ラッセル・M・ネルソン
末日聖徒イエス・キリスト教会 大管長
ラッセル・M・ネルソン大管長は、医学で人間の心臓に触れてはいけないと指示された転機となった日についてよく語っています。すぐに彼は、全てのものが法則の指示の下で動作するという原則を考え、そのためには心臓の法則を十分に学べば、生命を救う手術を行うためにその機能を模倣できるはずだと考えました。案の定、ネルソン大管長は生涯で多くの人間の心臓に触れてきました。彼が予期していなかったのは、証、知恵のある言葉、そして感動的な模範を通して、どれだけ多くの心に比喩的に触れることになるかでした。
前半生
ラッセル・マリオン・ネルソンは、1924年9月9日にユタ州の出身として生まれました。知性に備わった好奇心旺盛な子供であったため、4年生から5年生まで飛び級をしました。その才能は高校でも発揮され、ディベート、合唱団、フットボール、年鑑に参加し、卒業生総代として卒業しました。この頃、ラッセルは初めて医者になることを思いつきました。彼は後に、「人間にとって最も素晴らしい職業は母親になることだ」と語っています。「それが私にとって無理なので、第二の職業は医学だろうと考えた。そこでは毎日人々を助けることができる。」
学部教育と家族
1945年にユタ大学を学士号で卒業し、1947年には22歳で医学博士号を首席で取得しました。大学在学初期、彼は学校の演劇に参加し、そこで主役のソプラノ歌手に心を奪われました。彼女の名前はダンツェル・ホワイトで、2人は会ってから3年後の1945年にソルトレイク神殿で結婚しました。二人の旅は長いもので、ラッセルのキャリアと末日聖徒イエス・キリスト教会での奉仕活動だけでなく、10人の子供たちの世話もありました。
ネルソン会長は、ダンツェルが自分自身と家族にとってなくてはならない存在であったことをしばしば口にしています。厳しいスケジュールや、長い間、ほとんどお金もなかったにもかかわらず、彼女は決して不平を言いませんでした。その代わり、彼は彼女を支えるためにできる限り努力しました。例えば、木曜日は彼女が好きなことをする日と決められ、特に末日聖徒イエス・キリスト教会病院でのボランティア活動やモルモン・タバナクル合唱団で歌うことが多かったです。彼らの子供たちは、両親がそれぞれの子供のために時間をかけて最優先にして、愛着を示したことを、心から覚えています。「彼が家にいる時は、本当に家にいる」とダンシェルは夫について述べました。お祈りや聖典をおいて、音楽、スキー、乗馬、テニスなどの野外活動もネルソン一家にとって重要でした。
中等教育修了後とキャリア
医学博士を取得後、ラッセル・ネルソンはミネソタ大学でインターンシップをし、1954年にその大学に戻って行って博士号を取得しました。インターンの後、彼は医学歴史に名を残すことになるチームに3年間在籍しました。このチームは、手術中に人間の心臓と肺の機能を果たすことができる最初の機械を開発し、開心術を初めて現実のものとしました。この開発によって数え切れないほどの患者の命が救われ、その多くはネルソン医師自身の手によって救われました。しかし、彼は神のおかげだと考えていて、次のように言いました。病人や崩した体調を癒すために人は自分ではほとんど何もできません。教育を受ければ、少しはできるようになります。さらに高度な医学の学位と訓練を積めば、もっとできるようになります。しかし、本当の癒しの力は、神からの祝福です。
ネルソン医師は朝鮮戦争中、アメリカ陸軍で2年間、軍医として勤務し、ワシントンD.C.、韓国、日本を訪れました。そのあと、彼はユタ州に帰って、ユタ大学で研究教授および胸部外科レジデンシーのディレクターとして働き、またソルトレイクシティのLDS病院で胸部外科部門の部長も務めていました。多くの論文や教科書の章を執筆し、国内外で講義を行い、またいくつかの国内医学会の会長、理事、または議長を務めてきました。その分野での業績、専門知識、そして献身は、名誉博士号を含む高い賞賛を得ています。具体的には、Brigham Young University、Utah State University、Snow Collegeからの名誉博士号、中国の3つの大学での教授職、さらにはAmerican Heart Association、University of Utah Alumni Association、American Academy of Achievementからの様々な権威ある栄誉を受けています。
教会の奉仕
1964年、スペンサー・W・キンボール長老は、ラッセル・M・ネルソンをボンネビル・ステークの会長に任命しました。彼は、「ここで面接した皆があなたは召されたらいいかもしれないと言っているが、あなたには時間がありません。時間はありますか?」と聞きました。ネルソンは答えました。「それについてはわかりませんが、私には信仰があります!」その信仰は彼が患者とステークのメンバーの両方に奉仕を続ける際に役立ちました。1971年に中央日曜学校会長会に召され、1984年に十二使徒定員会に召されました。使徒の奉仕において、ネルソン長老は世界中の教会員にそれぞれの母国語で話すように動力して、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、中国語、フランス語など、様々な言語で話を証で締めくくることがあります。彼もオルガニストとして十二使徒定員会の毎週の会議に参加しました。2015年の7月に、十二使徒定員会の会長として召されました。
2005年、ダンシェル・ネルソンが亡くなりました。しかし次の年、ラッセル・M・ネルソンの人生に新たなパートナーであり、支えとなる存在が加わりました。彼がブリガム・ヤング大学で結婚および家族療法の教授をされているウェンディ・L・ワトソンと結婚されたのです。彼らは今、よく一緒に旅行し、世界中の教会員を励まし、指導しています。
2018年1月、トマス・S・モンソン大管長の御逝去に伴い、ラッセル・M・ネルソン大管長がm末日聖徒イエス・キリスト教会の第17大管長として任命されました。使徒としての30年以上にわたる奉仕をもって、肉体的、霊的に教会を導くように備えられました。95歳の誕生日を祝う際に、ネルソン大管長が任期の最初の一年半で世界中の集会で100万人以上の会員に話しかけ、14万キロメートルを旅し、100人以上の世界や宗教の指導者と会い、28か国を訪れたことが発表されました。
これらの説教は、ネルソン大管長が奉仕と指導の年月を通じて持ってきた証、霊的な洞察力、そして福音への献身を示しています。