研究と信仰、そしてモルモン書 ジョン・W・ウェルチ 2026年8月20日 https://speeches.byu.edu/jpn/talks/john-w-welch/study-faith-and-the-book/ --- ホランド学長、ブリガムヤング大学というコミュニティーの仲間であり友人の皆さん、皆さんに向けてお話できる召しに心がへりくだる思いです。そしてこの時間に主がこれまでに、この素晴らしいキャンパスで何度もしてきたように、私たちの思いと霊を祝福してくれることを祈っています。 今日お話しするにあたり、私の証にとって重要な2つの拠り所があります。それらは、モルモン書の神聖な起源についての私の証と、この素晴らしく、驚くべき本についてより深く知りたいという私の揺るぎない願いです。過去20年間、私はモルモン書を絶えず研究してきました。そしてモルモン書から、私が受けるに値する以上の、また想像すらできなかった恩恵にあずかりました。主に関しては、いつもそうであると私は感じています。主の方法を完全に予測することも、自分が主の祝福に見合う存在だと感じることもできません。 今朝の私の望みは、現在のモルモン書研究についてのアイデアをいくつか示すことです。そして、皆さんがそのアイデアに興味を持ち、何かを得られるように願っています。 驚きに満ちた本 近年、私たちはモルモン書について多くのことを耳にしてきました。ベンソン大管長がモルモン書を最も重要なテーマにしていることは、紛れもなく明らかです。個人としても、全体としても、私たちにとってのモルモン書の重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。ジョセフ・スミスはこう言いました。「モルモン書とそれらの啓示を取り去ったならば、わたしたちの宗教はどこにあるのでしょうか。どこにもありません」( HC 2:52)。  この本の影響力は、私たちの愛称までに及びます(当時の末日聖徒イエス・キリスト教会の愛称がモルモン書から来ていたことに由来する一句です)。モルモン書は霊的な教師であり、主の声を聴き、その声を知り、そして聖霊による証を認識する方法を教えてくれます。モルモン書は知恵の源であり、救いの計画や私たち人類が現在置かれている状況について説明する唯一無二の資料です。モルモン書はこの末日においての回復の印として、イエス・キリストの証であり、聞く耳と見る目を持つすべての人に神がこの世で業を進めてこられたことを示しています。その本は聖約の鍵なのです。例えば、バプテスマの祈りや毎週耳にする聖餐の祈りの言葉は、第3ニーファイ11章やモロナイ4-5章の翻訳を通して、この神権時代に初めて明かされました。この本は私たちがどのように生きるべきかの指針でもあり、私たちがどのように裁かれるかを明確に示しています。 この本に含まれていることは、それはもう沢山あります。モルモン書は、無限の使い道と応用ができる素晴らしい本です。モルモン書は、貧富、人種、年齢、配偶者の有無を問わず、全ての人に神様の定めた福音を伝えるために取っておかれた重要な手段です。モルモン書を知り、愛し、それに従うこと以上に重要なことは多くありません。 モルモン書は完全で味わい深いので、モルモン書の多くの側面は、その研究を人生をかけて取り組まない人には閉ざされたままです。最近改宗した人であれ、熱心な学者であれ、聖徒であれ、また悔い改めていない罪人であれ、皆さんが何者であろうと、モルモン書は皆さんの心に訴えかけます。聖文研究は皆さんがいる所から始まり、皆さんのニーズと関心に応えてくれます。その完全さを鑑みると、私たちはほんの少ししか学んでいません。モルモン書から学ぶべき教訓は、まだ数多くあります。 主は、聖徒たちにモルモン書をもっと活かすように求めてきました。1832年初頭、主はオハイオ州カートランドの教会員がモルモン書を疎かにしていたことを次のように非難しています。「彼らが悔い改めて、新しい聖約、すなわち『モルモン書』と、わたしが彼らに与えた以前の戒めを思い起こし、そしてただ口にするだけでなく、私が記してきたものに従って行動するまで、彼らは依然としてこの罪の宣告の下にある」。(教義と聖約84:56-57)1984年にも、ベンソン大管長は同様の厳しい勧告を繰り返しています。その年の10月の総大会で、大管長は「メキシコシティー神殿の奉献式に参加したとき、神はわたしたちがモルモン書を疎かにしていることを喜ばれないというはっきりとした印象を受けました」と述べました。大管長は、わたしたちが非難された150年前と同じ状態に苦しんでいることをはっきりとさせました。これまでの行いのすべてをもってしても、私たちに示されたことを理解し、従うにはまだ長い道のりがあります。 最近の聖文研究からモルモン書への理解が今もなお深まっていることを示す例をいくつか紹介します。 目を見張る成果 まず、歴史を振り返っていきましょう。1829年のことです。ジョセフ・スミスがモルモン書を世に送り出しましたが、これがどれほどの業かを理解したのはほんの最近のことでした。モルモン書が存在するという事実自体が、私たちの想像を超える奇跡なのです。例えば、ジョセフがモルモン書の翻訳にかけた時間について考えてみましょう。ルーシー・マック・スミス、ジョセフ・ナイト、デビッド・ホイットマーまたオリバー・カウドリーたちが残した確かな中立的で歴史的な文献に加え、マーティン・ハリスの農場の抵当証書といった公的記録までもが、その驚くべき物語について詳細に明らかにしています。1828年の事件を経てから、1829年4月7日にモルモン書の翻訳が始まりました。これはオリバー・カウドリーが、ジョセフの筆記者として働くという主の啓示に導かれて、ペンシルベニア州ハーモニーに到着して2日後の事です。わずか5週間後の5月15日までに、2人は既に 第3ニーファイ11章のキリストがニーファイ人のもとに現れた記録にたどり着いていました。同年6月11日までに、2人はモルモンの最後の版の翻訳をしたことが分かっています。ジョセフは、著作権申請書の法的記述としてタイトルページの言葉を用いていました。6月30日までに、ニューヨーク州フェイエットのホイットマ-家の農家でその作業は終了しました。作業開始から完了まで、85日も要しませんでした。ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリ―が、6月の第1週にハーモニーから120マイル離れたフェイエットまで移動したことを加味しなければなりません。物資のためにコールズビルへ往復60マイルを旅した時間、教義と聖約に含まれている13の章を受け取り、記録する時間、アロン神権とメルキゼデク神権の回復した時間、サミュエル・スミスとハイラム・スミス、そしてその他数人の改宗とバプテスマに充てた時間、3人の証人と8人の証人と示現を経験した時間、そして食事と睡眠の時間もあったでしょう。これらを考慮すると、預言者が翻訳に取り組むことができた日数はおよそ60から65日ほどしかありませんでした。これは春学期の長さとほとんど変わりません。つまり、毎日平均で8~9ページという驚異的なペースで翻訳を進めたことになります。ヒュー・ニブレーがその一見分かりづらい宗教的で文化的な意味を解明するために多くの時間を費やしたというのに、第1ニーファイは1週間ほどで終わってしまいます。 宗教文学の中で最も巧みな文章の1つであるベニヤミン王の説教の翻訳には1日半を要しました。贖いや奉仕、謙遜、改心、聖約についての教えに加え、この説教はイエス・キリストの真の福音が刻み込まれた古代イスラエル人の敬虔さも体現しています。しかし、(ペンシルベニア州ハーモニーに図書館があったとしても、)ジョセフには図書館で調べる時間はありませんでした。イスラエルの王たちが、実際にどのようにしてベニヤミン王のように、神殿の周辺家族ごとにテントを張り集まった人たちに、やぐらから聖約更新の説教をしたかについてミシュナを研究する時間はありませんでした。 校正し磨きをかける時間も、入り組んだ日付や絡み合う細部を照らし合わせるる時間もありませんでした。しかし、それとは逆に5年後にオリバーが記したように、「来る日も来る日も……絶えることなく」、言葉は「ジョセフの口から」現れました。( JS—H 1:71n) この文章を見て、モルモン書の文章の素晴らしさを改めて実感しました。モルモン書の翻訳は驚くべき成果でした。その文章は一度きりの通しで、口述で書き取られました。そのため、少しの文体を変更するだけに留まり、今日まで至っています。弁護士として、口述筆記とは何かを理解しています。何年もの練習を経ても、いまだに最初の一回で完璧に口述筆記をすることはできません。 法律の事項 古代から2つ目の事例を見てみましょう。弁護士として、モルモン書に描写されている古代の法制度における洗練さに魅了され、深く感銘を受けました。モルモン書を書いた人は、古代イスラエルの法理論と法律用語に基づく、首尾一貫して機能する法体系に精通していたとしか思えません。とりわけ大さばきつかさであったアルマはそれに当てはまります。罵倒、偽証、侮辱、殺人、評判の悪い判決を言いふらしていた行為など、古代の法律に関して私たちが知っていることを踏まえると、アビナダイ、ニーホル、コリホルの裁判に関する記録は、注目に値する法的文章です。 イスラエルの民全般にとってそうであったように、法律はニーファイの民にとって非常に重要でした。法律を教え、学び、それに従って生きたイスラエルの民の熱心さは計り知れません。彼らは法律を愛していました。祭りの日には、法律をあがめ、法律書を持って街中を練り歩きました。比較として、米国内歳入法典のコピーをもって街中で祝い、練り歩くとどうなるか少し考えてみてください。アルマが、キリストの再臨までニーファイの民はモーセの律法を厳格に守っていたと述べたことには意義があります(アルマ30:3)。ニーファイはまた、ニーファイの民は「モーセの律法に従って、何事も主の裁決と掟と戒め」を守っていたと言いました。「何事も」は、民事、刑事そして宗教のことも指していました。(第2ニーファイ5:10) これらのことの信ぴょう性は、次のことからも分かります。モーセの律法や中近東の刑法では、「泥棒」と「強盗」には大きな違いがあったことが分かります。泥棒はコミュニティー内部の人間が、1人で夜中に鶏のようなものを盗んでいました。泥棒の犯罪は重大ではなく、刑罰は軽いものでした。盗んだものの2倍を返すことで済みました。一方で、強盗は完全に部外者であり、文字通り無法者で、コミュニティーの外の世界で、法律の庇護下にも、権利も認められていないところで存在していました。強盗たちは集団で丘の裏に身を潜め、秘密の誓いを立て、村の人々を襲い、暗殺や略奪を厭いませんでした。強盗は古代文明最大の惨劇の1つでした。エジプトでは、強盗が町を丸ごと支配することもありました。強盗たちは兵士に追われ、掴まるとその場で殺されました。情状酌量の余地はありませんでした。 この情報はモルモン書を理解するうえで重要だと分かるでしょう。なぜなら、モルモン書にもこの違いが表れているからです。ガデアントンの強盗団はいつも強盗と呼ばれていました。泥棒とは呼ばれたことは一度もありませんでした。彼らは丘に住み、軍隊と戦うために出ていきます。第3ニーファイ4章のゼラへムラのように、ニーファイ人は強盗の1人を捕まえると、その場で殺しました。裁判については一言も触れられていません。兵士は強盗を木に吊るし、その木を切り倒しました。(この残忍な処刑方法は、ユダヤ法のあまり知られていない1分野に非常に似ています。) レーマンがラバンの脅迫をひどく恐れた理由も納得がいきます。レーマンが真鍮の版を手に入れようとしたとき、ラバンが「見よ。おまえは盗賊だ。殺してやる」と言って追い返された場面を思い出すでしょう(第1ニーファイ3:13)。実際、ラバンは軍の将校でした。もしラバンがレーマンを強盗と判断したなら、ラバンは彼の脅しを現実にする力を持っていました(レーマンは強盗とは判断されませんでしたが、荒野に潜み暮らしていた指名手配犯でした)。もちろん、その文に「おまえは盗賊だ。殺してやる」書いてあれば、それは不自然に聞こえることでしょう。というのも、英米法には「泥棒」と「強盗」の区別があまりありませんでした。ジョセフは聖書から昔の違いについて知る由もなく、欽定訳聖書の翻訳者たちは、この2つの言葉を区別して使っていませんでした。例を出すと、良きサマリア人の話で、欽定訳聖書はある男がエルサレムから下る途中、「強盗ども」に倒れたと書いてあります(ルカによる福音書10:30)。もちろん、ギリシャ語では砂漠で「強盗ども」の中に倒れたのではなく、「泥棒ども」の中に倒れたと読み取れるでしょう。欽定訳聖書とは異なり、モルモン書はきちんと使い分けています。 文学的な功績 第3に、文学の世界から分析をしてみましょう。南ドイツで伝道して、モルモン書の正確さに驚きました。20年前、私はカトリックの神学校で、聖書のキアズムについて講義をしました。キアズムは古代近東文学、特にヘブライ語でよく見られる交差対句法ですが、そ他の文学でも見られます。同じ言葉を繰り返すのではなく(a-b-c-a-b-c)、交差対句の文章は順序を反転して繰り返しています(a-b-c—c-b-a)。その良い例がレビ記24章です。そこで「人を撃ち殺した」、「獣を撃ち殺した」、「傷を負わせる」この3つの部分がこの順序で登場し、次に逆の順序で繰り返され、「目には目を」、「歯には歯を」という正義の原則を形作っています(レビ記24章17ー21)。 キアズムは比較的特徴的で、最近になって見つかった表現様式であり、聖文の研究にしばしば役に立つものです。ある早い朝、モルモン書の複数の著者がこの修辞技法を用いていることを発見し心が躍りました。後に分かることではありましたが、この修辞技法を用いた文章で最も深い意味を持ち、よく構成された例の一部は、モルモン書の中に登場します。 キアズムの良い例がモーサヤ5:10-12にあります。6つの部分「御名、神の左、覚えておいて欲しい、消される、そして戒めに背く」がこの順序で登場し、次に逆の順序で再び登場します。別の例として アルマ41:13-15があります。レビ記24章と同様に、キアズムはここでも見事に用いられており、修復的司法を双方の視点から描いています。アルマ36章で用いられているキアズムに勝る文章はありません。アルマは、人生のターニングポイントである救い主イエス・キリストに贖罪を求めた時のことを、キアズムの中心においているのです。キアズム以上にキリストを中心に据えた、表現技法はなかったことでしょう。 これから学ばなければならない教訓 最後に、モルモン書から学ぶべき今現在にも通じる霊的な教訓について考えてみましょう。BYUの学生ワードのビショップとして、霊的な問題に対する答えをモルモン書の中から何度も見いだす経験をしましたが、その答えは、私たちが祈りの気持ちで聖文を研究しない限り得られませんでした。 例えば、私のワードのある会員は、心から努力していても完全に赦しを受けていないと感じていました。日々の罪の赦しを得るために、貧しい者に持ち物を分け与えなければならないと民に勧告し、命じたことを私たちは覚えているでしょう(モーサヤ4:26)。これが彼女の問題に対する答えだと分かりました。貧しい者にささげ物をすることは、イスラエル人の聖なる断食日の一部であり、その日に彼らは罪の赦しを求めていました。恐らく、私たちが学ぶべきものの全てがこの教訓にあります。それは、貧しい人や困っている人を思い起こす悔い改めのプロセスで忘れられていたステップです。 他にも、誘惑に苦しんでいるワードの会員に、彼らを誘惑しているものを克服するために主に懇願することで、より効果的に祈るよう助言をしました。この教訓もモルモン書から学びました。義にかなったニーファイ人は、毎日「誘惑に陥らないため」に、祈りをささげていました(アルマ31:10)。そのような誘惑に惑わされないように、皆さんが天の御父に最後に尋ねたのはいつでしたか? また、悪魔がどのように働きかけるのか本当に理解しているでしょうか?例えば、リーハイの示現に出てくる大きく広々とした建物は、悪人が使う主な武器はからかい、蔑むことだとイメージが湧くでしょう。私たちは、そのような振舞いを十分に警戒しているとは思えません。しかし、相手の戦略を知っていればより簡単に防衛策を練れます。巧妙で突然に襲う悪魔の手口をこれほど鮮明に明らかにした書物は、モルモン書以外にありません。 アルマ32章で、アルマが信仰の種を植えることに言及していることに気づいていましたか?種が芽生え始める時に、私たちは何を知ることになるとアルマは言っているのでしょうか?その種が「真理」であることを知っていますか?アルマ書は、種が「良い」と知り始めるようになると書いています(アルマ32:30ー33、36 )。 「真実」の事柄を知ることと、「良い」事柄を知ることには大切な違いがあります。例えば、サタンは多くの真理を知っていますが、良いことはごく僅かしか知りません。私たちは、両方を知らなければなりません。モルモン書が真実であることだけでなく、良いものだと知ることは何と素晴らしいことでしょうか。 このリストはまだまだ続きますが、もう1つくらいに留めておきましょう。聖約を交わし、守ることについて学ぶべき教訓はまだあります。バウンティフルで義にかなった人と過ごした数日、イエスは何を言い、何をして過ごされたのでしょうか?ほんの数か月前に、 第3ニーファイ11章で、イエスは神殿でその人たちと会い、そこで聖約を交わしていたことに気づきました。力強いホサナという叫びで始まり(第3ニーファイ11:17)、その後にバプテスマや神権の聖任についての指示が続きました(11:18-28)。イエスは、どのようにして聖約を交わすべきかをその人たちに伝えました。誰かに対し何か酷い感情を抱いている人がいたら、イエスはその人に行って、その人と和解してから、祭壇にいるキリストの下に来るように言いました(12:23-24)。祭壇での誓いは単に「はい」、「いいえ」で済んでいました(12:37)。これは重要で神聖なことでした。イエスは、もし神聖なことをふさわしくない人に明らかにするなら、その人たちは踏みつけられ、引き裂かれると言いました。(14:6) 第3ニーファイ12章 と 13章では、キリストは人々に戒めを与え、彼らはその戒めに合意しました。それらの戒めには、犠牲(打ち砕かれた心と悔いる霊)と従順の律法(12:19-20)、兄弟に対して正しく振舞う律法(蔑まず、怒らず、嘲笑をしない)(12:22)、純潔の律法(12:28)、祈りの律法(13:5ー13)、敵を愛する律法(12:44)、奉献の律法(13:19-24)があります。 最後に、キリストはこれらの律法を知り、行う者は最後の日に日の栄の王国に入ると約束されました。しかし、主をそのように知らない人々が入ることは許されないでしょう(14:21-23)。 これらすべては、イエスがこれらの人々に神殿で聖約を交わし、戒めを守り、イエスの御名を受け、そしてイエス御自身が示され、これらの人々によって受け入れられ、触れられた体の釘の跡がある御方を覚えるため備えさせる中で、教えられたものでした。 もしイエスがこの人たちと少しの時であっても神殿で時を過ごすことを選んだのなら、私たちも神殿でもう少し長く時間を過ごすべきではないでしょうか? 研究により、また信仰により さて、なぜ私はこれらのことを皆さんに話したのでしょうか?理由は様々です。まず、これらのことはワクワクするからです。モルモン書にはいつも驚かされます。例えば、モルモン書のキアズムは一度見つかると、それからは見てすぐわかります。マーク・トウェインがどうして見逃したのかと考えてしまいます。イエスが神殿で行った説教の、聖約を交わす場面と見ると、あまりにも明白で尊く感じられます。これまで注目してこなかったのは、なぜなんだろうと不思議に思います。主はモルモン書には「完全な福音」が載っていると言いました(D&C20:9)。この言葉は、私たちが思うより真実です。まだ学ばれていない多くの教訓や、まだ発見されていない多くのことが、モルモン書のページに隠されていることを知っています。 私がこれらのことを伝えるのは、これらが良いもので真実だと知っているからです。モルモン書の目的の1つは、イエスがキリストであると確信させる証になることです。ユダヤ人、レーマン人、そして異邦人に納得してもらうことが目的です。全ての証拠を注意深く判断しないといけないことを認識しておくと、こうした点が積み重なり、イエスがキリストであると証している本だと確信するようになります。 これは私がモルモン書は真実だと証明しようとしているのでしょうか?よくされる質問ですが、もう少し考えてほしいことがあります。この点に関して、私は教会歴史家のB.H.ロバーツが1909年に言った言葉が好きです。 「聖霊」が、モルモン書が真理だと証明する主要な情報源でなければなりません。その他の証拠はこの主要で間違いようのないものを補うものです。巧みに用意された証拠も、丁寧な議論も、「聖霊」の代わりになることは決してありません。 彼は、こう続けました。 真実を裏付ける二次的証拠は、自然現象の二次的原因のように、主要な重要性を持ち、神の目的を達成するための強力な材料になります。 1829年の歴史的文献、窃盗と強盗の法律上の違い、そしてその他の研究は、まさにこの主要な重要性を持つ証拠を私たちに提供していると信じています。それらの証拠は、モルモン書の驚くべき起源、文章に登場する法律と表現技法の複雑さ、そしてその教義の奥深さを理解する助けとなります。若い男性の頭からどことなく出てきた単純な本ではありません。その本は、千年に及ぶ文明と霊感の最上級のものを反映しています。 もちろん、モルモン書には議論の余地があります。そして幸いにも、主はモルモン書を信仰の領域に留めました。全ての疑問が、全員にとって満足の形で答えられるわけではありませんが、聖書や数学、そしてその他のことも例外ではありません。それでも神様は求め学ぼうとする心を持つ人には、信仰へと導く十分で前向きな理由を必ず与えます。 これらのことをお伝えしたのは、モルモン書の奥深さを知るには様々なアプローチがあると示すためです。全てのアプローチが必要となります。それは歴史的、教義的、理論的、実践的、宗教的、法的、文学的、知的または霊的なアプローチです。ベンソン大管長は、モルモン書に含まれている歴史を知るだけでなく、その教えを理解するべきだと言いました。「神はモルモン書を様々な方法で用いることを期待しています」。 この本に記されている目的は多くあります。その目的は、私たちの持つ能力を最大限に発揮することを求めるでしょう。 私が選んだアプローチは、このキャンパスにいる多くの人が行っている作業の一部でしかありません。ヒュー・ニブリーは、モルモン書の古代文化のパターンとその現代的な意味合いについて語っています。ジョン・ソレンソンは、その本が必要とする地理的状況について述べています。ロバート・マシューズとモンテ・ナイマンは、モルモン書と現代のモルモニズムに強い関心を抱いていました。ステフェン・リックス、ダン・ピターソン、ステフェン・ロビンソンはヘブライ語、アラビア語、そして初期のキリスト教を比較しています。ボブ・ミレット、ジョセフ・マッコンキーはモルモン書の教義的な意味とその重要性を研究しています。ノエル・レイノルドは、第1ニーファイを政治的な視点で読み、ニーファイがリーハイの政治的な後継者であることを認めました。ロジャー・ケラーは、今年コンピューターを用いた2回目の著者分析に貢献しました。ポール・ホスキンソンは、可能性のあるモルモン書の語源を研究していました。 それぞれのアプローチは、モルモン書を違った視点で見ており、私にはない知識を理解する助けになっています。使徒パウロが私たちは「鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」と言ったように、私たちの知識は完全ではなく、私たちの知るところは「一部分にしか」すぎません。私たちには「一部分しか」預言されません(コリント人への第一の手紙13:9、 12)。同様に、ベンソン大管長はモルモン書研究を止めてはならないと言っています。私たちがモルモン書をボロボロにする前に、私たちがクタクタになるでしょう。 末日聖徒は皆、生涯この書物の研究を続けていく必要があります。さもなければ、自らの魂を危険にさらし、霊的かつ知的一致をもたらすものをおざなりにしていることになります。 ベンソン大管長がここで述べていることを覚えておいてください。「生涯に渡って霊的かつ知的に一致すること」。これらのことを私が伝えたもう一つの理由が、ベンソン大管長が話しているような霊的または知的に一致する助けになると考えているからです。ハロルド・リー図書館の刻板には、教義と聖約の1節があります。刻板は貸出デスクから4階に上がる吹き抜けにあります。1960年代にここの学生だった私は、その板を何度も見ました。とても印象的でした。私たちは「研究によって、また信仰によって学問を求める」ことを勧告されています(教義と聖約 88:118)。霊と知性、研究と信仰、科学と宗教、証と学問を私たちは対立しているものとして見ますが、究極的にはそうではありません。もし私たちの目を神とその栄光に向けるなら、もし私たちが学ぶ中で進んで主の勧告に耳を傾けるなら、またもし私たちが何を考えるだけでなくどう考えるかについても同じように厳格であるなら、あらゆる真理が1つの大いなる全体にまとめられ、あらゆるものが皆さんの益となるでしょう。 聖文についてさらに学ぶために、学術的なツールを活用することができます。ここでもまた、ギリシャ語にあるように、私たちは「へびのように賢く、はとのように素直で」いなければなりません(マタイによる福音書第10章16節)。あらゆる道具が善にも悪にも使われる可能性があります。金槌を使えば、組み立てることも取り壊すこともできます。金槌はまた慣れていない人や不注意な人を傷つけることすらあります。しかし、私たちはそれだけの理由で金槌を完全に使わないわけではありません。全ての道具は、練習をしたうえで、注意深く本来の目的に合った使い方をしなければなりません。超えてはいけない線を意識しなければならないのです。熱意には能力を、情熱には知識を加えてバランスをとる必要があります。また、前提には霊的な促しを、学問的主張には謙虚さを加えなければなりません。 しかし、適切な道具を適切な方法で使うと、私たちは素晴らしいことを成し遂げることができます。モルモン書の多くがまだ扉の奥で眠っています。ふさわしい道具と方法で、その扉は開き、その完全さもあらわになるでしょう。信仰が浅くまた祈りを欠かすと、モルモン書の扉は閉じてしまいます。背景や詳細に注意を向けずにいると、扉は閉じたままです。もともと明かされていない部分がありますが、それはその部分がまとめになっているからです。兄弟の声に耳を傾けず、モルモン書の教えを日々の生活に当てはめないでいると、扉はさらに固く閉じてしまいます。神聖な起源とシンプルな美しさを軽く扱うとき、扉は閉じるでしょう。本に登場する人物と同じ視点を持てなくなったとき、それは扉を閉ざすでしょう。都合のいいものだけを見たり、聞いたりするときに、扉は閉じます。腰を下ろし、モルモン書の声に耳を澄ませてください。私たちが語り掛けるのではありません。この本は地から語りかけることになっています。これは、砂のように埃をかぶっている本棚を意味していません。だから、途方もない努力が必要になります。しかし、約束された祝福はそれ以上の価値があります。 遅かれ早かれ、モルモン書の扉は皆さんの人生の中で開かれるでしょう。イザヤは、この書物は終わりの時には封が開けられると述べています。「その日、耳の聞こえない者もその書物の御言葉を聞き、目の見えない者も暗闇から、また暗黒から出て見えるようになる」(イザヤ29:18)。柔和な者は主によって新たなる喜びを得、あざける者はうせるとイザヤはその後に言いました(イザヤ29:19-20)。心のあやまれる者も、悟りを得、つぶやく者も教えを受けるとき、先ほど言ったことは現実となります (イザヤ29:24)。正しい理解と教義への献身さの両方が求められるでしょう。 最期の裁きのときも、これらの言葉を目にするでしょう。命の書の封は解かれ、善いこともそうでないこともすべてが明らかにされるしょう。モルモン書の言葉は、その日に無視できないものとなるでしょう。それらの言葉によって私たちは裁きを受けるからです。神が口にした通り、これらの言葉は裁きの時に光り輝く証となるでしょう(モーサヤ3:23-24、 モロナイ10:27)。その日までにモルモン書が真の意味で封印が解かれ、私たちの目の前に開かれることを願っています。 主が私たちに真に驚くべき祝福をモルモン書に込めたことを証します。主とその僕である預言者たちは、私たちが祝福を手にできるように多くのことをしました。主が私たちすべてを祝福し、思いと心と力を尽くし主とこの素晴らしい本を愛し、知ることができるように、そしてそれによって永遠の命に至ることができるように祈っていますこれらのことをイエス・キリストの御名により証します。アーメン。 © Brigham Young University.版権所有