歴代の大管長会が語ってきたように、そして今あらためて皆さんに申し上げます。私たちは(ただ願っているのではなく)ブリガム・ヤング大学が「世界の偉大な大学の中で指導的な存在となる」ことを期待しています。私はこの期待に、こう付け加えたいと思います。「世界中で唯一無二の大学となってください」と。
愛する兄弟姉妹の皆さん。ブリガム・ヤング大学で「永遠のための教育」について講演する機会を得たのは、ほぼ8年前のことでした。1その場では、このユニークな大学の運命について、当時も今も信じていることがいくつか分かち合われました。これらのアイデアのいくつかを再び引用し、ブリガムヤング大学が第二世紀に入るにあたって、私が持っているいくつかの新たな考えと印象を結びつけながらお伝えします。
ブリガム・ヤング大学の歴史を深く発展させてくださった方々を含め、ブリガム・ヤング大学百周年記念を実現してくださった皆様に感謝しています。百周年の記念行事は、過去とのつながりを新たにするだけでなく、将来の目標を見直すためにも適切です。私の務めは、BYUの第二の世紀について語ることです。私の話の焦点はブリガム・ヤング大学にありますが、ここにいる私たち皆にとって明らかなように、この大学が教会教育システムの中心であることは、さまざまな意味において疑いようのない事実です。デビッド・O・マッケイ大管長は、この大学を「教会教育の輪の中心軸」2と表現しました。カール・G・メーザーは、ブリガム・ヤング・アカデミーを「偉大な教育のガジュマルの木の幹」3と表現しました。そして最近では、BYUには「旗艦校」4という呼称も与えられています。表現はさまざまでも、この大学が教会教育全体において中心的な役割を果たしているということは事実です。したがって、私の話は、このキャンパスの境界を越えた事柄にも目を向けなければなりません。とはいえ、それはこの大学の影響の及ばない領域ではありません。この大学に通うことのできない、北米やその他の地域にいる末日聖徒の若者たちがますます増えているという現実と彼らのニーズを私たちは常に心に留めておかねばなりません。彼らのニーズは確かに存在し、実際のところ、彼らこそが末日聖徒の大学生の大多数を占めているのです。
アリゾナ地域のこの大学の献身的な卒業生の多くに対して行ったスピーチの中で、私はブリガム・ヤング大学が「教育界のエベレスト」になりつつあると表現しました。BYUが他の大学に勝る点は数多くあります。単に学生の多さやキャンパスの美しさだけではなく、BYUが教育界に放つことのできる独自の光によるのです。皆さんの光には、特別な輝きがなければなりません。BYUでは他の大学でも行われている多くの取り組みを行いますが、それらはここでは、他よりも優れていなければならないからです。また、他の大学では行われていない特別なことを、ここBYUでは行うことになるでしょう。
永遠のための教育
これらのBYUがユニークである特徴の中で第一に挙げられるのは、このキャンパスにおける教育が、単なる現世のためでなく、「永遠のための教育」を意図的かつ、一貫して追求しているという事実です。教員たちは二重の遺産を受け継ぎ、それを次世代に伝える使命を担っています。それらは学術研究によってもたらされた新しい知識とともに、歴史が人類の足元にもたらしてきた世俗的な知識と、そして天から私たちに授けられた重要かつ明らかにされた真理の両方です。
この大学は、知識の最前線をさらに押し広げようとする希望と努力を、他の大学とともに、共有しています。しかし私たちは、啓示という過程を通して、今後「多くの偉大で重要なこと」5が人類にもたらされることを知っています。そうした啓示は、単なる人間の想像をはるかに超え、知的にも霊的にも大きな影響を与えることでしょう。したがって、この大学においては、教職員、学生、そして運営者の間に、知識の本質とその未来に対する高揚感と期待が常に存在しており、またそれらは存在していなければなりません。そうした姿勢こそが、BYUの独自性を支える基盤となっているのです。
皆さんが担う二重の遺産と、世俗的なものと霊的なものの両方に関わる二重の使命は、皆さんに「バイリンガル」であることを求めています。すなわち、学者として、学問の言語において専門の同僚たちに対して権威と卓越性をもって語ると同時に、霊的な事柄の言語にも通じていなければならないのです。私たちは、BYUの第二の世紀における使命を果たすために、その意味において、よりいっそう「バイリンガル」にならなければなりません。
BYUがさらにユニークな存在となってきているのは、私たちの取り組みが変わったからではなく、他の大学が学生の日々の行動や道徳性を高めようとする努力を放棄しつつあるからです。
1967年にブリガム・ヤング大学の運営陣からこのような声明が出されました
ブリガム・ヤング大学は、神の預言者たちによって設立されており、キリスト教的道徳の最高基準のもとでのみ運営されうる。…大学の方針に反して暴動や公然たる反抗を引き起こしたり、それに参加したりする学生は、この大学に在籍し続けられるとは期待することはできない。…末日聖徒イエス・キリスト教会の基準は、家庭や教会で一生を通じてそれらの基準を教えられてきた生徒たちに理解されている。何よりもまず、私たちはBYUの学生が一貫したキリスト教的道徳の基準を守ることを期待している。…BYUへの入学は権利ではなく特権であり…この大学に通う学生はその基準に従って生活するか、さもなくばその特権を放棄しなければならない。6
私たちには、BYUで福音の基準と価値観に関して「一線を固く守る」以外に選択肢はありません。そして、他の大学にいる人々の中からも、できる限り多くの男女をこの姿勢へと引き寄せなければなりません。なぜなら、罪に絡め取られた人々は、真の意味で自由ではないからです。この大学では(批判者の目には不自由に見えるかもしれませんが)、真の個人の自由が存在するのです。世俗的なイデオロギーや概念からの自由こそが、人間を自分の思っている以上に解き放つのです。人を自由にするのは真理です。BYUは、その第二の世紀において、カリキュラムと教室を支配しようとする侵略的イデオロギーに抵抗する、最後の砦にならなければなりません。私たちがそのような思想に抵抗するのは、それらを恐れているからではなく、それらが偽りであるからです。BYUはその第二の世紀においても、教育における誤った流行に抵抗し続け、何世紀にもわたって正しいと証明され、善良な人々や優れた大学を導いてきた基本的な原則にとどまり続けなければなりません。この考えは新しいものではありませんが、第二の百年間においては、これらをさらに優れた形で実践していかなければなりません。
世の中の誤った道に従うよう圧力が高まるときが来ても、これから先の時代において、この大学や教会教育システムの一員である人々が、誤った道を取るよう理事会に助言しようとすることがないよう、私たちは願っています。私たちは、皆さんによる運営を通して、BYUをさらに良い大学にするためのあらゆる提案をいただきたいです。この大学の基本的な方向性を定めるという、神の預言者たちに与えられた特権を、自らのものと勘違いする人がいないように願っています。教会の大管長という重い責任を担う立場に就く者は、常に心と知性を開き、神からの示唆、啓示、そして霊感を受け続けているのです。人類全体、そして教会の会員の祝福のために、主が与えてくださる導きを受けたいと最も切望しているのは、この教会の先頭に立つ中央幹部なのです。ですから、私たちが主の啓示の中に含まれていることを思い起こすことは重要です。「あなたはあなたの長であり、教会の長であるものに命じてはならない。」7もし、これまでと同じように、教授陣や学生、管理者や職員から理事会に対して忠誠が寄せられるならば、私は未来を何も恐れてはいません!
教会教育評議会およびブリガム・ヤング大学の理事会には、真理と神の王国の秩序の両方に献身している人々が加わっています。私が1967年にここにいたときに感じたのは、この大学とその指導者たちは、救い主によって非常に困難な世界に残された十二使徒のようであるべきだということでした。
わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。8
この大学は、教会が俗世に属していないのと同様に、俗世に属するものではありません。そして、それを俗世の姿に作り変えてはならないのです。
友人たちはもちろん、批判者でさえも、BYUがその第二の世紀において持つべき基本的な独自性を損なうようなあらゆるものに私たちが抵抗しなければならない理由を理解してくれることを願っています。ダリン・H・オークス学長の就任に際し、教会教育部長は次のように述べています。
ブリガム・ヤング大学は、他者のために自らを向上させ、自らを「聖別」しようとしている。これは世の称賛を求めるためではなく、世界に対してより良く奉仕するためである。9
この使命は今後も貫かれていきます。教会の会員たちは、教会教育システム──この大学を含む──を支えるために、実質的に二重の負担を引き受けています。ゆえに、私たちは単に「世のまねごと」をするのではいけません。この大学を支える特別な財政的犠牲に見合う、特別なことを私たちは成し遂げなければなりません。
故スティーブン・L・リチャーズ管長がかつて言ったように、「ブリガム・ヤング大学は、学問だけに偏って霊的な特質を手放すことは決してないでしょう。」BYUはその設立理念に、そして生ける預言者によって加えられるその付記にも、忠実であり続けるのです。
学問的卓越性の追求
私は、この大学と教会教育システムから、演劇、文学、音楽、彫刻、絵画、科学、そしてあらゆる学問的才能において、輝く逸材たちが現れることを、希望をもって、また確信をもって期待しています。この大学は、そのような人々を洗練させ育てる場となり得るのです。そして彼らは、このキャンパスを去った後も、世界中の人々の心に触れる存在となるでしょう。
しかし、この取り組みにおいて私たちは忍耐強くあらねばなりません。というのも、エノクの町がその高みに到達するまでに何十年もかかったように──主が「時がたって」と表現されたとおり10──、BYUにおける卓越性の追求もまた、「時がたって」実現されるものだからです。
理想は星のようなものであり、手で触れることはできない。けれど、海を航海する船乗りがそうするように、それを道しるべとして進めば、自分の行き着くべき場所にたどり着く。11
約10年前よりもさらに強く、この大学と他の大学との間に、目的や進む方向の両面において広がる隔たりを感じます。過去8年間に多くの出来事があり、それらの出来事は、この発言が正当であることを裏付けています。私が願っていたとおりに、ここでは「世界で最も偉大な」12遺物、記録、著作物の収集がますます進められています。BYUは、多くの分野で卓越性へと前進しています。それは、教会の什分の一を捧げる方々の寛大な支援と、賢明な運営のもとで教職員と学生たちが尽力しているおかげです。
これらの変化は痛み、挑戦、調整なしに起こるものではありません。もう一度振り返ると、私はかつて、 BYUという船を航行可能な状態に保つために、「古くなって朽ちた板をすべて取り外し、その代わりに新しくてより強い木材を入れていくべきだと」と述べたことがあります。なぜなら、旗艦BYU は「これからもずっと航行し続けなければならない」13からです。学年暦の創造的な改革、カリキュラムをより賢明に運営しようとする姿勢、一般教養の改善への取り組み、従来の学部の枠を超えた学問領域間の交流、そしてこのキャンパスにおける新たな研究機関の設立――これらすべてが、船長と乗組員がBYUという船を航行可能な状態に保ち、航海を続けるために多くの努力をしている証です。このキャンパスに設置された研究拠点は、家族や言語の研究から、食料、農業、古代の研究まで多岐にわたります。まだまだ多くのことに取り組む必要がありますが、皆さんは「与えられた力と手段以上に急いだり、それ以上に働いたりすることのないように」14しなければならないのです。新たな知識の探求が進められていくべきである一方で、常に重視されなければならないのは、知識の伝達―すなわち、BYUにおける教育の質なのです。質の高い教育は決して捨ててはならない伝統です。それは、教員と学生の間に築かれる質の高い関係性も含んでいます。この伝統を、BYUの第二の世紀にも受け継いでいってください!
ブリガム・ヤングは間違いなく、教えることと学ぶことの両方を意味して、こう語りました:
人の子らが知っているあらゆることを学びなさい。そして、地上で最も洗練された社会にふさわしくなるよう備えなさい。そのうえでさらに向上し、ついには、神の御前に住まう聖なる天使たち――祝福された者たちの社会に入ることを許されるよう、準備を整えなさい。15
私たちは、教えがただ伝えられるだけでなく、確かに吸収され、学び取られていることを確認しなければなりません。私たちは、カール・G・メーザーがジョン・テイラー大管長に伝えた言葉―「私の学校からは、信仰なき者を出しません」16―という指針を思い起こします。
[今日、スノー・カレッジとして知られている学校の創設者に、テイラー大管長はこう言いました:]
何をするにしても、教師の選定には特に注意を払ってください。私たちは、信仰のない者たちに子どもたちの心を形作らせたくはありません。子どもたちは主から託された大切な存在であり、育て、教えるにあたっては、いくら注意してもしすぎることはありません。私は、自分の子どもたちには、神を畏れる心を持った人々のもとで、たとえそれがごく基本的な初等教育であっても学ばせ、彼らの影響を受けさせたいのです。…私たちは教育の問題にもっと注意を払い、有能な教師を確保するためにできる限りの努力をしなければなりません。そんな教師に払う余裕はないと言う人もいると思います。でもそうではなくて、払う余裕がないのではなく、雇わない余裕がないのです。私たちは、子どもたちに知性を身につけさせ、どの国の民とも肩を並べて歩めるようになってほしいのです。神は私たちにそれを行うことを求めておられます。だからこそ、私はこの問題に注意を促したいのです。私は、知恵があり実務的な人々がこう言うのを聞いたことがあります―劣った馬を飼うのも、良い馬を飼うのも費用はそう変わらない。質の悪い家畜を育てるよりも、優れた家畜を育てるほうが結果的に良い。それならば、無知のうちに育てられた子どもたちよりも、賢く聡明な子どもたちを育てる方が、同じように費用がかかるとしても、遥かに価値があるのではないでしょうか。17
ですから、私たちは預言者ジョセフ・スミスが示唆したように、これからも歩み続けることができます。彼は、「人は地を耕し、心を育て、神を栄光あらしめるために創造された」18と言いました。
霊的価値の育成
こうしたことを成し遂げていくには、第二の世紀においても、ここで教える人々の霊的な資質と能力に引き続き関心を持ち続けなければなりません。モーサヤ書にはこうあります:「神の道を歩み、神の戒めを守っている神の人でなければ、だれも、あなたがたの教師や教え導く者としてはならない。」19 ウィリアム・R・インジはこう述べました:「私は、何年も前にパレスチナで灯されたそのロウソクが、決して消えることはないと確信している。」20
ここで教えるすべての人々について、私たちは学問的・専門的な能力だけでなく、霊的なふさわしさにも心を配らなければなりません。ウィリアム・ライアン・フェルプスはこう言いました。
私は、男性にも女性にも大学教育が必要であると心から信じています。しかし、大学で学ばなくても聖書の知識を持っていることのほうが、聖書の知識なしに大学教育を受けることよりも価値があると信じています。21
第二の世紀においても、学生たちは学ぶためにこの地に集い続けなければなりません。私たちは、学生たちが聖文を探求し、図書館の書棚で知識を求めるのと同時に、永遠の伴侶を見つけようとすることの大切さを決して恥じるものではありません。マッケイ大管長はあるときこう述べました。
大学とは、辞書でも薬局でも百貨店でもない。それは単なる知識の貯蔵庫でも、学者たちの集まりでもない。それ以上の存在である。大学生活とは、本質的には「考えること」「備えること」「生きること」の実践である。22
私たちは、BYUが決して教育の工場のような存在になってしまうことを望んでいません。単に事実を教えることにとどまらず、学生たちが社会の中で、自ら考え、思いやりを持ち、感受性豊かな人としての役割を果たせるように備えることに関心を持ち続けなければなりません。すなわち、BYU創立百周年のモットーを言い換えるなら、神を愛し、真理を追い求め、人類に奉仕するという献身を胸に、この地に集う学生を育てる大学であり続けるべきなのです。
第二の世紀において、私たちが原点を見失わず、進むべき方向感覚を保ち続けなければならないのには、さらに別の理由もあります。私たちの前には、ジョン・テイラーによる驚くべき預言がいまだに残されているのです。彼はこう語りました:
あなたがたは、いずれその日を見ることになるでしょう。あらゆる種類の学びにおいて、シオンは外の世界よりもはるかに進んだ存在となるのです。それは、今日、私たちが宗教に関する事柄においてすでに他の世界よりも進んでいるのと同じです。私の言葉を心に刻み、書き留めておいてください。必ず成就するかどうか、見ていてください。23
私たちは、その歴史との約束の場を拒むことなどできないはずです。なぜなら、人類が今まさに切実に必要としている多くのことが、その預言の成就に貢献しようとする私たちの意志にかかっているからです。また、時には 何かが起こることを感じ取ることができます。国連総会の元議長であるチャールズ・H・マリクは、かつてこう語り、熱い願いを表明しました。
いつの日か、どこかに偉大な大学が現れることだろう。…私はそれがアメリカに現れることを願っている。…その大学には、キリストが完全なる栄光と力をもって戻ってこられるだろう。その大学は、科学的・知的・芸術的卓越性の推進において、現代の最良の世俗的大学をはるかにしのぐものとなる。しかし同時に、キリストがそこを祝福し、ご自身がそこにおられ、まったく自然に、安らかにおられることができるような大学でなければならない。24
education and upheaval of the christians responsibility
「教育と激動、そしてクリスチャンの責任」
まさにBYUこそが、その呼びかけに応える助けとなることができるのです!
根本的な課題や問題に取り組むことによって、私たちは教育において真に効果的な存在となることができます。そうでなければ、私たちもまた、努力はしていても道を見失い、暗く陽の差さない森の中でさまよい続けてきた多くの人々の仲間入りをすることになってしまうでしょう。哲学者であるソローが言ったように、「悪の枝を叩く者は千人いても、その根を打つ者は一人である。」25 BYUの第二の世紀において、私たちは統計的にも霊的にも、根本的な問題、根本的な課題、そしてその根本原因に取り組んでいくべきです。私たちがそれを目指すのは、傲慢さや誇りからではなく、奉仕の精神に基づいています。そして私たちは、震えるような慎重さと切迫感をもって取り組まなければなりません。なぜなら、エドマンド・バークが語った次の言葉はまさに真実だからです:「悪が勝利するために必要なたった一つのことは、善良な人々が何もしないことである。」26
事実に親しむことを含む学びは、私たちの隣人への思いやりから切り離されて行われてはなりません。その学びは、隣人に仕え、手を差し伸べようとする献身の中でこそ行われるべきです。
かつてアメリカン・ドリームとして広く語られていた数々の夢は、多くの面で色あせ、薄れてきました。そして今や、そうした夢のいくつかは、制度としての推進力という点において、末日聖徒イエス・キリスト教会とその会員に託され、その成就が期待されるようになっています。アクトン卿はある時こう言いました:
人は自分のなすべきことに専念すべきであることや、国家の行いについてはその国が天に対して責任を負うべきであること―かつては孤高の思想家たちの胸の内に秘められ、ラテン語の書物の中に埋もれていたこれらの単純で力強い理念は、やがて“人権”という名のもとに、世界を変革する使命を帯びて征服者のごとくこの世に現れた。それは、まさにアメリカから発せられた。
…
そして、次第に確立されていった原則がある―国家は、自らが制御できない権力にその運命を委ねてはならない、という原則だ。27
あまりにも多くの大学が、莫大な連邦資金に依存するようになってしまい、自らがもはや制御できない権力に服従していることを不思議に思うべきではない状況にあります。そして、国家がその行為について天に対して責任を負うという前提を持たない大学が、あまりにも多くなってしまいました。今ではあまりにも多くの人々が、人権を他人の財産や金銭へのアクセス権としか見なさなくなっています。かつて自由の根幹と考えられていた本来の人権としてではなくです。
これらの原則をBYUの第二の世紀において守り抜くには、かつてこの大学が単なる初等学校として始まり、やがて教会のステークによって支えられるアカデミーとなった創設当初以上の、犠牲と献身が求められることでしょう。もし私たちが自らの理想を捨ててしまったなら、私がここで述べてきた幾つかの原則のともしびを受け継ぐ者は、果たして残されているでしょうか?
ですから私は、オークス学長が述べたように「ブリガム・ヤング大学には価値観の混乱は存在しない」28という事実に、心から感謝しています。これまでにそのような混乱は一度もありませんでした。未来においても一度もないでしょう。しかし同時に、ジョセフ・フィールディング・スミス大管長がこのキャンパスで語られたように、「知識は理性によっても、そして啓示によっても与えられる」29ということも、私たちは知っています。私たちは、学問的探求の結果として、知識が自然に開かれていくことを当然のことと考えています。しかし、私たちが受けるにふさわしく、主が語ることを選ばれるときには、主が与えてくださるもう一つの次元の知識が、常に加えられるのです。
将来、何事も隠されることのないときに、唯一の神か、それとも多くの神々がおられるか、そのことが明らかにされるであろう。
それから、
全ての王位と主権、公国と力が示されて、イエス・キリストの福音のために勇敢に堪え忍んだすべての者に授けられるであろう。30
このキャンパス、そして教会教育システム全体で卓越性の追求が続けられていく中で、私たちはオリバー・カウドリに与えられた大きな教訓を忘れてはなりません。彼は特別な結果を望んでいました。それは、私たちがBYUの第二の世紀においても、驚くべき祝福と成果を望むのと同じです。オリバー・カウドリは、努力なしに簡単に翻訳できることを望みました。しかし彼は、「求めさえすれば、何も考えなくても私から与えられると思ってきた」31という過ちを指摘されました。私たちも、主に卓越性を与えてくださるよう願うだけでは不十分です。霊感(Inspiration)の前には汗(Perspiration)がなければならず、優れた成果の前には必ず努力が伴わなければなりません。BYUにおけるこうした結果を求めて祈ることは大切ですが、それだけでなく、深く考え、懸命に努力し、忍耐強く、専門的で、そして霊的である必要があります。そのとき、やがて時を経て、これまで数多く語られてきたように、BYUは主に油注がれた大学、主の大学として、完全な姿へと成長していくことでしょう。
私たちは時に、自分たちと同じような目的を持つ学者を含め、他者と協調することができます。世界中の学者たちや、私たちと関心を共有し、少なくとも行動の一部に共感してくれる思慮深い人々に手を差し伸べることで、私たちの影響力を拡大し、自分は孤独だと思っている人々に希望を与えることができるのです。
一方で、場合によっては、教育界の主流と決別する覚悟も必要です。 それは、軽率にではなく、深い思索と正当な理由に基づいてなされるべきです。人類を助けるために、福音に基づいた方法を見いだすにはそうした勇気が求められます。福音に根ざした方法論、概念、そして洞察は、この世の枠組みでは成し得ないことを、私たちに可能にしてくれるのです。
これからの時代、教会教育システムが真に独自の存在であり続けるためには、教育界の主流のいくつかの型から意識的に離れる必要があるかもしれません。世界が原則の問題において道を見失っているとき、私たちにはその道を示す責任があります。ブリガム・ヤングが願ったように、私たちは「世の事柄に関して深い学びを持つ民」32 となることができます。しかしそれは、彼が警告した「有害で無神論的な影響」33 に染まることなく、それらを警戒しながらでなければなりません。ですから、BYUの学者たちは単なる教師であるだけでなく、見張りでなければならないのです。
私たちは、人間の品性や行いに対する関心を手放すことなど決してできません。それを手放すことは、人類そのものを諦めることに等しいからです。多くの苦しみは、技術の失敗からではなく、人格の欠陥から生じています。芸術の領域においても、世の流れに屈してはなりません。マリオン・G・ロムニー管長は、ブリガム・ヤングの言葉を引用して、私たちにこう注意を促しました―「地獄には音楽はない」34と。私たちの芸術は、人を高め、霊の不滅の性質を考慮に入れ、私たちを地獄ではなく天国へと備えさせるものでなければなりません。
BYUの将来に向けた課題
教育の卓越性の一つの頂点であり、教会のニーズに深く関係している分野が言語の領域です。BYUは、学問的な能力の面でも、そして若い男女が宣教師として奉仕に出ていくという素晴らしい訓練の場所としても、世界で認められる言語の中心地となるべきです。もちろん、私がここで指しているのは語学トレーニングセンターのことです。読み書き能力や第二言語としての英語教育に対する深い関心と、誰もが認める確かな実力という点において、この大学が、世界のどの場所よりもそれらに真剣に取り組む中心地となることを妨げる理由はありません。
私はほんのいくつかの分野についてしか言及していません。第二の百年において、特別な関心が寄せられる他の多くの分野があり、そこには特有の課題と、達成と奉仕のための機会があります。
私たちは卓越性を追求しながら、スポーツであれ学問的なイベントであれ、学生たちの大規模な参加を同時に重視することができます。私たちは、選ばれた少数の魂を新たな高みへと導くと同時に、多くの人々を祝福し、貴重な経験を与えることができます。
主がBYUの第二の百年において成し遂げようとされているいくつかのことが、今の私たちにはまだ見えていないということは、私にとっても、皆さんにとっても明らかなはずです。目の前の丘を登り切るまでは、その先に何があるのかを垣間見ることはできないのです。私たちの前にある丘は、思っているよりも高いのです。つまり、私たちがなすべきことを果たした後にこそ、成果や新たな導きが正しい順序で与えられるということです。私たちは、A地点からZ地点へと一足飛びに移されることはありません。その間にあるあらゆる達成の段階や節目となる経験、成長を伴い、試練を通らなければならないのです。
この大学は、これからも前進し続けます。ここの学生たちは理想主義者であり、誠実であり、善なる目的のために働くことを愛しています。彼らは世俗的な教育を受けるだけでなく、イエスが知識の鍵として語られたもの、すなわち、何世紀も前に社会が失ってしまった「聖文のすべて」35 の意味を理解するようになるでしょう。私たちは、他の多くの人々にはない理解を持っています。すなわち、教育とは天の御父の御業に携わることの一部であり、聖文こそが人類にとって根幹となる教えを含んでいるということです。
私たちは、不義な目的を持ち、時は我らの味方だと誇る者たちがいることを知っています。視野の極めて限られた者には、確かにそのように見えるのかもしれません。しかし、主の御業に携わる者たちについては、まさにこう言うことができるのです。「永遠は、私たちの味方である。私たちの輝かしい未来に逆らう者たちの戦いは、むなしい戦いだ!」と。
付け加えて申し上げるならば、教会が世界的に拡大し、ますます多文化化していく中で、大学進学年齢にあたる末日聖徒のうち、ブリガム・ヤング大学、ハワイ校、リックス・カレッジ、あるいはLDSビジネス・カレッジに通う学生の割合は、ますます小さくなっていくでしょう。ここに来ることができるのは、特権を与えられた人々です。私たちは、世界中どこにいようとも、他の教会員たちのニーズを軽視するつもりはありません。しかし、ここに学びに来る者には、さらに大きな責任があります。すなわち、教会が彼らに投資したものが、彼らの奉仕と献身を通して、教会において、そして世の中のさまざまな場において、実りとして返されるようにするという責任です。
BYUに通うのは特別なことです。ブリガム・ヤング大学の成長と成熟、そして彼らが長年「テンプル・ヒル(神殿の丘)」と呼んできた丘への神殿建設に至るまで、そうしたビジョンについて夢を見た兄弟たちがいました。しかし、「夢や預言的な言葉は、それ自体では実現しないのです。それらが成就するのは、正しく、献身的な人々がその預言を実現させようと行動するときだけなのです。」36
今日、皆さんが第二の百年を始めるにあたってお伝えしている多くの助言は、教会の他の重要なプログラムについて、私たちが他の教会員にも与えている助言と同じです。すなわち、「歩幅を広げ、歩みを速め、そして(N・エルドン・タナー管長の言葉を借りれば)旅を続けなさい」ということです。皆さんは、正しい方向へと進んでいます!必要な学問的な調整は、献身的な教員が、英知ある大学運営陣、霊感を受けた管理委員会、そして感謝の心をもつ学生たちと関わり合う中で得られる、個人と集団の知恵によってなされていくことでしょう。
教会がここにある専門知識を活用できることを、私は心から感謝しています。この場に存在する優れた専門性の拠点は、今後ますます、さまざまな形で教会に活用されていくでしょう。
私たちは、この大学が自由であり続けることを願っています。政府の干渉から自由であることは、大学と教会のためだけでなく、私たちの政府自身のためでもあるのです。私たちの州および連邦政府、そして国民にとって最も有益なのは、資金への不安から迎合するのではなく、自由で独立した大学や教育機関によって支えられることです。
私たちは、皆さんのコンピューター支援翻訳プロジェクトや、エズラ・タフト・ベンソン農業・食料研究所からの今後の進展を楽しみにしています。また、教育の分野、美術、J・ルーベン・クラーク法科大学院、経営大学院、そして人間行動の領域におけるさらなる取り組みにも期待しています。
そして、たとえばインディアン・プログラムのように、インディアン系学生の高い修了率を誇るこの大学の各種プログラムの成果に、私たちは深く感謝しています。しかし、私たちはさらに良くならなければなりません。より良い世界のために、私たち自身がより良くならなければならないのです!
歴代の大管長会が語ってきたように、そして今あらためて皆さんに申し上げます。私たちは(ただ願っているのではなく)ブリガム・ヤング大学が「世界の偉大な大学の中で指導的な存在となる」ことを期待しています。37私はこの期待に、こう付け加えたいと思います。「世界中で唯一無二の大学となってください」と。
今、この百周年記念の式典を実現するために尽力してくださったすべての方々に感謝を申し上げます。また、卒業生の皆さん、在学生の皆さん、そして大学を支えてくださる友人の皆さんが、大学の100歳の誕生日に贈ってくださった百周年記念カリヨンタワーに、心より感謝いたします。この美しい鐘の音を通して、過去において主の教会の人々を奮い立たせてきた偉大な旋律が鳴り響き、第二の百年においても、私たちの心を高め、喜びとより大きな決意で満たしてくれることでしょう。イエス・キリストの御名により、アーメン。
カリヨンタワーと鐘の奉献の祈り
天のお父様、私たちは、このあなた様のキャンパスに建てられたこのカリヨンタワー、そしてその中の52個の鐘というBYUの人々、卒業生、教職員、スタッフ、そして友人たちからの贈り物に感謝しています。
また、これらの鐘を製作した方々の忠実さと巧みな技術、鐘を運び、塔に設置するために尽力したすべての人々の働きに感謝いたします。
天のお父様、これらの鐘が大きさや用途において多様であり、豊かな音色を生み出すものであること、そしてクラヴィエ(演奏鍵盤)、クラッパー(鐘を打つ部分)、磁気テープ、鍵盤といったすべての装置が整えられていることにも感謝を申し上げます。どうかこの塔と鐘、そしてそれに関わるすべてのものをお守りください。この塔で鐘を奏でるカリヨネア(演奏者)が、正確さと技術を備え、この塔の鐘から美しい音楽を生み出すことができますように。
お父様、この学び舎、そしてそれが何十万もの人々とその子孫の人生にもたらしてきた意味に感謝いたします。ここで学ばれた真理に感謝いたします。ここで築かれた人格に感謝いたします。ここで強められた家庭に感謝いたします。
この大学の学長とその協力者たち、教職員、学生、卒業生、スタッフ、そしてこの大学を支える友人たち、またその後に続く人々の上に、引き続き御霊がともにありますように。御霊が常にこの場にとどまり、ここから揺るぎない信仰の人々が育ち、あなたに栄光を帰し、この世の人々に祝福をもたらす者となりますように。
ちょうどこれらの鐘が、賛美歌や聖歌をあなたの栄光のために奏で、人々の心を高めるように、この大学の卒業生たちの道徳的な生き方が、この地球に住む人々にとって希望の音楽となりますように。
世界中のすべての人々が、良い音楽の響きに耳を傾けるとき、どうか彼らが、あなたの御子によってもたらされた喜びの知らせにも、心を開き、耳を傾ける者となりますように。
愛する天のお父様、どうかこれらの鐘が、あなたへの麗しく心に響く音楽を奏でますように。
永遠の丘がその響きを受け取り、山々が喜びの声をあげ、谷が声高らかに叫び、海と乾いた地が永遠の王の驚くべき御業を語り伝えますように。
川や小川が喜びとともに流れ、太陽と月と星々が共に歌い、天地のすべての造られしものが、私たちの贖い主の栄光を、とこしえに歌い続けますように。
天のお父様、私たちはこのカリヨンタワーとその鐘、機械装置および関連するすべてを御前に奉げます。どうかあなたの祝福をもってこれを守り、すべての災いからお守りくださいますように。
どうかこれを祝福し、この塔が美しい音楽を私たちにもたらすものとなり、その響きを通して、私たちがさらにあなたを愛し、仕える者となれますように。
イエスキリストの御名によって、アーメン。
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末日生徒イエス・キリスト教会の大管長であるスペンサー・W・キンボールは1975年10月10日にこの説教を行いました。