私たちが心から求め、受ける価値がある限り、私たちの永遠の父は啓示を通して私たちとコミュニケーションをとられます。それは、祈りの内省的な瞬間、聖書の言葉と悟り、預言者の教え、または天の音楽の平和的なメロディーの中で私たちにやってくるメッセージです。彼のメッセージ普段静かであり、受け入れる準備ができていなければ、私たちは皆、それらを見逃してしまう可能性があることを知っています。
ハッピーバレンタインデー!今日は愛を祝う日です。愛の手紙、ハート、バラやチョコレートを思い浮かべると思います。今日、多くの人が愛する人からメッセージを期待しているでしょう。また愛する人にメッセージを届ける計画をしている人もいるでしょう。上手くいくことを願っています。
両親は私を心から愛しています。そのことに私は何の疑いもありません。しかし、私が10歳のとき、両親は何千マイルも離れたサウジアラビアに住み続け、私はイギリスの寄宿学校に通わなければなりませんでした。離別は私にとって大きな悲しみでした。
イギリスまでの長い飛行中、アラビアの暑さと太陽を後にし、何マイルも飛行し、何層もの雲を抜けてロンドンのヒースロー空港の冷たく灰色の景色に降り立ったとき、不安に感じたことを覚えています。飛行機の窓の雨のしずくが通り過ぎて、私は故郷からとても遠く離れているように感じました。
私はグレーのショーツ、セーター、ネクタイ、キャップの制服を着て学校に到着し、私の大きな、緑のトランクを引っ張ってきました。孤独感に圧倒されました。
私は他の15人ほどの男子生徒と一緒に寮で寝ました。ぐらぐらする金属フレームのベッドや、時折の枕投げなど、とても新鮮な体験でした。毎朝ベッドメイキングが終わると、私たちはベッドメイキングとシーツの端の折り込みがチェックされている間、脇に立っていました。知らない匂い、食べ物、そして全くなじみのない教師がいました。私のラテン語の先生は部屋を歩き回り、私達が答えを知らなければ、ボールペンの先端で私達の頭をつつきました。そして、私は頭をよくつつかれました。
スポーツの時間にグラウンドに出て、めったにない晴れた日に飛行機が頭上高く飛んでいて、飛行機雲を残しているところを目にすると、その飛行機がアラビアへ帰ろうとしているかどうか、そのルートをよく見ていました。もしそうなら、とても胸が痛かったです。何となく、私は飛行機に飛び乗って両親のいる家に帰りたいと思っていました。
毎週の中で最も嬉しい瞬間は、手紙が配達される朝食の時間でした。私は、母が毎週送ってくれた青いエアメールの手紙を必死に探しました。先生たちが手紙を持ってテーブルを回ってくると、私は文字通りベンチの端で、自分宛の手紙がないか待っていました。いろいろな意味でここはホグワーツでしたが、フクロウも魔法もありませんでした。
青いエアメールの手紙は、私の一週間の振り返りになることが多かったです。特に、孤独感が最も強かった初期の頃はそうでした。故郷からの手紙を受け取ると、とても幸せで安心しました。一人になれるまで待ち、封筒を慎重に開き、私の親からの愛、安心、そして助言のメッセージを熱心に読みました。私は一行一行を味わい、その瞬間、故郷と両親の愛を身近に感じ、もう一週間続けるために必要な勇気をもらいました。
人間が生きていく中で、私が寄宿学校にいた頃のように、周囲に人がいても孤独や恐怖を感じさせるものがたくさんあります。そして、時々故郷から遠く離れた気分になります。実際、 BYUにいる間は、ほとんどの人が故郷から遠く離れています。おそらくこれはあなたにとって比較的新しい、そして苦痛な経験であり、まだ適応が難しいと感じているでしょう。ホームシックはあなたを苦しめ続けているかもしれません。数ヶ月、あるいは数年の間家を離れていて、それに慣れている人もいるでしょう。そして、一部の人にとっては、悪影響を与える状況や人間関係から離れることが実は良いことであり、自分が目標としている人に近づくチャンスなのかもしれません。
電子メール、携帯電話、フェイスブック、スカイプ、ツイッターが昔ながらの手紙に取って代わったため、私たちは、青いエアメールの手紙を自宅と連絡を取り合うために送ることは減りました。しかし、故郷からのメッセージ、愛と安心とアドバイスのメッセージは、それがあなたの玄関や郵便ポストに届く形であれ、あなたが故郷を離れている間、旅の途中であなたを落ち着かせるのに強力な影響力を持つことができます。それらはあなたが愛され、大切にされていることを思い出させるでしょう。母や父、兄弟姉妹、祖父母、親戚、友人からの手紙、カード、テキストメッセージ、電子メール、電話は、私たちが家の快適さから遠く離れた場所で困難や逆境に直面したときに、大いに役立ちます。私は今でもイギリスにいる母に電話をかけることで力と慰めを得ています。彼女はもう90歳です。
もちろん、様々な意味で私たちは故郷から遠く離れています。この永遠の住まいのたとえは、分かりやすいものです。私たちは、天の父、救い主、そして「高貴で偉大な者たち」(アブラハム3:22)の前にいる祝福を受けたことを知っています。私たちは、彼らから「最初の教え」(教義と聖約 138:56)を受け、「善や悪を選ぶ」機会や「非常に深い信仰」を働かせる機会が多くあったことも知っています (アルマ13:3)。この痛みを伴う試しの過程の一部には、「何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう」(アブラハム3:25)、という目的があります。永遠の故郷、そこにある愛や承認、純粋な真実と光を懐かしく思い、ホームシックになったことはありませんか。わたしたちの霊は、「主の愛の御腕に永遠に抱かれて」(2二ーファイ1:15)、わたしたちの父の前で、自分たちが最もふさわしいと知っている場所にいることを切望しているのではないでしょうか。
わたしたちの永遠の御父は、御自身の愛と導きにあずかる機会を日々の生活に与えることなく、わたしたちを家から、そして御父のみもとから離れさせることはないのです。ヘンリー・B・アイリング管長は私たちにこう断言しています、「御父は御子の御名によって祈ることで、 祈り続ける限り、この人生で彼と対話する機会を私たちに提供してくださいます」 (“Ensign”, February 2012, 4; emphasis added )。時に私達は、このことを忘れてしまいます。時々疑ってしまいます。時々私たちはそこから自分自身を切り離してしまいます。しかし、神は私たち全員にキリストの光を授けて下さって、私たちが善と悪を見分け、闇と光を、また嘘と真実を識別することを可能にしてくださいました( モロナイ7:16)。私たちがキリストの光に繰り返し反応し、「善ものをことごとく手に」するように自分自身を訓練するとき(モロナイ 7:19)、私たちは御霊のものに対する感受性を高め、永遠の家から私たちに届くメッセージを受け取る能力を高めます。私たちが心から求め、ふさわしくある限り、私たちの永遠の父は啓示を通して私たちとコミュニケーションをとられます。それは、祈りの内省的な瞬間、聖文から受ける光、預言者の教え、または天の音楽の平和的なメロディーを通して私たちにやってくるメッセージです。彼のメッセージはしばしば静かであり、 受け取る準備ができていなければ、私たちは皆、それらを見逃してしまう可能性があることを知っています。
実際、他のメッセージを受け取るのに忙しくて、永遠の故郷から届く必須のメッセージを受け取る能力が損なわれてしまうことがよくあります。メッセージで溢れ、さらにそのメッセージが攻撃さえする世界に私たちは住んでいます。スマートフォン、コンピューター、タブレットは、新しいテキストメッセージ、ソーシャルメディアのアップデート通知、電子メール、写真の通知音を鳴らし続けています。それはほんの一瞬ではありますが、頭に残るメッセージでもあります。
この並外れた技術はもちろん大きな利益をもたらすことができます。その一つの例は、イエス・キリストの福音の輝かしいメッセージが、あらゆる種類の携帯機器を通して共有され、ストリーミングされ、そして受け取れることです。しかし、私たちは受信するメッセージを選択しなければならないのです。良いメッセージ、あるいはより良いメッセージを受け取れるように多くの時間を費やすあまりに、最も良いメッセージを受信できなくなることが、私たちの霊的な幸福にとって極めて致命的です(ダリン・H・オークス, 良いこと,より良いこと,最も良いこと, 2007年11月を参照)。
母から無理やり青いエアメールの手紙を送ってもらい、毎朝朝食の時間に手紙を読むことができなったように、私たちは永遠の故郷からメッセージを強要することはできないのです。主は、いつ、どのように、何を私たちと通信するかを決めます。「すべて求める者は得、捜す者は見いだす」(ルカ11:10)、のは事実ですが、「それは神自身の時に、神自身の方法で、神自身の思いに従って起こる」(教義と聖約88:68 )という事実から勇気をもらい、覚えなくてはなりません。私たちは主のメッセージを要求することはできません。私たちは彼を待たなければならないです。しかし、私たちは主を待ち望むときでさえ、主を追い求め、嘆願を続けてしまいます。
ニール・A・マックスウェル長老は次のように教えています。
「啓示はボタンを押すことではなく、断食、聖文の学習、個人的な熟考によって助けられながら、自分自身に迫ることです。
…啓示を受けるには、十分な程度の個人的な正義が求められます。そのため、正義の人には、求められなくても啓示が与えられることもあります」(“Revelation”、First Worldwide Leadership Training Meeting、 2003年1月11日ソルトレイクシティ:末日聖徒イエス・キリスト教会,2003年、5ページ)。
最近、有人宇宙飛行の黄金時代、特に1960年代のアポロ計画を想起させるものがありました。これらのミッションは科学と工学の驚くべき偉業でした。乗組員は訓練課程の中で最も聡明かつ優秀で、人類史上最も強力なマシーンであるサターンV型ロケットに乗って宇宙へ飛び立ちました。しかし、月に着陸する前に、宇宙船は月の軌道に進入し、減速する必要がありました。これは、このミッションの多くと同様に、誰も成し遂げなかったことを意味しました。それは月の裏側、いわゆるダークサイドを回ることでした。
それまで乗組員は、ヒューストンの管制センターと常に無線通信を行うことができました。しかし、月の裏側を回る段階になると、月が文字通り宇宙船と地球の間にあるため、通信は途絶えてしまうのです。科学、工学、そしてこの前人未到の試みに挑む頭脳明晰で努力を惜しまない人達の英知を結集しても、彼らが月の裏側にいる間にコミュニケーションをとる方法を思い付くことができなかったのです。そのため、苦しい45分間、乗組員との通信はすべて途絶えました。ヒューストンの管制センターで彼らにできることは、緊迫の45分が過ぎていく間、ただ待って、希望を持ち、祈ることだけでした。問題が発生し、何らかの不具合が発生した場合はどうなるでしょうか。管制センターはどうやってそれを知るのでしょうか。どうやって助けるのでしょうか。
宇宙機は月の裏側から現れ、電波を再受信し、乗組員の安全が確認された時、管制室は安心と喜びの声を上げたに違いありません。
そして、それは私たちにも簡単に起こり得るのです。私たちも、あの宇宙飛行士たちと同じように、驚くほど聡明で、優秀で、自分の才能を発揮し、月を目指すことができます。私たちは、人生において最も素晴らしい学習体験をし、成長するための素晴らしい機会を与えられるかもしれません。おそらく、親、教師、伝道部会長や様々なリーダーから優れた教育と訓練を受け、遠くに来て多くを学んでいると思います。私たちは、この死すべき時期に、私たちの永遠の可能性と、この地上での使命を垣間見るでしょう。しかし、主が定めてくださった道を進み続けるために、そして安全に永遠の故郷に戻るためには、私たちは主と絶えずコミュニケーションをとらなければなりません。もし私たち自身と、その重要なコミュニケーションの源である天の御父からの啓示との間に壁を置くならば、私たちは神から必要な導きのメッセージを受け取ることができなくなります。
終わりのある人生の時が経つにつれ、問題が発生し、不具合が起こるでしょう。そうなったとき、私たちは導きと指示を与える唯一の真の源から切り離してしまったことに気づくのでしょうか。
このバレンタインデーに、私たちの心の状態と、この宇宙の創造主である私たちの父からの愛、導き、訂正、啓示のメッセージをどのように受け止めているかを調べてみましょう。自分と主の間にどんな障壁を置いているでしょうか。私たちは時々、管制室からの信号が聞こえないような、月の裏側に自分自身を置いてはいないでしょうか。
わたしたちの心の状態には、天の御父からのメッセージに耳を傾け、それを受け取る能力に影響を及ぼす可能性があるものが数多くあります。そのうち3つだけ触れたいと思います。
- 私たちの心は、日常の心配事と世の喧騒によって重荷を負っているかもしれない。
- 私たちの心は、罪や不甲斐なさによってかたくなになっているかもしれない。
- 私たちの心は、誤ったテクノロジーの使い方によって悪い影響を受けているかもしれない。
第一:私たちの心は、日常の心配事と世の喧騒によって重荷を負っているかもしれない
私たちは、そんなつもりも、意識したこともないかもしれませんが、日々の心配事、プレッシャー、いらだち、締め切りなどで心に重荷を背負い、時折、月の裏側に身を置くことがあります。私たちは、それほど珍しいことに直面しているわけではなく、特に困難な問題を経験していなくても、あまりにも悩み、心配しているために、主が与えてくださるはずの平安と慰めを私たちの心から遮断されてしまうことがあります。日々の要求に応えるために夜遅くまで起きて働きすぎたりすると、疲労が蓄積し、疲れ果て、世界はもっと暗いものに見え、物事の見通しがつかなくなり、釣り合いが取れなくなります。書くべき論文、受けるべき試験、するべき研究、果たすべき仕事、そして多分子供の世話などあるでしょう。金銭的な悩み、家族の心配、そして人生のこの段階が完了する時に、次にどこに行くべきか、又は何をすべきかについての、魂の質問があるでしょう。そして今日、デートやデートの予定すらなく、また婚約すべきかどうか悩むでしょうし、実際にそのような機会が欲しいという気持ちについて、言及せざるを得ません。
周囲の世界の騒音や忙しさが、あなたの気持ちにどれほど影響を与え、永遠の御父があなたに向けられたメッセージを聞き、受け取る能力にどれほど影響を与えているか、あなたは気づいていないかもしれません。
圧倒され、重荷を感じているとき、ペースを緩め、静かな空間を見つけ、天の御父に近づく方法や時間を見つけることは不可能に思えるでしょう。すでに過密なスケジュールから少し時間を捻出することを提案されただけで、プレッシャーを感じるようになります。静かな時を過ごす選択が実際に十分な利益をもたらすかどうか疑問に思い、他のことに時間を費やしたほうがよいと考えるかもしれません。しかし、そのときに問題が発生し、小さな不具合が大きな故障につながる可能性があります。
ボイド・K・パッカー会長は、私たちの心が日常の喧騒や心配事がもたらす負担について、重要な真実を教えています。。
「御霊は叫んだり、力強い手で揺さぶったりして私たちの注意を引くことはありません。ささやきかけてくるのです。とても優しく撫でるので、私たちが気を取られていると、まったく感じないかもしれません。
時々、私たちが注意を払うのに十分な強さで押し付けてくることもあります。しかし、ほとんどの場合、私たちがその優しい感覚に注意を払わなければ、御霊は退いて、私たちが求めて耳を傾けるまで待っています」。[「The Quest for Spiritual Knowledge,」 New Era, January 2007, 4; emphasis added]
私たちは、主のこれらの言葉を思い出すために、毎日、時間を見つけて、それを守る必要があります。「すべての肉なるものはわたしの手の内にあるからである。安らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい」(教義と聖約101:16)。静まり、忙しさから離れられる時間があれば、私たちは再び心を落ち着かせ、優先順位を見直し、天の御父が私たちに伝えたいメッセージを受け取り、感じることができる状態に戻ることができます。覚えておいてください。私たちの心が何かに気を取られていると、御父のメッセージを感じられないかもしれません。御父の声は、強くも大きくもありません。「耳障りな声ではなく,大きな声でもなかったが,…小さな声でありながら,聞いた人々の心の中まで…貫らぬき,…彼らの心を燃え上がらせた」(3ニーファイ11:3) 私たちが準備を整え、信仰の一歩を踏み出して、一日のどこかの時点で神を第一にすると、忙しいスケジュールの真っ最中でも平安が見つかります。しかし、我々は神を第一にすることによって、それを実現する選択をしなければならないのです。
第二:私たちの心は罪や不甲斐なさによってかたくなになっているかもしれない
罪と不甲斐なさを抱えた心が、自分と神との間に障壁を作ってしまうことは疑いようがありません。時には、長い間、心が罪を抱えていると、霊的な事柄に対して鈍感になり、主のメッセージを受け取り、感じることができなくなることがあります。もし今日、あなたの心の中に、天の御父と本当につながり、御父の愛と御父の計画を感じることを妨げている何かが少しでもあるなら、今すぐそれを正すか、手放すか、あきらめるか、捨て去るかを決意してください。特に、その不甲斐なさが実際には存在しないかのように生き続けると、不甲斐なさによって心が頑なになります。心が清いかのように聖餐を受けたり、他の儀式に参加したりしますが、実際にはそうではない場合、この状況はさらに複雑になります。
ニーファイは美しい真実を教えています。
「主なる神は暗闇の中で業を行うようなことはなさらない。
主は,世のためになることでなければ何事もなさらない。すべての人をみもとに引き寄せるために御自分の命を捨てるほど,主は世を愛しておられるからである」(2ニーファイ26:23-24)。
主はわたしたちの益のため以外は何もなさらず、わたしたち一人一人を主のもとに連れ戻すために命を犠牲にしたことを、霊を通して愛と優しさで思い起こして下さいます。、救い主御自身がこうおっしゃいました。
「それゆえ,わたしは彼らに戒めを与えて,このように言う。あなたは心を尽くし,勢力と思いと力を尽くして,主なるあなたの神を愛さなければならない。また,イエス・キリストの名によって,神に仕えなければならない」(教義と聖約59:5)。
あなたの全ての心、全ての思い、全ての力を主に捧げることから、あなたを遠ざけているものは何ですか。
完全な愛と完全な赦しの心を持つ救い主についてのリーハイの教えが真実であることを心で感じてください。「見よ、メシヤは律法の目的を達するため、打ち砕かれた心と悔いる霊を持つすべての人のために、罪に対する犠牲として御自身をささげられる」(2 ニーファイ 2:7)。イエスはあなたがたのために自らを犠牲としてささげ、その苦しみによってあなた方のために律法の目的を果たすことができるのです。「見よ、自分の罪を悔い改めた者は赦され、主なるわたしはもうそれを思い起こさない」(教義と聖約58:42)。この約束を何度も聞きすぎることがあるでしょうか。
これらの聖句やその他多くの聖句は,行動し,変わり,悔い改め,砕かれた心と悔いる霊を主に捧げる強さと決意を皆さんに与えてくれます。主はあなたのために命を捧げてくださいました。あなたも自分の心を捧げることができます。
「主なるわたしは、人の子らの心を求めるからである」(教義と聖約64:22)。
第三:私たちの心は誤ったテクノロジーの使い方によって悪い影響を受けているかもしれない
私たちは、気付かないうちに、誤ったテクノロジーの使い方から、生活の多くの面で苦しんでいるかもしれません。人生の多くのことと同様に、私たちは何を消費するかは選択できます。したがって、ある種類のメッセージの消費に多くの時間を費やすと、そのメッセージの影響を受けてしまうことに驚かないでください。ソーシャルメディア、有名人やエンターテイメントのニュース、ゲーム、ネットサーフィンに時間を費やしすぎることは、テクノロジーを上手く使えていない証拠です。マスメディアの態度や意見を取り入れ続けると、自分自身の価値観や視点がその影響を受けていることに気づくでしょう。私たちはこれらのメッセージの影響を受けていないと自分自身に言い聞かせているが、それはあり得ないのです。
デビッド・A・ベドナー長老は次のような質問をしました。
1.さまざまなテクノロジーやメディアの使用は,あなたの生活における聖霊の絶え間ない交わりを招きますか,それとも妨げますか。
2.さまざまなテクノロジーやメディアの使用に費やす時間は、生きる力、愛する力、そして有意義な方法で奉仕する力を広げますか、それとも制限しますか。 [“Things as They Really Are,” Ensign, June 2010, 23]
テクノロジーの使い方を変える必要があるとわかっていてもやらないことがよくあります。明日から始めると言っても、そんなことを言っても、あまり意味がありません。今こそ行動する時です。そうでなければ、私たちは自分の行動とそれを変えるためのやり抜く力の欠如に縛られます。
また、今日メディアに寄せられているメッセージの多くは、私たちの信仰を疑ったり、信念を損ねたり、皮肉な目で世界を見たりする原因となることを忘れないでください。しかし、私たちが真理の源、光の源に活気に満ちた継続的な流れでつながっているなら、私たちは信仰を失わずに欺瞞的なメッセージをかわすことができます。疑問や疑念がある場合、私たちは、心への障壁をすべて取り除いたときに働く繊細で貴重な啓示を通して、この宇宙の父であり創造主である方から答えを得ることができます。私たちは「神に頼って生きる」ことを選びます。(アルマ37:47)
ボイド・K・パッカー長老の次の教えが大好きです。彼はこう言われました。「私たちは盲目だから従順なのではありません。目が見えるから従順なのです。」(“Agency and Control”, May 1983, 66; emphasis added )
最近、あるニュースに夢中になっていたときに、テクノロジーの使い方に気をつけなければならないと改めて思いました。あまりにも多くの時間を使いすぎた気はしていましたが、後にダリン・H・オークスの本を手にして、いくつかの章を読んだときに初めて、その違いを痛感しました。私が経験した感情の違いは、まるで昼と夜のようでした。私が夢中になっていたニュースは私を不安にさせ、落ち着かせなくさせていましたが、その本は私に平安と秩序と落ち着きを与えてくれました。これは私たちが何度も学ぶ必要がある教訓のようです。
ニール・A・マックスウェル長老は次のように教えています。
「世界がこの神聖なプロセス(啓示)を理解していないか、または嘲笑しても気にしないでください。 パウロは言いました。『生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない』」(1 コリント2:14)。
最後に
私たちは喜びを得るために存在していると信じています(2 ニーファイ 2:25、を参照)。それは、今ここ、今日、そして永遠に喜びをもたらすことを意味します。しかし、喜びをもたらすメッセージそのものをブロックする選択をすると、喜びを感じることが難しくなります。
自分の心の状態や、神とのコミュニケーションを妨げている障壁を調べれば、何をする必要があるかがわかるでしょう。何を変える必要があるかがわかるでしょう。今すぐ行動するようお勧めします。天の御父からの優しく、慰め、導く愛のメッセージを妨げるものをすべて取り除く選択を大胆に行ってください。
わたしたちが受け取る、あるいは持ち運ぶことのできる最も重要なメッセージは、わたしたちが何者であるか、そして永遠の父とその御子イエス・キリストによってわたしたちがどのように愛されているかを思い起こすことです。このメッセージの真実と現実が私たちの心の奥深くに沈むとき、私たちは月の暗い側にとどまることはできません。私たちは彼らに引き戻され、彼らの愛に戻り、彼らの光に戻り、彼らの腕に戻ります。
ディーター・F・ウークトドルフ管長は次のように説明しています。
「兄弟姉妹の皆さん,宇宙で最も力ある御方が皆さんの霊の父なのです。御父は皆さんを御存じで,完全な愛で皆さんを愛しておられます。
… 皆さんが御自分にとって大切な存在であることを知ってほしいと望んでおられます」(あなたは御父にとって大切な存在です Ensign、 2011年11月22日。強調追加)。
今日、皆さんへのわたしの証は、天にまします永遠の御父は存在するということです。神は生きておられ、皆さん一人一人を愛し、可愛がり、大切に思っておられます。特に、「私じゃない」と思っている人たちをです。彼は特にあなたを愛しています。
イエス・キリストは御子であり、私たち全員への贈り物であり、全人類の救い主です。
最後にトーマス・S・モンソン大管長の言葉で締めくくります。
確認のときに神権者があなたの頭に手を置いて「聖霊を受けなさい」と言ったことを思い出してください。真実を証言する特別な声の音に、あなたの心、そして魂さえも開いてください。預言者イザヤが約束したように、「『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く」 (イザヤ 30:21)[「Be Thou an Example」]。
イエス・キリストの御名によりアーメン。。
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末日聖徒イエスキリスト教会中央幹部七十人第一定員会のパトリックキアロンは、2012年2月14日にこのディボーショナルを行いました。