、第一次世界大戦中にイギリスに駐留していたカナダ軍士官の頃の個人的な回顧録になります。ある日、突然昇進の機会が訪れ、彼は司令官の営舎に出頭するよう命じられました。ブラウン長老は、新たな職責を授かることを期待し、そのために何年にもわたって準備を重ねてきました。彼は昇進が与えられ、軍歴における成功が保証されると確信していました。
司令官の営舎へ足を踏み入れたブラウン長老は、手前の卓上に自分の人事ファイルが開いてあるのに気づきました。彼はまた、「この男はモルモン教徒である」という明確な手書きのメモに気づきました。ブラウン長老は期待していた昇進を受けないと知らされ、比較的重要でない職を与えられました。彼はこの知らせに打ちのめされました。仲間の兵士たちはこの役職を自分が失敗したことの印と見なすと確信しました。
彼はテントに戻り、ベッドの横にひざまずいて泣きました。軍の高官になるという目標を決して達成できないことを知って、彼は神に叫びました:
「どうしてそんなに残酷なのですか?友達だと仰ったのに。ここに連れてきて、育てて下さって、成長するように励まして下さったのに。私が長い間憧れてきた男たちと、まもなく同じ立場に立つことになる――そのことに、なぜ気づいてくださらないのですか。でも今は切り倒されてしまいました。私は仲間の中で恥をかいています。どうして神様はこのようなことを私になさるのですか。」
ブラウン長老は深い屈辱を感じ、心は苦汁で満ちていました。そのとき、彼の耳に過去の記憶が響いたかのように感じられたのでした。心に浮かんだのは、かつてどこかで耳にした、ある言葉です。そして彼はそれがあのスグリの木の言葉であったことに気付きます。その瞬間、彼の記憶が静かにささやいたのです。「私はここの庭師だ。」
長く忘れ去られていた庭での出来事の記憶が彼のもとに一気によみがえりました。そしてその記憶が神に向かって投げかけた苦い嘆願に答えたのです。
「泣いてはいけない……私があなたに施したことは、すべて必要なことだったのです。あなたは、自分が目指していたもののために造られたのではありません。もし私があなたの望むままにさせていたなら、あなたは、私があなたを植えた目的を果たすことができず、あなたに対する私の計画は損なわれていたでしょう。しかし、いつの日かあなたが豊かな経験を積んだとき、こう言うようになるでしょう――『確かに、神様は賢明な庭師だった。神様は私の地上における目的をご存じだった。かつては残酷だと思ったことに、今は心から感謝している。』」
心苦さが洗い流された後、深い後悔の念を胸に抱きながら、
ブラウン長老は謙虚な心で神に語りかけ、告白しました。
「今は神様のことが分かります。神様は庭師であり、私はそのスグリの木なのです。愛する神様、どうか私が剪定に耐えられるように助けてください。そして、御手によって成長できるよう、私を導いてください。私に与えられた人生の場を受け入れ、『わたしの思いではなく、みこころが成るように』といつも言えるように、
どうか私を助けてください。」4
宣教師として初めてこの話を聞いたとき、私はそれを自分の人生や願望とはほとんど関係のない、心あたたまる道徳的な話だと捉えました。しかし、40年以上を振り返ってみると、それは私が思っていた以上に、私の人生のパターンとなっていたように思います。
1970年に歴史学の学士号を取得して卒業したとき、私はさまざまなキャリアの選択肢を考えましたが、最終的に図書館学の修士課程に進むことを決めました。1972年から、BYUの特別コレクションでアシスタント学芸員として勤務を始めました。その仕事は興味深く、挑戦に満ちており、大きなやりがいと満足感を与えてくれるものでした。しかし、今となっては自分でも理由ははっきりと思い出せませんが、当時の私は落ち着かず、何か別のことをしてみたいという思いに駆られていました。
私は妻に、法科大学院へ進学したいと伝えました。「本気なの?」と彼女は答えました。「うん、間違いないよ。それについては何の疑いもない。」――そう答えたのは確かです。少なくとも、そんな感じのことを言ったと思います。法科大学院を目指す学生がするべきことは、私もすべて行いました。LSATの受験、数えきれないほどの出願、祈り、断食、そしてさらに多くの祈り―です。妻がバーモント州出身であるため、東海岸の学校に応募することに決めました。私は1975年にシラキュース大学法科大学院に合格したので、家を売却して荷物をまとめ、家族(2人の娘と誕生まじかな赤ん坊)とともにニューヨーク州シラキュースへ引っ越しました。
ゼノスは、この「移植の過程」(あるいは引越しの過程)について、次のように述べています。「見よ、果樹園の主人は言った。『わたしはこの木の柔らかい若枝を多く取り、わたしが良いと見なす場所に接ぎ木しよう』。」 こうして私たち家族は、王国の別の場所へと接ぎ木されることになるのです。
当時は気づきませんでしたが、後になって分かったのは、BYUを卒業した若者が世界各地の地域社会へ移り住むとき、現地のワードや支部の指導者たちは、彼らが強いリーダーシップ、揺るぎない福音の証、そしてどんな召しでも自信をもって引き受ける力を備えていることを期待しているということです。BYUでの教育は、大学院進学やキャリア成功のための優れた準備となります。それはまた、社会および教会における指導的立場への備えともなります。
シラキュースの教会員は、私たちをワクワクしながら期待をもって温かく迎えてくれました。私たちは、主が教会での奉仕の務めへと私たちを召し、この地域に接ぎ木してくださったのだと感じました。
でも法科大学院での経験は驚くほど違和感がありました。最初の1年を終えた時点で、法律の仕事に自分が向いていないことを悟りました。私が違和感について妻と話し合ったとき、彼女は同情を示すよりも、こう言いました。「あなたは私たちを国の反対側まで引っ越させたのよ。法科大学院は卒業してもらわないと困るわ!」妻は気丈な女性ですが、概して正しいことを言います。
そのため、私は忍耐して彼女の言葉に従い、無事に卒業しました。法科大学院の最終学年の頃、いつの間にか FBI 捜査官になろうという思いが芽生えました。法の執行や調査活動の刺激に心を惹かれたのかもしれません。そのような職業に自分が向いていないのではないかと疑ったことは、一度もありませんでした。私の祝福師の祝福には、私が自分の選択した職業で成功することを示す言葉が含まれています。私なりのやや複雑な推論の結果、私はこう考えるようになりました――名誉ある職業を選びさえすれば、自ずと成功は約束されているのだと。
連邦政府の職に応募した経験のある方なら知っているでしょうが、政府の歯車というのは、痛みを感じるほど遅々として進まないことがあります。心理検査、個人面接、外国語試験、身体検査などは比較的早く済ませました。そして何かが起こるのをずっと待っていました。卒業から15か月後、私はついにバージニア州クアンティコにあるFBIアカデミーで、新任捜査官クラスへの参加を正式に求められました。
言うまでもなく、私は自分の将来について、楽しみと緊張、そして楽観の入り混じった気持ちでいっぱいでした。私は、有望で成功が期待されるキャリアの門出に立っていると感じていました。私は多くのFBI、CIA、諜報部のエージェントと話をし、自分が本当に法執行の分野で優れた能力を発揮できると信じていました。
新人エージェント研修の最初の数週間はとても順調でした。教室では事件捜査や心理学、憲法のさまざまな側面についての指導が行われ、また体力目標への挑戦や銃器の訓練も実施されました。訓練開始から約4週間後、私たちは屋内射撃場に初めて連れて行かれました。23メートルほど離れた標的に狙いを定め、発射の準備をして射撃線に立ったとき、頭上の照明が突然消えました。射撃線で唯一の明かりは、標的の上に設置されていました。銃を構え、射撃場の標的に向けました。すると、銃口の照準器がまったく見えなかったのです!瞬きをしても変化はありませんでした。ただ照準器がぼやけていました。私は標的に向けて6発、やみくもに撃ちました。目の前で起こっていることが信じられませんでした。野外の射撃場では問題なく射撃できていたのに、室内の薄暗い照明の下では、視力に異変が起きていました。射撃場のインストラクターが私を脇に呼び寄せ、何が起きているのか尋ねました。私は分からないと答えましたが、インストラクターがこの問題を乗り越えられるよう助けたいと思ってくれたことが、とてもうれしかったです。
その直後の土曜日、私は「赤いハンドル」と呼ばれる射撃ピンを取り外した訓練用の銃を武器庫から受け取り、森に入り、標的に向けて空撃ちの練習をしました。曇り空だったので、室内で感じたのと同じような見えにくさを体験し、銃口の照準器はぼやけて見えなくなってしまいました。「信じられない」と思いました。「これは祈るべきかもしれないな」と私は考えました。モルモン書の預言者エノスには、彼の罪の赦しをもたらした「神の前に味わった苦闘」がありました。6 しかし、私が自分を解放しようとしたのは罪ではなく、私の武器を正確に発射する能力を著しく妨げた肉体的な状態でした。何時間も森の中を歩き回りながら、祈り、発砲の練習を続けました。しかし、私の状態は良くなりませんでした。
幸運なことに、数日後に妻が第4子を出産し、妻が里帰りしていたコネチカットへ週末に飛行機で戻る許可を得ることができました。ハートフォード市に滞在中、私は射撃場での問題について行きつけの眼科医を訪れることができました。彼は、私の両眼に強い乱視があるため、視力の改善は望めないと言いました。妻と選択肢について話し合った結果、結局のところ、そのまま頑張って射撃の資格を取るか FBI を辞めるかのどちらかしかない、ということになりました。ワシントン D.C.へ向かう飛行機の中で、私は自分の状況について考えながら、ブラウン長老が語った「庭師とスグリの木」の話を思い出していました。神様はなぜこんなことをなさるのか?私は、自分が選んだ職業で成功するという祝福が約束されていたのではないのか?なぜこんなに苦しい剪定を受けなければならないのだろう?
翌日、私はクラスカウンセラーに会い、自分の状況を打ち明けました。ある特定の照明条件では正確に発砲できない銃を携帯することが、どれほど不安で不快なことかを説明しました。私は犯罪者にとって危険な存在であるだけでなく、仲間のエージェントにとっても危険な存在なのです!私には、この重荷を背負うだけの力がありませんでした。そして、FBIエージェントの職を辞する決意を伝えました。私はこの旨を文書にまとめ、彼に渡しました。彼は、それをFBIアカデミー長に提出すると言っていました。私は自分の部屋に戻り、荷物をまとめ始めました。
一人で部屋に座っていると、自分が正しい道を選んだという確かな思いが胸に広がり、心に穏やかな平安が訪れました。祝福師の祝福の中で与えられた約束は、主が私に求めておられる職業を注意深く、祈りながら選べば、尊重されるのだと分かりました。仕事が華やかだとか刺激的だとかいう理由だけで選んではいけません。
将来について思いを巡らせていたところ、カウンセラーが戻ってきて、「事務局の非エージェントの職を検討してみませんか」と尋ねてきました。彼は、アカデミーにはいくつかの欠員があると説明しました。他に選択肢がなかったので、私はその提案を検討すると彼に伝えました。私はシンディに電話をかけ、FBIの非エージェント職についてどう思うかを尋ねました。彼女は、家族で再び一緒に暮らしたいと願っていたので、仕事の申し出があれば、引き受けるよう私に勧めました。
私は、部署に欠員があるという数人のエージェントと話をし、機関研究開発局でのポジションを提示されました。FBIの重要な関係者と出会い、新しい技術を学ぶという、貴重な機会となりました。
後々、私が出会った人物の一人は、ワシントン D.C.の FBI 本部に所属し、FBI長官のスピーチ原稿を担当するユニットの責任者でした。それから一年ほどが過ぎた頃、スピーチ原稿を起草する職に欠員が出た際、彼は私に応募してほしいと声をかけてくれました。応募したところ、その仕事をもらいました。
それは私にとって新しいキャリアの始まりでした。私が15年間、FBI、シカゴのアメリカ医師会、マーク (ニュージャージーの製薬会社) 、メドトロニック (ミネアポリスの医療機器会社) のためにスピーチライターをしていたことを伝えると、よく「面白い仕事だったでしょう」と言われます。確かに面白かったです。しかし、こういった場所での経験で最も心に残っているのは、私たちが出会った素晴らしい人々──教会員であれ非教会員であれ──との出会いでした。私たちは主の王国で奉仕し、神の高貴で偉大な人々と交流するまたとない機会にたくさん恵まれました。妻と私は、ゼノスの比喩の果樹園の主人がその貴重なオリーブの木を栽培したように、主が私たちを栽培してくださったように感じます。私たちが結んだ実、これから結ぶ実が、主にとって、そして私たちが仕えるすべての人にとって、甘く、喜ばしいものであることを心から願っています。
15年ほど前、ミネソタ州にある私の勤務先が再編された際、私はその新たな組織の一員とはならず、別の「剪定」を経験することとなりました。再び試練の時が訪れましたが、果樹園の主人は、隣人や教会の仲間たちの思いやりに満ちた手を通して、私たちの必要を満たしてくださいました。シンディと私は、新たに職業上の基盤を築こうとする中で、非常に貴重な新しい経験と才能を得ることができました。
この3年間の失業そして不完全雇用期間中に私が就いた仕事の一つは、ミネソタ州歴史協会が運営する「生きた歴史農場」における、1850年代の農夫でした。何とも楽しい仕事でした!私は、150年前の祖先と同じように農業に従事していました。私は、先祖が耐えてきたことに深く感謝し、自分にもそれをやり遂げる力があることを学んで、その仕事を後にしました。
それが私の唯一の仕事ではありませんでした。私は、本や文書を読むこと、人々と関わって働くことが好きだったので、再び図書館での職を探すことを決意しました。図書館の仕事から20年以上離れていた私が、コンピューターの経験と新たなスキルを習得するのを助けてくれたいくつかの仕事に就きました。
およそ12年前、私はハロルド・B・リー図書館の特別コレクション部門に再び雇われました。数十年前に私のキャリアを始めた場所です。インタビューの最中、私は不思議なほどに落ち着ついていました。主が導いておられ、すべてがうまくいくという確信が心にありました。これは、神が常に私たちを見守っておられること、そして私たちが立つべき場所へと私たちを導いてくださることの証でした。
これまでにさまざまな仕事を経験してきたからこそ、今の仕事が正直なところ、これまでで最も素晴らしい仕事だと言えます。今はっきりと分かるのはこれこそが私のするべき仕事であるということです。私がこの確信を持つに至った経験を、皆さんと分かち合いたいと思います。
2003年10月13日の朝、私はL・トム・ペリー特別コレクションの書庫におり、マディソン・ソウェル教授と数人の図書館員とともに、18世紀および19世紀のアメリカの年鑑コレクションを見ていました。私はソウェル教授と協力し、彼の「年鑑を研究資料として活用する」ことに関する講演のために、展示資料を準備していました。ソウェル教授は箱に手を伸ばし、1781年の年鑑を取り出して調べました。彼はそれを私に手渡し、「カレンダーのページと何か書き込みのある便箋が一緒になっているから、私たちはこれを講演で使うべきだ」と言いました。それから判断して、元の持ち主はこの年鑑を日記としても使っていたようです。
書かれている内容を見ていると、「ストックブリッジ市」への頻繁な言及があることに気づきました。「この人はマサチューセッツ州の西部に住んでいたに違いない」と私は思いました。便箋の冒頭のページを調べると、次のように記されていました:「私の祖父、Wm パートリッジの日記、1753年生まれ。— H・W・パートリッジ」私はほんとうに驚きました。私はその時代、ストックブリッジ市からそれほど遠くないピッツフィールド市に住んでいた、パートリッジという姓の先祖がいたことを知っていました。おそらくこの人物はその一人で、遠い親戚かもしれません。
そこを離れて自分のコンピュータの前に座り、FamilySearchのデータベースを開いて、「ウィリアム・パートリッジ」という名前と、1753年という生年を入力しました。検索結果には、私がよく知っている名前が表示されました。ウィリアムの父はオリバー・パートリッジ、母はアンナ・ウィリアムズ、妻はジェマイマ・ビッドウェル、そして息子の一人には、末日聖徒イエス・キリスト教会の最初のビショップとなったエドワードがいました。ウィリアム・パートリッジは、私の曽曽曽祖父、分かりにくければ、つまり四代前の曽祖父だったのです!
私の同僚達はこの発見に驚きました。彼らが帰ったあと、ふと思いました。「もし日記が一つあるのなら、もっと他にもあるかもしれない」と。コレクションにあるおよそ200冊の年鑑を調べてみました。案の定、ウィリアム特有の筆跡や表記が見られるものがさらに45点見つかりました。
これらの日記がどのようにBYUにたどり着いたのかは誰にもわかりません。数十年前、図書館がデンバー市の書店から初期のアメリカの年鑑コレクションを購入した際に収蔵されたものと私は思います。説明がどうであれ、ソウェル博士が箱から1冊を取り出して調べ、私に手渡すまで、それらは実質的に研究者にとって忘れられた存在でした。それは単なる偶然以上のものでした。
1916年4月の総大会で、ジョセフ・F・スミス大管長は次のように語りました。
神の御霊の啓示的な導きによって、霊界との間にある幕の向こうを私たちが見ることができるとすれば、すでにその向こうに渡った人々のほうが、私たちよりもこの世を明確に見通しています。私たちは天からの使者や天の存在の前で生きていると信じています。福音の原則について学びを深めていくにつれ、私たちは、親族や先祖、友人、仲間、そしてすでに霊界に入ったすべての同志と、自分が密接に結びついていることを、ますますはっきりと理解するようになります。彼らのことを忘れてはなりません。彼らを愛することを決してやめず、私たちの心の中、記憶の中にいつまでも彼らをとどめておくのです。そうすることで、私たちは彼らと決して解き放つことのできない、断ち切ることのできない絆によって結びつき、深く結ばれているのです。7
私はこのウィリアム・パートリッジという私の先祖と自分が本当に深い絆で結ばれていると感じるようになってきました。七年前、彼は幕の向こうから手を差し伸べ、地上での年月を記録した彼の記録を私の手に託してくれました。それは彼が常に子孫に伝えたいと願っていたものでした。
この経験は、私がこれまでに感じてきた多くの霊的な現れのうちの一つにすぎません。そうした現れの数々を通して、私は、天の御父とその御子イエス・キリストが私たちを気にかけておられ、もし私たちが聖霊の声に耳を傾けるならば、必ず導いてくださると信じるようになりました。もし私たちが注意していれば、ゲツセマネの庭師の思いやりに満ちた御手が、私たちには今は想像もつかない方法で、私たちの人生を形づくっておられるのが見えることでしょう。私たちがこの剪定を謙虚に受け入れ、神が望まれる人間へと成長できますように──主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
1.モーサヤ書2:30
2.W. H. バートレット、 walks about the City and environs of Jerusalem (ロンドン:ジョージ・バート・デ・ラヴォイ(1844年)、105ページ。
3.ヤコブ書5:2-4
4.レオン・R・ハートショーン、comp., Outstanding Stories by Past General Authorities (Provo:Spring Creek, 2007), 37-39;この話の拡張版はヒュー・B・ブラウンの,“The Currant Bush,”New Era, 1973年1月, 14-15ページ参照。
5.ヤコブ書5:8
6.エノス書1:2参照
7.[CR 、1916年4月、2–3]

ラッセル・C・テイラーさんは、ハロルド・B・リー図書館において目録業務の管理を務めるとともに、L・トム・ペリー特別コレクションの部門長としても活躍されています。1999年より本校図書館に勤務されています。これまでに、企業広報活動に15年間従事したほか、BYU特別コレクションのアシスタント学芸員として3年間、バージニア州フレデリックスバーグにあるメアリー・ワシントン大学およびミネソタ州クーンラピッズのアノカ・ラムゼイ・コミュニティ・カレッジにおけるリファレンス図書館員としての臨時職、さらにミネソタ州ミネアポリスにあるアドバンスト・インフォメーション・コンサルタンツでの契約図書館目録係を勤められました。プロとしての経歴に彩りを添えるため、ミネソタ州エルクリバーにあるオリバー・H・ケリーホームステッドにて、ミネソタ州歴史協会の牛飼いとしても勤務されていました。 テイラー兄弟は、BYUで歴史学の学士号および図書館科学の修士号を、またシラキュース大学にて法学博士号を取得されています。教育および職務の関係で、これまでにニューヨーク州、コネチカット州、バージニア州、イリノイ州、ペンシルベニア州、ニュージャージー州、ミネソタ州に赴いています。 歴史、特に書物の歴史に関心を寄せるテイラーさんは、熱心な読書家、家族歴史の研究家、ブックアートの学習者、また長年サイクリストでもあります。 1965年から1967年にかけて西ドイツ伝道部で奉仕した後、長老定員会の教師、日曜学校の教師、ワード書記補助、ワード伝道リーダー、スカウトマスター、ビショップの顧問、ビショップ、ステーク高等評議員として奉仕を続けてこられました。 ラッセルさんとシンディ夫人はBYU在学中 に出会い、現在、6人の子供さんと8人のお孫さんがいます。