ディボーショナル

神にとって、皆等しく尊い存在である

BYU体育学部教授

1992年5月12日

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キリストにとって、私たちの価値は計り知れません。キリストを愛し、信仰を持ち、彼のようになりたいと望むとき、主が私たちを変え、完全にし、そのもとへ連れて帰るのです。その時、キリストの持っているすべてを、私たちに与えて下さるでしょう。これ以外に望むことはあるでしょうか?


皆さん、おはようございます。この場でお話ができる特権に心から感謝します。リー学長がこの場にいらっしゃらないことを残念に思います。昨日、学長から電話を頂き、彼がこの場に参加できなくて残念に思っていると伺いました。学長はこの場にいませんが、当初計画していたお話から始めても差し支えないかと思います。彼は冗談が好きですからね。テーマが霊的なお話ということなので、このディボーショナルにふさわしいお話を選びました。ただ、メインキャラクターの一人を変更します。

ある二人の男性が亡くなって天国に行きました。真珠の門に到着すると、聖ペテロが出迎え、「さあ、ついてきなさい。これからあなたが住む場所をお見せしましょう」と言いました。

最初の男性は、小さな小屋のような建物に案内されました。もう一人の男性は、金の装飾が施された美しい豪邸に案内されました。それを見ていた人が言いました。「聖ペテロ様、お仕事に口を出すつもりはありませんが、あちらの小屋に連れて行かれたのは教皇様ではありませんか? そして、あの豪邸に連れて行かれたのはブルース・ヘイフェン教務部長ではありませんか?」

すると聖ペテロはこう答えました。「ええ、そうです。でも心配しないでください。すべてはあるべき通りなのです。教皇様はここに何人もいらっしゃいますが、弁護士が来たのは今回が初めてなのです!」

こんな話が現実を表していると思うのは、少しばかげているかもしれません。でも、現代の世界を見ればわかるように、私たち人間は簡単に惑わされてしまいます。世の中から自分の価値やアイデンティティを求めようとすれば、そこには幻があります。主からアイデンティティを求めるとき、そこには真理があります。それこそが本物なのです。

私はBYUコミュニティの一員であることを心から感謝しています。この大学では、私たちが行うすべてのことをイエス・キリストの福音に根ざして進めることができます。私はベンソン大管長を愛しており、彼が神の生ける預言者であることを証します。生ける預言者に導かれている大学に所属できるということは、実に驚くべき特権です。ここにいられることは、私にとって大きな喜びです。他の大学でも同様の原則を教える機会はありましたが、それらの源を明確にすることはできませんでした。ですから、ここではそれを自由に語れるということが、まるで蓋が取り払われたかのような解放感なのです。これは本当に素晴らしい体験であり、かけがえのない機会です。会です。

今日、私たちのもとに豊かに御霊がともにいてくださるように祈ります。この話を準備するにあたっていただいた助けに感謝しています。また、今日ここに来てくださった愛にあふれた友人たち、そして皆さんの祈りにも心から感謝しています。

1992年1月、レックス・E・リー学長は冬のディボーショナルで「変わるものと、変わらないもの(Things That Change, and Things That Don’t)」と題するお話をされました。この優れた大学長が絶対的な真理の現実性について証されたのを聞いて、私は大きな喜びを感じました。そのお話の中で彼は次のように語っています。「皆さんがこれからの人生で出会う人々の中には、『絶対的なものなど存在しない』と非常に厳かに断言する人がいるでしょう。そういう人たちにとっては、すべてが相対的なのです。……そうした人々の多くは、とても誠実です。しかし、全員が完全に間違っています。」
(BYU 1991–92 Devotional and Fireside Speeches[プロボ:ブリガム・ヤング大学、1992年]54ページ)

私もリー学長の証に心から賛同し、絶対的な真理が存在することを力強く証します。絶対的な真理とは、永遠に変わらないものです。その源はこの世のものではなく、神から来るものです。私たちはその真理に応えることができますし、それを受け入れ、献身することもできます。しかし、その真理は私たち人間が作り出したものではありません。

今日の私の話の主な要点は、自己受容を能力や業績、外見――つまり世の価値基準――に基づけるのではなく、絶対的で永遠の価値に基づけるべきだということです。こうした永遠の真理を私たちの生活に取り入れることは、霊的な成長や、第一と第二の大いなる戒めを生きるために欠かせません。もし自己や他者を受け入れる際に、これらの絶対的真理を基盤としなければ、主が私たちをご覧になるように、「ありのままの自分」を見ることはできないのです。モルモン書では、ヤコブが裕福な兄弟たちを叱責し、彼らが高価な衣服や裕福な立場、財産を誇って自分たちを他の人より優れていると考えていたこと、そしてその高慢の心によって貧しい人々を迫害していたことを戒めました。

このようなことは、すべての人を造られた御方にとって忌まわしいことであるとは思わないか。神の目には、人は皆等しく貴い存在である。すべての人はちりから造られている。 そして、神の戒めを守り、とこしえに神をあがめるという同一の目的をもって、神により造られたのである。(ヤコブ2:21)

そして主は、ご自分のもとに来て主の慈しみに与るように、すべての人を招かれる。したがって主は、黒人も白人も束縛されたものも自由な者も、男も女も、主のもとに来る者を決して拒まれない。主は異教徒さえも心にかけられる。ユダヤ人も異邦人も、すべての人が神にとって等しい存在なのである。[2 ニーファイ 26:33]

私は、すべての人が神の目に尊い存在であることを知っています。昨年2月に宗教教育者に向けて語られたお話の締めくくりにおいて、ダリン・H・オークス長老は、神が私たちをどのように見ておられるかを知ることの重要性について語られました。「皆さんが、生徒たちに神との関係を感じさせ、神が彼らのことを気にかけておられること、そして神が彼らを愛しておられることを感じさせる助けとなることを願っています」(「Sins, Crimes, and Atonement」CES講演、1992年2月7日、ユタ州ソルトレークシティ、テンプル・スクエア・アセンブリー・ホール、8ページ)。

なぜ私は、救い主が私たちを愛しておられることを知ること、そして自分自身の命に対して畏敬の念を抱くことが絶対に必要だと強く感じるのでしょうか?それは、どんな人であれ「自分には価値がない」と感じてしまうことが、あまりにも美しい人生の無駄遣いだからです。私はそのことをよく知っています。なぜなら、この問題の両側を実際に経験してきたからです。人生の半分以上の間、私は自分のことを好きではありませんでした。その時間は暗く、孤独でした。外側から見るとすべてがうまくいっているように見えたかもしれませんが、内心では「もし誰かが本当の私を知ったら、きっと嫌われるに違いない」と恐れていました。一番混乱したのは、これほど多くの業績を積み重ねているのに、それでもなお健全な自己肯定感を持てなかったことでした。

天のお父様は、祝福師からいただいた祝福の中で、私のことを愛しておられると教えてくださいました。けれども、その言葉を十年間読み続けても、私の心にはなかなか染み込んできませんでした。三十二歳になった頃、私は「自分が本当に愛されているのかどうか」を切実に知りたくなりました。「外側の自分」と「内側の自分」の間のズレが、もう耐えられないほどになっていたのです。私は心からの祈りをもって、天のお父様に「本当に私を愛しておられるのですか」と問い求めました。そのときいただいた答えは、疑いようのない、否定できないものでした。ありがたいことに、その答えは「はい」でした! でも、そのときの私は「神様に愛されている」という確かな知識と、自分自身に対する否定的な思いとをどうしても結びつけられませんでした。「自分を愛せない」ということは、天のお父様が間違っておられるとか、見る目がないとでも言っているようなものではないか……と気づいたのです。そこから私は約半年間、祈り、悔い改め、自分を愛しているふりをし続けました。そしてようやく、「自分が自分でよかった」と心から思えるようになったのです。そのとき、私の人生はまったく新しく変わりました。

自分自身を心から感謝して受け入れ、自分であることに感謝し、喜べるというのは、なんと驚くべき違いでしょう。それは、自分を嫌ったり、今の自分以上にならなければならないというプレッシャーを感じたりすることとはまったく別の生き方です。現代の世界では、誰もが、自分を引き下げようとする影響や、根拠のない虚栄心を植えつけようとする影響を乗り越えなければなりません。私自身の経験から、はっきりと言えるのは、本当の意味での自己受容は、世の中での業績や他人からの承認によって得られるものではない、ということです。もちろん、それらは気分を良くしてくれたり、人生を前向きにしてくれる素晴らしい要素でもあります。しかし、自己受容は世の成功から生まれるという考えは、敵が使う非常に巧妙な策略なのです。本当の自己への愛、心の奥深くに根差した平安、自分が本当は誰なのかという確信、それらはただ一つの源、すなわち神からのみ与えられるものです。自分が神に愛されていると知ること、そして本当の平安を知ることは、比べものにならないほどの価値を持っています。世の中のどんなものも、それには到底及びません。天のお父様が私たちを心から愛しておられることを知り、そして私たちが天のお父様のもとに帰ることが彼にとってどれほど大切であるかを信頼すること、それこそが、私たちが本気で主に忠実でありたいと願うようになる、最も強力な動機の一つです。神の愛に基づいた自己への畏敬の念があるなら、私たちは世の誇りや誘惑に心を奪われることはなくなります。私たちは、神よりも何かを愛することなど、もはや望まなくなるのです。

1989年4月の総大会でベンソン大管長が語られた名高い説教「高慢に気をつけなさい(Beware of Pride)」を聞いたとき、私がどれほど感激したか、想像できるかと思います。彼はこう語られました。「高慢な人々は、自分に価値があるかどうかを世の中に決めてもらおうとします。彼らの自尊心は、世の中の成功のはしごのどこに自分がいると判断されるかによって決まるのです。」その後、ベンソン大管長は、私たちが真の、正当な自己感覚を持つにはどうすればよいかをこう示されました。「もし私たちが神を愛し、神の御心を行い、人の目よりも神の裁きを畏れるなら、私たちは自尊心を持つことができます」(『聖徒の道(Ensign)』1989年5月号、6ページ)。

世の中によって生み出される自己受容は、偽物です。その本質からして、他者に依存した自尊心は常に揺れ動き、高ぶったり落ち込んだりを繰り返します。なぜなら、常に成功し続けることなど不可能だからです。したがって、もし自己受容が成功に基づいているとすれば、成功しなかったときには自分を受け入れられないということになってしまいます。そんなことが正しいはずがあるでしょうか? もしそうだとしたら、私たちは間違いや失敗から学ぶ代わりに、困難に直面するたびに自分の価値を下げてしまうことになるでしょう。

「本当に必要でないものは、どれだけ手に入れても決してあなたが満たされることはありません。なぜなら、必要でないものは人を満たすことができないからです」——これは、メアリー・エレン・エドマンズが扶助協会創立150周年の放送で語った言葉です(「A World of Experience」『聖徒の道(Ensign)』1992年5月号、97ページ)。世の中に基づく自尊心は決して満たされることがありません。どれだけ達成しても、どれだけ手に入れても、心の内側には空虚さが残ります。慈愛、すなわちキリストの純粋な愛がなければ、私たちは無に等しいのです(モロナイ7:46-47参照)。神の愛に基づく自己受容こそが、本物です。この真の自己への畏敬の念は深く、感謝と平安に満ち、人生のどんな困難に直面していても絶えずそこにあります。神の目にはすべての人が等しく尊く、だからこそ誰もが、偽りのない、永続する、真の自己受容に至る道を与えられているのです。

回復された福音の非常に実践的な祝福の一つは、健全な自己感覚の土台となる絶対的な真理を私たちが知っているということです。いったん自己受容がこの確かな、揺るがない真理に基づくようになると、私たちは自由になります。大志を抱き、成し遂げ、優れたものを目指すことができるようになります。そのとき私たちは、主への感謝から自分自身を捧げ、主に仕え、自分の才能を生かし、主のみ業を進めるために行動するようになります。そうなれば、他人の期待に応えるために無理をし、誰かになろうとして自分をすり減らし、受け入れられたいという強迫観念にとらわれて生きる必要はなくなります。その代わりに、私たちの動機はすべて、主への愛、主が私たちを愛しておられるという信頼、そして主の御心を行いたいという望みから自然に湧き上がるものになるのです。

では、それに導く公式とは何でしょうか?本物で、真実で、安定していて、揺るぎない自己の基盤となる絶対的なもの、つまり「変わらないもの」とは何でしょうか?

1.私たちは、文字どおり天の両親の霊の子どもです。ジョセフ・F・スミス大管長のもとで出された大管長会の声明には、私たちが「天上の父母の子孫」であり、「すべての男性と女性は、普遍的な父と母の身姿にかたちどられており、文字どおり神の息子・娘である」と教えられています(「人の起源(The Origin of Man)」『インプルーブメント・エラ』1909年11月号、75–81ページ)。また、1992年4月の総大会でパッカー長老はこのことを力強く証されました。

「私たちは神の子供であり、ほかの生物とは異なった存在として創造されました。この天から与えられた真理以上に偉大な真理が啓示されたことはありません」(モーセ6:8参照)。

私たちが神の子孫ではないという考えほど、人の幸福を破壊してきたものはありません。これほど多くの悲しみ、心の痛み、混乱を生み出した哲学はなく、これほど家庭を崩壊させてきた思想もありません。(ボイド・K・パッカー「私たちの道徳的環境(Our Moral Environment)」『聖徒の道(Ensign)』1992年5月号、67ページ(原文強調)

明らかに、自分の神聖な本質について何の手がかりも持っていない人がいる一方で、その神聖な生まれながらの特権をかすかにでも感じ取っている人もいます。もし私たちが自分のアイデンティティを築く上で、何よりもまず「神聖な本質」に基づいていたとしたら、私たち一人ひとりの人生はどれほど違ったものになるでしょうか?「あなたは誰ですか?」と尋ねられたとき、あなたの心にまず浮かぶのは何でしょうか?

2.私たちは、身体と霊を持つ存在であり、すべての人は復活します。この絶対的な真理は、私たちが主がご覧になるように自分自身を見ることを目指す上で、なぜそれほど重要なのでしょうか?自己肯定感に関する研究によれば、「自分に自尊心があるかどうか」を判断するうえで、世の中が最も重視している要素の第一位は外見だとされています。私たちの「身体・心・霊の哲学」という授業で、ある学生は、学期末のレポートに次のように書いていました。自分が「魅力的ではない」と思い込まされてきたことに気づいたとき、どれほど怒りを感じたかと。ダイエット、摂食障害、自己を卑下する態度など、さまざまな破壊的行動が、「見た目」にとらわれた社会的圧力の中で蔓延しています。「私が見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)。その学生、ローリーはレポートの最後を、次のような思いで締めくくっていました。

私たちが自分の身体に対する責任を拒み、外見を偽ろうとするとき、それは必然的に魂を蝕むことになり、最終的には神のようになるという権利を自ら放棄することになるのだと私は信じています。私たちは、自分の肉体的な存在を、神にふさわしい存在へとつくり上げていかなければなりません。たとえ不完全であっても、たとえ欠点があっても、私たちをサタンの群れと区別するもの、それが身体であることを決して軽んじてはなりません。私たちが、自分の身体と霊を主のように尊び敬うなら、自分自身を偽ることはできません。私たちが形づくる顔は、神が与えてくださった顔そのものとなるのです。ですから、私は皆さんに問いたいと思います。「あなたの顔に神の面影を受けていますか?」(ローリー・ハリス「私たちの顔に神の面影を受ける」期末レポート、1992年冬学期、6ページ。講演者所蔵)

なぜ私たちは、自分の体を、神聖な自己の栄光ある一部として畏敬の念をもって大切にしないのでしょうか?「御父は人間の体と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられる。御子も同様である」(教義と聖約130:22)、「霊と体が人を成す」(教義と聖約88: 15)とあるように、私たちは今、前世にいたときよりも、神に近い存在となっています。肉体は、前進する過程において与えられた最も基本的な祝福の一つです。過去数十年の免疫学の研究は、感情、心、体が完全に相互作用しながら機能していることを驚くべき形で証明しています。私たちは定義上、魂つまり霊と体が結びついた存在であり、魂として生き、働いています。もし私たちが体を否定的なもの、霊が支配しなければならないもの、あるいはできれば持ちたくなかったものとして捉えるなら、自分自身の内側に争いの状態を生み出してしまいます。そして私たちは、「争いの心を持つものはわたしにつく者ではなく、争いの父である悪魔につく者である」(3ニーファイ 11:29)ということを知っています。主はまた、「一つとなりなさい。もしもあなたがたが一つでなければ、あなたがたはわたしのものではない」(教義と聖約38:27)とも言われました。この言葉は、他者との関係にとどまらず、私たち自身の魂――霊と体の調和――にも見事に当てはまると私は思います。私たちが自分の体、つまり魂全体を畏敬の念をもって大切にするとき、私たちは自分を心から価値ある存在として認め、もっと穏やかに、優しく自分と向き合えるようになるでしょう。皆さんは、自分の霊と同じように、体にも感謝していますか?

ミッキー・トロッケルは授業で、他人に自分の価値を定義させてしまう「被害者意識」の危険性を示す物語を紹介しました。ある自然学者が、鶏小屋の中に一羽のワシがいるのを見て不思議に思い、農夫に「なぜワシが鶏と一緒にいるのですか?」と尋ねました。すると農夫は「このワシはもう鶏なんですよ。私が鶏として育てたんです。他の鶏たちと一緒にトウモロコシをついばむように教えましたから」と答えました。それを聞いた博物学者はばかばかしいと思い、ハシゴを使ってワシを上に連れて行き、「翼を広げて飛びなさい」と言いました。ところが、そのワシは飛ぶのではなく、下に飛び降りて、また他の鶏たちと一緒にトウモロコシをついばみ始めたのです。

しかし、その自然学者はあきらめませんでした。今度はワシを納屋の屋根の上まで連れて行き、「翼を広げて飛び立ちなさい」と言いましたが、同じことがまた起こりました。ワシは飛ばずに地面に降りて行き、鶏たちと一緒にトウモロコシをついばみ始めたのです。「そんなはずはない」と自然学者は思いました。そして農夫に、「高い崖までこのワシを連れて行って、もう一度試してもいいですか?」と尋ねました。

農夫は笑って言いました。「何をやってもいいですがね、このワシは自分が鶏だと学んでしまったんですよ。」

自然学者はワシを高い崖の上に連れて行き、「翼を広げて飛び立ちなさい」と言いました。ワシは太陽の方を見上げ、そして翼を広げ、谷を越えて舞い上がっていきました。私たちもまた、他人に自分を傷つけさせたり、勝手に定義づけさせたりすることができます。しかし、私たちが本当の自分を知り、心から大切にできるようになるのは、太陽ではなく御子――神の御子、イエス・キリストを仰ぎ見るときなのです。

3.一人ひとりの人間、一つひとつの魂は、無限で永遠の価値を持っています。主は私たちがご自分にとっていかに価値ある存在であるかを、はっきりと断言してくださっています。

人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい。

見よ、主なるあなたがたの贖い主は、肉体において死を受けた。それによって、すべての人が悔い改めて自分のもとに来ることができるように、主はすべての人の苦を引き受けた。(教義と聖約18: 10-11

イエスは、私たちがどのように生きるかを見てから命を捧げたのではありません。実際のところ、すべての命には神聖で無限の、奪うことのできない価値があるのです。魂の価値とは、魂全体、つまり霊と体を含めた人全体の価値を意味します。私たちの価値は他人によって操作されるものではなく、増やされたり減らされたりするものでもありません。私がマクスウェル長老のすばらしい著書『Men and Women of Christ(キリストの男と女)』の中で次の言葉を見つけたとき、喜びで胸が躍りました。彼は私たちの真のアイデンティティを知ることについて、こう語っています。「これこそ、回復された福音の偉大でありながら十分に評価されていない祝福の一つです。それは私たちに、私たち自身に内在する価値、そして永遠にして究極の価値を豊かに保証してくれるのです」(ソルトレイクシティ:ブッククラフト、1991年、128ページ)。

価値とは人生における絶対的な側面であるため、常に存在し続けます。もちろん、神の戒めに従って生きていなければ、自分が神にとってどれほど価値ある存在であるかを実感するのは難しいかもしれません。マクスウェル長老もこう語っています。「より聖なる人には、より多くの個性が見られます。一方、罪は私たちを画一化させます。それは私たちを依存的な欲望と反抗的な衝動へと縮小させてしまうのです」(「悔い改め」(Repentance)『エンサイン』1991年11月号、30ページ)。人は時として、自分の価値を見失うことがあるかもしれません。しかし、その人の価値は神の目には常に偉大なものです。人の命は常に最大限の価値を持っています。それは永遠のものであり、消し去ることのできない価値なのです。素晴らしいことではないでしょうか?「無価値である」などという選択肢は、私たちにはありえないのです。

4.聖霊の影響は、常に喜びと満足をもたらします。かつて、ジョージ・Q・キャノンは次のような助言を与えました。

私は、神の御霊と悪の霊を見分けるための一つのルールをお教えします。神の御霊は常に、喜びと心の満足をもたらします。あなたがその御霊を受けているとき、あなたは幸せです。しかし、別の霊を受けているとき、あなたは幸せではありません。疑いの霊は悪しき者の霊であり、不安やその他の感情を生み出し、幸福と平安を妨げます。(『Journal Discourses』第15巻375ページ)

ベンソン大管長はこのように語りました。「私たちの多くは、高慢を、裕福な人や学識のある人が自分より下の人々を見下すような、上からの罪だと考えています。(2ニーファイ9:42)。しかし、私たちの間にはるかに一般的に見られる病があります――それは“下から上を見る”タイプの高慢です」(高慢に気をつけなさい, 聖徒の道, 1989年5月, p5)。つまり、自分を否定的に考えることも一種の高慢であるということです。生まれながらの人は神の敵であり、したがって高慢に満ちています。生まれながらの人を捨てるとは、部分的には、自分を過小評価したり、自分を否定する態度をやめることでもあります。かつて私は、誠実さとは、自分自身について否定的なことを考えたり言ったりしないことだ、という定義を聞いたことがあります。

私たちは、幸福を感じるために他人からの承認や世の中の評価にどれほど依存しているでしょうか?ここで、孔子の『論語』にある、すばらしい一節を紹介します。「幽谷に咲く蘭は、人に知られずともその香りをとどめない。君子は徳を立て、義を守ることに努め、貧困や困難にあっても節操を改めることはない。」この言葉は、他人の認識や評価に依存することなく、自らの価値と原則に忠実であることの大切さを教えています。

もし私たちが人の評価や批判を恐れず、代わりに御霊の促しに従うなら、聖霊は確かに私たちの心を愛と喜びで満たしてくださいます。それなのに、どうして私たちは幸福を他のところに求めてしまうのでしょうか?

5.すべての人、一つひとつの魂は、いつも愛されています。

主に愛された使徒ヨハネは、神は愛であることを私たちに教えました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3:16)。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」(ヨハネの第一の手紙4:19)。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さった。ここに愛がある。」(ヨハネの第一の手紙 4:10)。

私たちが愛を始めるのではありません。愛もまた、絶対的なものです。すでに存在しており、常にそこにあります。では、私たちは神の愛とどのように関わるのでしょうか?私たちはその愛を受け入れ、応答し、感謝し、そして愛するのです。デニス・ラスムセンが、その示唆に富み心を揺さぶる著書「主の問い:応答する人生についての思索」(プロボ:ケテル財団、1985年)の中で、次のように書いています:

応答することによってのみ、私は責任を学ぶ。応答することによってのみ、私は自分以外の何かを気にかけることを学ぶ。(4ページ)

従順という応答は、愛から生まれる自由な応答である。(7ページ)

すべての人間の心の奥深くには、ただありのままの自分を知ってもらい、愛してもらいたいという願いがある。(9ページ)

神は、その人の本当の姿をすでに知っている。人が自分の真の自己へ向かうように導きつつも、無理やりにはさせず、神は問いを投げかける。人が愛をもって応えるとき、神が知っており、なってほしいと願っている本来の自分へと変わっていく。(8ページ)

BYUフットボールで有名なスコット・ジャイルズから許可を頂いたので、彼のお話を少しさせて頂きます。

ある日、まだ子どもだった頃のことです。試合の前に私は母に尋ねました。「お母さん、もし僕たちが負けて、僕があまりうまくプレーできなかったら、それでも僕のことを愛してくれる?」

母はこう答えてくれました。「スコット、何があってもあなたを愛してるわ。勝っても負けても、私は変わらずあなたを愛してる。」

その言葉は私の心に平安をもたらし、肩の荷を下ろしてくれました。そのとき私は、母の愛が私の行動によって左右されるものではなく、「私が誰であるか」という存在そのものを愛してくれているのだと気づきました。私の人生では、フットボールで成功したことによって、多くの人が私のそばにいたいと思ってくれましたが、その友情や態度は、私の成功や失敗によって変わっていくこともありました。末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師として奉仕する中で、私は天のお父様がすべての子どもたちを愛しておられることを学びました。御父は人の心と魂をご覧になります。服装や達成したこと、持ち物などで人の価値を測ったりはなさいません。神の愛は、命という賜物に本質的に備わっているものです。私はときどき、成し遂げたかったことを達成できなかったり、すべきことをしなかったりしますが、それでも自分自身が好きです。自分という存在、そしてその中にあるものを気に入っています。天のお父様が私を愛してくださっていることに、心から感謝しています。御父は私に自分自身の選択から学ぶことを許してくださり、そしてその中にある本当の私を、変わらず愛し、価値あるものとして見ていてくださいます。

このお話は本当に感動的です。才能に恵まれれば、恵まれるほど、美しくなればなるほど、裕福になればなるほど、天のお父様からの愛を感じることは難しくなります。リーハイの夢に出てくる、木の実を見つけ、食べようとする人達の邪魔をする暗黒の霧を思い浮かべてみてください。それは人々が命の木の実を見つけ、味わうのを妨げていました。注目、名声や社会的成功は、本当の愛の源、つまり天のお父様からの愛をぼやかし、曇らせるでしょう。

また、救い主に愛を求めることは、優秀さや努力を否定することではありません。むしろその逆です。自分が「存在そのもの」として愛されていると確信しているとき、人は失敗を恐れずに学ぶことができます。失敗によって自尊心が壊されることもありません。「失敗するかもしれない」「自分は十分でないかもしれない」という恐れがなくなると、人は本当の意味で自由になります。何かに駆り立てられて努力するのではなく、自発的に、喜びをもって最善を尽くすことができるのです。人生は「得ること」に必死になるのではなく、「与えること」を中心としたプロセスになります。愛と敬意は、天の御父から私たちへ、そして私たちを通して他の人々へと流れていくのです。

私は、「神の愛は条件付きであり、自分でそれを勝ち取らなければならない」と人々が思っているという話を読むたび、また耳にするたびに、大きな悲しみを感じます。そんなふうに考えると、救い主の完全な知恵や理解を過小評価してしまうことになります。あるとき、神の愛がもし条件付きだとしたら…という考えが、どれほどおかしなものかを考えているうちに、ちょっとおかしなイメージが頭に浮かびました。それは、神様を手伝うために配属された二人の天使のことです。一人は「オッケー天使」、もう一人は「ダメ出し天使」です。この二人の天使には、人間の行動や態度を観察して、それを神様に報告するという任務が与えられています。「オッケー天使」は、その日にいいことをした人や頑張った人の名前をリストにしてまとめます。一方で、「ダメ出し天使」は、ちょっとうまくいかなかった人たちの名前をリストアップします――たとえば、「今日は自分が嫌いになった」「体重が10ポンド増えた」「あの戒め、やっぱり難しい」「この髪型じゃ外に出られない」などなど、理由はさまざまです。やがて、それぞれの天使が自分のリストを神様のもとに持っていき、こんなふうに言います。「こちらが、今日あなたが好きでいてはいけない人たちのリストです。そしてこちらが、今日好きでいてもいい人たちのリストです!」そんなこと、あるはずがありませんよね。もちろん、これはありえない話です。神の愛は、そんな気まぐれで条件付きのものではありません。神はすべてをご存じで、どんな時も、どんな状態の私たちにも、変わらぬ完全な愛を注いでおられます。

このイメージ、なんだかおかしいですよね?もし本当に神様の愛がそんなふうに「今日はこの人はOK、あの人はダメ」と決まるものだったら、神様は毎日、たくさんの文句やクレームを受けて、弁護士の対応に追われて息をする暇もないでしょう!

神の愛は偽りのないものです。その愛は常に完全で、常に真実です。そして、決して操作されたり左右されたりするようなものではありません。私たちの行動によって神の愛が変わるなどと考えることは、なんとばかげていることでしょう。トレバー・R・マッキーは自身の論文の中でこう説明しています。
「偽りのある愛は、称賛や注目を求める。偽りのない愛は、すなわち慈愛である」(「Love Unconditional or Love Unfeigned: Justice and Mercy in Human Development」『AMCAP Journal』第12巻第2号、1986年、56ページ)

もし神の愛が条件付きであったならば、贈り物ではなくなってしまうでしょう。もし神の愛は勝ち取るものだとするならば、愛を得る者は他の存在から賞賛を得ることになってしまいます。冷静になって考えてみれば、これは高慢につながるプロセスです。私たちは聖霊によって自分が神に愛されていることを知るのです。聖霊に頼らず、生まれながらの人として生きることを選ぶなら、神の愛を求めることも、神の愛を実際に受けることも難しくなるでしょう。

ある人に贈り物が与えられても、彼がそれを受け取らなければ、それは彼にとって何の益があるだろうか。見よ、彼は与えられるものを喜ばず、その贈り物の贈り主をも喜ばない(教義と聖約88:33)

この愛という賜物を受け入れ、御霊の促しに心を開くとき、私たちは愛に満たされます。その愛に満たされると、私たちは神を愛し、悪を行いたいという望みを失い、何よりも神のようになりたい、神と共にありたいと心から願うようになります。いったんその愛に満たされると、神が自分をどれほど深く愛しておられるかに圧倒され、ただただ感謝の思いで満たされます。そして、自分という存在そのものに感謝できるようになります。また、天の御父がすべての人を愛しておられるということに気づいたとき、私たち自身もまた、すべての人を愛したいという思いに駆られるのです。

皆さんは自分が愛されていることを知っていますか? 皆さんが愛されていると知っていただけるように心からお祈りします。

6.イエスキリストなしでは永遠の命を得ることはできません

タダの昼食はあるのです。(Hugh Nibley,”Approaching Zion”,”Work We Must, But the Lunch is Free” in Approaching Zion[ Deseret Book Co. and Foundation for Ancient Research and Mormon Studies, 1989], pp.202-51)。1990年10月の総大会で、ハンター大管長は、救い主のくびきを負うことの意味についてお話ししました。

なぜ人生の重荷を一人で背負おうとするのか――キリストはそう問いかけられます。あるいは、なぜすぐに崩れてしまうような一時的な支えに頼ろうとするのか?重荷を負っている者たちにとって、必要なのはキリストのくびきです。この地上という固く乾いた大地で、試練や課題に立ち向かい、それに耐えて生きる私たちにとって、本当に必要なのは、神と並んで立ち、神が与えてくださる支えとバランス、そして力なのです。(「わたしのもとに来なさい」『聖徒の道』1990年11月号、18ページ)

現実のすべては、救い主を基盤としています。私たちは完全に、主に依存しています。主は備えてくださいます。だからこそ、私たちはこの世に与えることができ、見返りを求めたり、必要としたりすることなく生きていけるのです。私たちの本当の仕事は、主の御業です。私たちの本当の努力とは、主を愛し、主の御心を行うことにすぎません。心を変えてくださるのは主です。私たちを精錬してくださるのも主です。人生を強がって生きる必要はありません。自力で成長しようとするどころか、私たちは主なしにはそれすらも不可能なのです。

オークス長老は次のように教えています。

正義が公平さを意味するのであれば、憐れみは正義に調和をもたらすものです。正義が、人が当然に受けるべきものであるなら、憐れみは、人が本来受けるに値する以上のものです。贖いは、正義と憐れみの関係において、その両方を同時に満たす手段です。正義が果たされ、慈しみが差し伸べられる――それが贖いなのです。私たちは皆、父なる神が私たちすべての人類に対して、救い主イエス・キリストの贖いを通して与えてくださった慈しみに完全に依存しています。これが福音の根本にあるのです。だから、「わたしたちはキリストのことを話し、キリストのことを喜び、キリストのことを説教し、……どこに罪の赦しを求めればよいかを、わたしたちの子孫に知らせる」のです。(第二ニーファイ25:26)私たちが不死と永遠の命という目標を達成するうえで、完全にイエス・キリストに依存しているというこの現実は、回復された福音の光に触れたすべての人の、あらゆる教え、あらゆる証、あらゆる行動の中心に据えられるべきです。たとえ他のすべての教義や原則を完全に教えられたとしても、この点で欠けているなら、私たちは最も大切な使命において失敗しているのです。(「罪、犯罪、そして贖い」Sins, Crimes, and Atonement,p.2-3)

マクスウェル長老はこう語っています。「私たちは、あたかも神の愛をめぐって他人と激しい競争をしているかのようにふるまってしまうことがあまりに多いです。しかし、神の愛はすでに私たちに注がれています――無条件に、そして万人に対して。試されているのは、私たちが神をどれほど愛するかということなのです。」(『Even As I Am』〔ソルトレイクシティ:デゼレトブック社、1982年〕63ページ)主はエノクに、地上に住むすべての人々を示されました。エノクはその壮大な創造に驚嘆しましたが、そのときエホバご自身が涙を流しておられたのです。困惑したエノクは、こう尋ねました。「どうしてお泣きになっておられるのですか?」

主はエノクに言われた。「これらあなたの兄弟たちを見なさい。彼らはわたし自身の手で造られたものである。わたしは彼らを創造した日に、彼らに知識を与えた。また、エデンの園で人に選択の自由を与えた。

わたしはあなたの兄弟たちに語って、互いに愛し合うように、また父であるわたしを選ぶようにという戒めも与えた。ところが見よ、彼らは愛情がなく、自分の血族を憎んでいる」モーセ7:31-33)。

私たちが自分自身をどう思っているかーーそれは主にとって非常に大切なことです。主は、私たちが自分自身や他の人を憎まないようにと切に願っておられます。主が私たちに抱いておられる愛を、私たちはほんの少しでも想像できるでしょうか?主の御業、そして栄光とは、私たちを御もとへと導き、再び帰らせることにあります。私たちは、主の存在そのものの焦点なのです。もし私たちが主の愛を信頼し、それを人生の中に受け入れるなら、いつも主とともに歩みたいと心から願うようになります。主の戒めを守り、御心を行いたいと望むようになります。そして、私たちと救い主の間に何かが入り込むことを、心から望まなくなるのです。スティーブン・E・ロビンソンは、信仰を深めるすばらしい説教「キリストを信じる:贖いへの実践的アプローチ」の中で、主がご自身の御業を成し遂げることができる方であると力強く証しています。私たちは恐れる必要はありません。主は、私たちを罪から、弱さから、不完全さから、そして自分に足りないと感じるあらゆるものから救うことができるのです。「キリストを信じる」ことと、「キリストの言葉を信じる」ことは別です――とロビンソン兄弟は言います。そして、彼のその描写を、ぜひ聞いてみてください。

私たちの多くは、自分で自分を救おうとし、イエス・キリストの贖いを距離を置いて扱いながら、こう言ってしまっています――「自分でやりきったら、自分を完全にできたら……そのときには、贖いを受けるにふさわしくなっているはずだ……」でも、それはこう言っているのと同じです。「病気が治ったら、薬を飲もう。そのときには、薬を飲むにふさわしくなっているだろう。」(『BYU 1989–90 Devotional and Fireside Speeches(BYU ディボーショナルおよびファイヤーサイド説教集)』プロボ:ブリガム・ヤング大学、1990年、124ページ)

このキャンパスで最近行われた感動的な説教の中で、ロバート・L・ミレットは「唯一確かな土台――贖い主という岩の上に築く」(”The Only Sure Foundation: Building on the Rock of Our Redeemer”)と題して次のように証されました。

私たちは時に、イエス・キリストが私たちのために死んでくださったという事実にばかり目を向けてしまい、贖いの業において同じくらい重要なもう一つの側面――キリストが私たちのうちに生きるために来られたという事実――に十分注意を払わないことがあります。キリストにある命――すなわち、主の御霊を求め、育むことによってもたらされるその命――を私たちが得るとき、私たちは自分の力では決して生み出すことのできない罪を捨て去り、弱さを克服する力を与えられるのです。(第7回モルモン書シンポジウム、1992年2月、7ページ)

メッセージに富む本「The Broken Heart」で、ブルース C. ハーフェンは贖罪の力に関する深い理解を共有してくれています。

贖いは私たちの罪を償うだけではなく、自ら負った傷であろうと、外から受けた傷であろうとも、私たちの傷を癒してくれるのです。贖いは、私たちの学びを完成する最後のピースなのです。私たちの欠点を補い、完全な者にするのです。このようにして、キリストの贖いは、私たちを主のようにするのです。キリストの贖いは、私たちが許し、完全になり、安らぎを得る源なのです。[Salt Lake City: Deseret Book Company, 1989, p.29]

主の恵みが救いになるのか疑問を抱いているのであれば、1992年4月の総大会のパッカー長老の心揺さぶるお話に目を通してみてください。オーソン・F・ホイットニーの言葉を引用し、長老はこのように言いました。

預言者ジョセフ・スミスは、忠実な両親の永遠の結び固めと、真理の大義を勇敢に果たした際に交わされた聖約は、両親だけではなく、その子孫も救うと宣言しました。これ以上に安らぎを感じる教義をジョセフ・スミスは教えていません。中には迷い出る羊がいるかもしれませんが、良い羊飼いの目は羊に注がれています。囲いに連れ戻そうと差し伸べられている神の手に、遅かれ早かれ、羊は気づくでしょう。この世か来世かのどちらかにおいて、迷い出た子羊は戻ってきます。羊たちは、正義が求める代償を払うことになるでしょうし、罪のゆえに苦しむでしょう。いばらの道を歩くかもしれません。しかし、最後には、悔い改めた放蕩息子のように、愛と赦しにあふれた父の心と家庭に導いてくれるのであれば、つらい経験は、無駄にはならないのです。無用心で、不従順な子供たちのために祈ってください。子供たちを信じてあげてください。神の救いを見るまで、望みを持ち、頼り続けてください。[Orson F. Whiteney, CR, 1929年4月,110ページ]

いつかイエスのもとに戻ろうとしていますか?イエスは、皆さんがそうする計画をしています。

確固たる安定した自尊心の基礎となる絶対的な心理を知る機会が与えられています。

1.わたしたちは天の両親の霊の子供です。

2.私たちは魂であり、肉体であり、霊であり、すべての魂が復活します。

3.一人一人の魂は無限で永遠の価値を持つ。

4.聖霊は喜びと満ち足りた気分をもたらします

5.あなた方一人一人を、貴方の霊までもいつも愛されています。

6.イエスキリストなしでは永遠の命を得ることはできません。

これらの徳を、私たちは現世で得る必要はありませんし、得られるものでもありません。これらの徳は神からの贈り物です。これらの徳は、私たちの根幹にあるものです。これらの絶対的なものを信頼するならば、罪へ仕向けるような物はないでしょう。

このキャンパスで、救い主を心から愛する人たちから教えを受けられるのは、何と素晴らしい祝福でしょうか。主の預言者に導かれることは、どれほど恵まれているでしょうか。主は預言者にこう仰いました、「わたし自身の声によろうと、わたしの僕たちの声によろうと、それは同じである」(教義と聖約1:38)。

ここに集まった皆さんは、世に祝福をもたらす務めを託されています。

「見よ、あなたがたは預言者たちの子孫であり、イスラエルの家に属する者であり、父があなたがたの先祖と交わされた聖約を受けている者である。 父はアブラハムに、あなたの子孫により、地のすべての部族は祝福を受けるであろうと言われた」3ニーファイ20:25  。

私たちは、真実を知る祝福を受けており、同時に、その真実を世に伝える義務を与えられています。義務を受けた人は、神とその愛にふさわしくないと感じるべきではありません。ふさわしくないという思いは、私たちを神から遠ざけてしまいます。何よりも、主は私たちと共に毎日歩んでほしいと望んでおられます。敵は、皆さんを熟知しており、皆さんを欺き、聖約を果たす邪魔をし、惨めな状態にするために更なる努力をするでしょう。闇の霧の中に囚われているのに、どうして世の光になれるでしょうか?名声を得ることに心を奪われていたら、どのようにして天のお父様の御心を行うことが出来ましょうか?イザヤは予言されました。イスラエルが主を見捨てても、主はイスラエルを見捨てはしないと。

女が乳飲み子を忘れ、自分の産んだ子を哀れまないことがあろうか?まことに、たとえ女たちが忘れようとも、おお、イスラエルの家よ、わたしはあなたを忘れない。

見よ、わたしは、わたしの手のひらに彫り刻んだ。1ニーファイ21:15-16

私たちは、贖い主の側にいると信じているでしょうか?信仰を行使して、主が私たちを見ておられるように、自分を見つめることは出来るでしょうか?

キリストにとって、私たちの価値は計り知れません。キリストを愛し、信仰を持ち、彼のようになりたいと望むとき、主が私たちを変え、完全にし、そのもとへ連れて帰るのです。その時、キリストの持っているすべてを、私たちに与えて下さるでしょう。これ以外に望むことはあるでしょうか?

私たちへ向けるキリストの愛に勝るものはありません。主の愛を知り、私たちの生活に取り入れ、救い主を心から頼っていることに気付けるようにささやかですが祈り申し上げます。そうすれば、私たちの「自信は増すでしょう」(D&C121:45 )。その時、私たちは、心からありのままの自分に感謝をし、主が私たちに向ける慈しみに驚くことでしょう。そうして、私たちは、キリストからの驚くべき平安を、この世でも、知ることができます。その平安は私たちの理解を超えるものでしょう。(  D&C59:23 ピリピ4:7)。

イエス・キリストが生きておられることを知っています。私は救い主を愛し、敬愛しています。イエスは、実在するすべてのものの根源です。私たち一人一人が、神の目に尊い存在であることを知ってほしいと切望しています。これらのことをイエス・キリストの御名により証します。アーメン。

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必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。

バーバラ・デイ・ロックハート

ブリガムヤング大学の体育学部教授バーバラ・デイ・ロックハート(Barbara Day Lockhart)は、1992年5月12日にこのディボーショナルを行った。