どのように主の御名を担うか アビゲイル・M・アレン 2024年10月24日 https://speeches.byu.edu/jpn/talks/abigail-allen/how-will-you-carry-his-name/ --- 必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。 このような高揚感と感動に満ちた総大会を終え、イエス・キリストの回復された福音と、私たちが主の神聖な御名を受けるときに、日常の交流を変える、その強力な可能性について証する機会を得られたことを光栄に思います。 舞台を整えるために、まず2つのエピソードを紹介したいと思います。 「信者の模範」(第一テモテ 4:12) 私は新卒で会計事務所に就職しました。当時の私は自分の価値を証明することに熱心で、割り当てられたそれぞれの業務を正確かつ効率的に遂行するよう努めました。それ以外にも、私はしばしば追加の業務にボランティアとして参加し、時間が経つにつれて、頼まれたことは何でも遂行する従業員としての評判を築きました。 そして、私を躊躇させる依頼が来ました。重要な報告期限が近づいており、フォーチュン500のクライアントが実地棚卸監査を必要としていました。業務の詳細については割愛しますが、重要なポイントは以下の通りです。ジレンマはお察しの通りです。 私はチームをサポートすることに全力を尽くしました。しかし、私はまた、どうしても必要な場合を除いて、安息日には働かないということを自分自身と自分の神に対して誓っていました。そこで私は上司のところへ行き、自分が「モルモン」であることを説明しました。 さて、ここで一旦止まり、この会話はラッセル・M・ネルソン大管長が教会の名称に関して神の霊感による修正を行う前に起こったことだと、念のためにお伝えしておきます。1 私は末日聖徒イエス・キリスト教会に属していると言うべきでしたが、そうしませんでした。したがって、私が実際に話した言葉でお話ししようと思います。 私は上司に、自分がモルモンであり、宗教的慣習の重要な側面は安息日を聖く保つことであると説明しました。私は日曜日には働きたくないが、サボろうとしているわけではないことを強調しました。この仕事から外れることができるなら、喜んで土曜日の仕事を2つ引き受けたいと思っていました。私にとって、その案件の依頼に対するこの提案は合理的であるように思えました。 上司は優しく微笑んで、私の要求をきっぱりと断りました。彼女は言いました。「わかっています。私は以前モルモンと仕事をしたことがあるし、それがあなた達の「好み」であるとも知っています。でも結局のところ、誰もがチームのために一歩を踏み出さないといけません。」 失望した私は、「天のお父様、彼女(上司)に理解していただけるよう、私に導きをください。」と静かに祈りました。 その祈りを終えたあとすぐに、夏のインターンシップ中に一緒に働いていた同僚のことを思い出しました。この同僚は毎週金曜日の朝5時に到着し、午後3時までに退勤していました。何故なら彼は正統なユダヤ教徒であり、金曜日の日没から始まる安息日には車の運転を禁じられていたからです。太陽は午後7時近くまで沈みませんでしたが、この同僚は、ロサンゼルスの交通事情に左右されることなく、彼にとって重要な宗教行事に深くコミットしていたのです。 御霊は私にささやきました。「あの同僚の信仰が、あなたの上司に理解にしてもらう上での鍵となります。」 私は深呼吸し、上司にもう一度言いました。「ああ、本当にごめんなさい。私の説明が悪かったです。実は私は正統なモルモンです。」 その時まるで私の上司に光が灯ったかのように、彼女の態度と反応全体が完全に変わりました。彼女は私の信念の深さをようやく理解したので、私のお願いに喜んで応じてくれました。 なんと素晴らしいことでしょう。”正統な”という短い言葉がこれほど強力な意味を伝えたのは、正確かつ誠実に信仰を実践してきた人々のおかげです。信仰深いユダヤ教徒の同僚の模範によって、私の自分自身の献身さを発揮する道が開かれたのです。イエス・キリスト教会の会員として、私たちは毎週、イエス・キリストの御名、つまり”正統な”という言葉よりもはるかに重い名前を受ける神聖な機会によって力を与えられています。 M・ラッセル・バラード長老の言葉を借りれば、「救い主がご自分の教会に与えられた名前は、私たちが誰であり、何を信じているかを正確に教えてくれます。」2 そこで今日のあなたへの質問は次のようなものです。「どのように主の御名を伝えますか?」 「わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」(ヤコブへの手紙 2:18) BYUに来る前、私はハーバード・ビジネス・スクールで数年間教鞭をとり、そこで多くの素晴らしい専門家と共に教え、彼らと交流する機会がありました。 私は救い主を愛し、生徒たちを愛していました。BYUで恵まれているほど率直に話す自由はありませんでしたが、機会を利用して、永遠の観点における重要な事柄について定期的に話し、キリストの特質を手本とするようにしました。 パウロが私たちに忠告したように、私は「信者の模範」となれるように最善を尽くしていました。3  正直、私はその点において、うまくできていると思っていました。しかし主は私がもっとうまくできることをご存知でした。 ある夜、会議の後で私は数人の同僚と出かけました。夜が更けるにつれ、私がお酒を飲んでいないことに誰かが気づき、いつものように「アビゲイル、君はモルモンなの?」と聞かれました。 私がそうだと肯定的に答えたとき、近くにいた同僚が飲み物を落として驚きました。「本当に?思ってもみなかったよ!」彼は怪しげな驚きを見せながらこう続けました。「しかし、君はモルモンの教えを完全には実践していないよね?」 私は、私のどこを見て「イエス・キリスト教会の会員ではない」と驚いたのだろうかと、少し屈辱を感じ、混乱していました。私は慎み深い服装をし、知恵の言葉を守り、きれいな言葉を使い、礼拝行事にとても忠実に出席していました。これらは私たちの信仰に疑問を抱く非会員にとって、よくあるリトマス試験紙のようなものです。それ以上に、私は自分の生き方、愛し方、奉仕の仕方において自分が主の弟子であることを表現しようと努めてきました。どこが間違っているのでしょうか? 私は当惑しましたが、今までの自分自身の信仰への献身を肯定した上で、同僚に気になることを何でも聞いてもらいました。私は大人になってからの人生のほとんどをユタ州以外で過ごしてきましたが、信仰について質問されたのはこれが初めてではありませんでした。私は「タバコを吸ったことがありますか?」というよくある個人的な質問の連続を完全に予想していました。「結婚前は貞淑でしたか?」そしていつも笑わせてくれるのが、「『特別な下着』を履いているのですか?」等です。 しかし、その夜はそれらのよくある質問が訊かれませんでした。その代わり、同僚は私を真剣な目で見て、「系図を調べていますか?」と尋ねました。 打ち負かされた私は、弱々しく正直に「あまりできていない。」と認めざるを得ませんでした。 すると同僚は、かつて永遠の家族と神殿との関連で系図の重要性を説明した、敬虔な会員を知っていたと教えてくれました。私はこれらの明らかになった真実について自分の信念を共有することでその場を救おうとしましたが、同僚はすぐに興味を失い、私は重要な機会を逃してしまったことに気付きました。私の行動(この場合は不作法ですが)の方が、私の言葉よりも強い影響力を持っていました。霊感に満ちた預言的な招きに対する私の怠慢とあまりにも対照的だったため、自分の信念の深さを正確に伝えることは不可能でした。 かつて、この同僚がイエス・キリスト教会の会員について抱いていた思いは、私の模範によって強められるどころか、むしろ弱められてしまいました。 私は、もう一度皆さんに尋ねます。「どのように主の御名を伝えますか?」 「山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ5:14) これら両方の話で、私の行動は、同僚が私について知ったこと、および彼らが教会員について推測した事柄に直接影響を与えました。同様に、私たちの教会および他の宗教の忠実な会員達とのこれまでの交流が、信者に何を期待すべきかについての理解を形作ってきました。 過去7年間、私はここBYUで働く機会に恵まれました。そして信者であることの意味を示す皆さんの挑戦と機会は、私のそれよりも、さらに大きなものになるとはっきりと印象づけられました。 私はプロとしてのキャリアのほとんどをユタ州外で過ごし、BYU以外の学校を卒業したため、いわゆる「匿名会員」になることもありました。対照的に、皆さんは教会の学校で教育を受けており、いつか卒業証書に刻印された権威あるBYUの学位を取得してキャリアをスタートすることになるため、皆さんはすぐに目に見える形で教会の会員として認識されます。レーダーを無視して飛行する可能性は低いでしょう。 私が分かち合った経験と同じように、人々が皆さんの会員記録から推測する事柄、BYUについて何を信じるようになるか、そしてもっと重要なことに、彼らがイエス・キリストの回復された福音について知ること、これら全ては皆さんの交流が、彼らにとっての直接的な結果となります。 文字通りの意味で、救い主はご自身の教えの中で皆さん一人ひとりについて、隠れることのできない山の上にある町の「世の光」にならなければならないと述べておられます。4 ジョセフ・スミスは天使モロナイからの訪れを、次のように記録しました。 「その方はわたしの名を呼び、自分は神の前から遣わされた使者であること、神がわたしのなすべき業を備えておられること、またわたしの名が良くも悪くもすべての国民、部族、国語の民の中で覚えられることをわたしに告げられた。」5 ジョセフ・スミスと同じように、皆さんも責任を受けています。皆さんは永遠の父なる神から、あらゆる名前の中で最も神聖な名前、つまり御子イエス・キリストの名前を自分自身に受けるに信頼されています。神は皆さんになすべき業を持っており、「常に(イエス・キリスト)を覚え、その戒めを守る」よう皆さんを招いておられます。6 これらの聖約を毎週新たにするとき、皆さんは、言葉、行動、そして最も個人的な思いにおいても、主の教会を高める方法で行動することを再び決意します。非常に現実的な意味で、皆さんは自分の名前、そして皆さんの行動を通して主の御名が善として解釈されるか、悪として解釈されるかを選択しなければなりません。なんと重要かつ、心躍る責任でしょうか。 どのように主の御名を伝えますか? 「神でいますあなたを知ること」(ヨハネ17:3) 私たちは、人々に自分たちのどのような点について、知ってもらいたいのでしょうか? 私たちの知ってもらいたい良い点はたくさんありますが、今日は私たちが世界に伝えるべき重要だと思う2つのメッセージに焦点を当てたいと思います。 イエス・キリストの福音は、愛の福音である パリサイ人が「先生、律法の中で、どのいましめが一番大切なのですか?」という問いに救い主は次のように教えられました。7 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である、自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」8 この答えは別々の戒めとして明確に表現されていますが、トーマス・S・モンソン大管長は、この2つの答えは分けることはできず、密接していると教えています。彼はこう教えました。「もし同胞たちを愛さないのであれば、私たちは真に神を愛することはできません.. 同様に、私たちの天の父である神を愛さなければ、同胞たちを完全に愛することはできません。」9 救い主は弟子たちとの最後の時間に次のように教えられました。「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」10 BYUコミュニティの一員として、そしてより重要なこととして、イエス・キリストの弟子として、私たちの日々の交流は、主への愛、そして主の子供たちへの愛をどのように伝えなければならないのでしょうか?皆さんの内省のために、いくつかの基本的な質問を投げかけます。 私は苦しんでいる人に目を配り、その重荷を負うために積極的に手を差し伸べているだろうか? 私は批判するのを遅くし、早く赦すことができているだろうか? 私は争いを避け、その代わりに自分の意見と異なる人々を愛し、理解しようと努めているだろうか? 私は周囲の全ての人々の中にある神聖なものを高め、祝福しようと努めているだろうか? 昨年4月の総大会から6か月が経ち、私の心は何度もネルソン大管長の「平和をつくり出す人が必要です」11 の話に引き戻されています。その中には緊急の呼びかけが含まれていました。この話をまだ聞いていない人は、今日聞いてください。この話を聞いたことがあるなら、もう一度聞いてください。皆さん一人ひとりに対するその話には、どうすればより良くできるかを知るのに役立つ預言者の知恵があることを証します。 ネルソン大管長は話の中で、人々との対話、個人的な関係、そしてオンライン上での交流において、私たちの悪意のある争い、対立、そして悪口等があまりにも特徴的になっていると悲しみをもって示されました。ネルソン大管長は、「『争いの心』を持つ者は、救い主のものではない」という救い主の宣言を確固として断言されました。12 そして、ネルソン大管長は預言的な明確さをもって、私の心に深く浸透した次のような招きを与えられました。このメッセージの中で、主の預言者は私たちに、「どうか注意深く耳を傾けてください」と呼びかけています。13 このメッセージは皆さん一人ひとりに向けられたものです。どうか注意深く聞いてください。 「愛する兄弟姉妹の皆さん、人との接し方は実に大切です!家庭や教会、職場、オンラインでだれかと話す態度やだれかについて話すときの態度は、ほんとうに大切なのです。今日、皆さんにお願いします。より高く、より神聖な方法で人と交流してください。よく耳を傾けてください。だれかについて「どのようなことでも、徳高いこと、好ましいこと、あるいは誉れあることや称賛に値することがあれば」、面と向かって言うか、相手のいない所で言うかにかかわらず、それを言うことがわたしたちの会話の標準となるべきです。」14 愛とは、単にネガティブなことを避けることでも、不親切な思いをしたときに口を閉ざすことを選ぶことでも、争いに巻き込まれずに立ち去ることでもありません。愛とは、救い主の全ての戒めと同様に、より高く、より神聖な律法なのです。 私たちは救い主から、「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられています。15 主が御覧もになられるようにお互いを見ること、悪いものだけを排除するのではなく、他者の善良さに焦点を当て、それらを高めること、 私たちが出会う一人ひとりが天父の神聖な子供であると心から信じ、彼に比類なく愛されていること、創造のおかげで、天父と同じようになる可能性を与えられているということを信じ、認識することによってのみ、この主の難しい戒めを果たすことができるのです。 神が私たちを愛してくださったように、私たちがお互いを見て初めて、神が私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うことができるのです。 主の御名を担うためには、私たちは主の愛を担わなければなりません。 イエス・キリストの福音は、啓示の福音である イエス・キリストの回復された福音の最も心躍り、かつ素晴らしい真理の一つは、神が御自分の子供たちとコミュニケーションを取るのを止めておられないということです。これまでと同様に、今も生ける預言者を通して、現代に不可欠な神の教えの原則を明らかにしておられます。本当に、これはイエス・キリストの回復された福音の決定的な基盤なのです。 啓示を通して、私たちは、文字通り私たちの霊の父であられる全能の神と、私たちの独特な関係を教えられています。16 私たちの神聖な受け継ぎを知り、この光の中で他者を理解することで、私たちは神の愛を信頼し、自分自身の可能性を認識し、神が見るように他の人を見ることができるようになります。 啓示を通して、私たちは神の姿に倣って創造された体は神聖な神殿のようのであり、生命を創造する神の力を授けられ、復活によって自分の霊と再び結合する運命にあることを教えられます。この知識は、慎みと純潔の律法を実践し、神殿の衣を身につけ、知恵の言葉を守ること等、自分の肉体に対する敬意を外部に示すための基礎となります。 啓示を通して私たちは、救い主が御父の独り子であり、私たちの罪だけでなく、私たちが遭遇するすべての心痛、病気、悩みにも苦しまれたことについて、より深い知識を得ることができます。私たちは、いかなる罪も神の無限の贖罪が及ばないものはなく、いかなる絶望も神の無限の愛情深い癒しを超えるものではないことを学びます。 個人的な啓示を通して、これらの啓示された教義の真実性を知り、個人に対する神の愛の深さを感じることができます。 これらの真理を本当に知ることは、私たちがいちばん大切な第一の戒めを守り、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる(私たちの)の神を愛せよ」という切実な望みを私たちの中に生み出す助けとなります。 神を愛することは、「(神の)羊を養う」17、「(神の)戒めを守る」18 という神の招きに応じるよう、私たちを動機付けます。 これは真理の美しい輪です。一番大切な神を愛することであり、神を愛するためには、預言者の声によって明らかにされた神の戒めを守ることになります。19 そうすることで、「一つの永遠の環」20 のようにあなたは神を知り、神をより深く愛するようになります。これはシンプルですが、奥深い枠組みです。 では、この枠組みはイエス・キリストの弟子の日々の行動にどのように現れるでしょうか? 第一に、イエス・キリストの弟子たちは、主への深い不変の愛に突き動かされ、主の戒めを正確かつ誠実に守ろうと努めます。言うなれば、私たちは「正統な信者」として知られなければなりません。私は「悪魔は細部に宿る」という言葉をよく耳にします。しかし、より正確には、「献身は細部に宿る」、「悪魔は逸脱に宿る」と結論づけられるのではないでしょうか。 神が私たちに守ってほしくない戒めを与えられることはありません。絶対に!神が私たちに実践してほしくない勧告を、預言者を通して与えられることもありません。むしろ、神は「聞く耳のある者は、聞きなさい」21 と命じ、全ての人に「わたしに従ってきなさい」22 と教えておられるのです。 主の霊感された戒めから背くことを選ぶこと、つまり、自分は例外だと正当化したり、自分の戒めからの逸脱は取るに足らないものだと考えたりするたび、私たちは救い主に向かうのではなく、救い主から遠ざかっているのです。「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。」23 第二に、イエス・キリストの弟子は、主への不変の深い愛に動機づけられ、主のタイムラインを信頼しています。 「ここにも少し、そこにも少し」25 と教えられるように、多くのことが明らかになったものの、私たちは「多くの偉大で重要なこと」24 がまだ明らかにされていないことを知っています。 この啓示の原則は、私たちの時代にとって極めて重要です。高等教育を受けている学生の皆さんは、深い質問をし、熱心に答えを探すよう訓練されています。誤解しないでください。知的能力を伸ばすことは神のような特質であり、主は皆さんが非常に重要な問題について、深く考えることを望んでおられます。 しかし、私たちが疑問を追求するとき、神は私たちに謙遜さを持ち、進んで「安らかにしていて、(神が)神であることを知り」26、ニーファイのように、「すべてのことの意味を知っているわけではない」かもしれないが、私たちが最も知る価値のあることは、神が「その子供たちを愛しておられる」27、という事実に頼ることを期待しておられるのです。 BYUに来て以来、私はイエス・キリストの多くの模範的な弟子たちと私のオフィスで同席する機会に恵まれました。彼らは私を十分に信頼し、永遠に意義のある原則についての質問や懸念、あるいは疑念を尋ねてきました。このような訪問でよくあるのは、以下のような、ある種の謝罪を持って私のドアを開けて入ってくる人たちです。「もっと信仰を持つべきだとわかっているのですが、とても難しいのです」、「努力はしているのですが、まだ難しいのです」、「偽善者のように感じます。」。 私の話を注意深く聞いてください。信仰とは疑念がないことではありません。懸念や疑問がないことでもありません。そうでなければ、私たちは完全な知識を得ることができません。信仰とは選択であり、基本的には分からないことや、まだ理解できないことがあっても信じたいという望みなのです。 私のオフィスを訪れてくれた人たちは、まさに信者の模範です。彼らは諦めずに試練に立ち向かい、より大きな信仰を得るために努力しています。 諦めないでください。どうか、諦めないでください。皆さんが切実に求めている答えや解決策が得られないとき、絶望するのではなく、希望を持つことを選んでください。皆さんは見られています。 神に対する深い不変の愛と、私たちに対する神の知識と愛が「すべての理解」28 を凌駕していると信じる謙遜さが組み合わさってこそ、信仰は現れるものです。BYUの優秀な学生や教授にとってもそうです。 今日、皆さんがここにいて、このディボーショナルを聞いていることは、皆さんが啓示を求めていると示しているのです。主の定められた時にすべての誤りを正し、すべてのことを明らかにする啓示の力を信頼してください。 イエス・キリストの弟子として、私たちは啓示と愛を中心とする福音の確信を、困難な問題から逃げるのではなく、信仰のレンズを持ってその問題に取り組むことによって伝えなければならないのです。 私たちの行動は、この信念をどのように周囲に反映させることができるでしょうか?もう一度、個人的な内省のためにいくつかの質問をさせてください。 私は預言者たちの勧告を積極的に唱道し、支持し、正確に生き、自分の言葉と行いを通して証をしているだろうか? 自分の世界観、政治観、理解力に共鳴しない教義、政策、歴史的記述を理解するために、謙虚さと忍耐力を発揮しているだろうか? 日々の生活や交流の中で、個人的な啓示を熱心に求めているだろうか? 日々の悔い改めの一環として、救い主を呼び求めているだろうか? イエス・キリストの弟子は完全ではありませんし、他の人たちがそうであることを期待しません。むしろ、主によってのみ、完全となることができると信じています。 「道であり、真理であり、命である」 (ヨハネ14:6) あと数年以内に、皆さんはこのエリート大学を卒業するでしょう。 皆さんの学位は、BYUの教育の厳しさと学問的卓越性を人々に理解してもらうことにより、皆さんの門戸を開くでしょう。 しかし、それ以上に重要なことは、BYUに入学するという皆さんの選択は、救い主について学び、仕え、知り続けるという皆さんの個人的な決意を世界に宣言することです。その選択は、皆さんを同年代の中で際立った存在にし、周りの人々に主の福音と主の愛を伝える機会を与えるでしょう。 皆さんは主の代表者であり、主の光は行動を通して映し出されなければなりません。 どのように主の御名を伝えますか? 私は生涯を通じて得た学びから、「信者の模範」となることは偶然の産物ではないということを証します。どうすれば救い主によりよく倣い、救い主の御業をより大胆に守ることができるかを見極めるためには、深く、時には痛みを伴う内省が必要です。それには愛が必要であり、「心と、勢力と、思いと、力」29  を尽くして神と同胞に仕えるという決意が必要なのです。 イエス・キリストの弟子として、私たちは主の名前だけでなく、私たちを知る人々が「唯一のまことの神、そして(神が)遣わされたイエス・キリスト」30 を知ることができるように、主が示された物の見方と愛を持たなければなりません。 主は確かに「道であり、真理であり、命」31 であり、これは主の回復された福音です。これらをイエス・キリストの聖なる御名によって証します。アーメン。 © Brigham Young University. 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