ディボーショナル

「主の力を受けて」

ブリガムヤング大学アイダホ校大学長

2001年10月23日

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31:17
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皆さんもわたしも、人に能力を授ける贖罪の力について理解し、その力を自分の生活で用いるようになるとき、状況が変わるように祈るのではなく、状況を変える力を祈り求めるようになるでしょう。

必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。

兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。今日皆さんの前に立って話をすることは、わたしにとって祝福であり、すばらしい責任です。ここで話すようにというベイトマン長老の依頼に感謝しています。

今朝、マリオットセンターに入ると、わたしの心は素晴らしい思い出で溢れていました。わたしはこのアリーナに何度も何度も来ました。1970年、わたしはBYUの新入生で、その時にこの建物の建設工事が始まりました。1973年9月11日、あそこに座ってハロルド・B・リー大管長の教えと証を聞いたときのことを鮮明に覚えています。わたしはちょうどその3週間前に南ドイツでの伝道から帰還したばかりで、その日彼が提示したメッセージは「あなたの内なる貴人に忠実でありなさい」と題されたものでした。あの日感じたこと、聞いたこと、学んだことを決して忘れないことを願っています。彼の教えは28年間、わたしに良い影響を与えてきました。

1973年に、スペンサー・W・キンボール大管長が十二使徒定員会会長としてこの場で、永遠の結婚の大切さについて力強く、非常に率直なメッセージを伝えたとき、わたしはすぐそこに座っていたことを覚えています(「結婚は名誉あるもの」1973年9月30日)。また、そのファイヤサイドで一緒に出席した女性とわたしが、どれほど居心地が悪かったかも覚えています。それは初めてのデートでした。(気になっている人のために言っておくと、そのときわたしが一緒にファイヤサイドに出席した女性は、ベドナー姉妹ではありません。)そして、1977年に既婚の学生として、幼い息子を追いかけていたのを覚えています。2000年に同じ息子が学士号を取得してBYUを卒業したとき、わたしはそこに座っていました。この建物で、霊感を受けた指導者の話を聞き、偉大な教師から学んだことが何度もあったことを、とても懐かしく思い出します。

率直に言って、いつの日かわたしがこの説教壇に立って皆さんのようなグループと話すように招待されるとは思いもしませんでした。おそらく話すように頼まれることは二度と無いでしょう。それで、皆さんに伝えられる最も重要なメッセージは何か祈り、真剣に考えました。今日のわたしの目的は、イエス・キリストの贖罪 の力と人に能力を授ける力について説明し、話すことです。そして、人に能力を授ける贖罪の力を特に強調したいと思います。この神聖なテーマについて話すとき、聖霊がわたしと皆さんと共にいてくださるよう望み、招き、祈ります。

人生の旅

今日のわたしのメッセージの枠組みは、デビッド・O・マッケイ大管長の言葉です。救い主の福音の最も重要な目的を以下の言葉で要約しました。「福音の目的は‌…悪人を善人に、善人をより善い人にすることであり、人間性を変えることです。」(from the film Every Member a Missionary, as acknowledged by Franklin D. Richards, CR, October 1965, 136–37; see also Brigham Young, JD 8:130 [22 July 1860]).

つまり、人生の旅とは、悪人から善人へ、そしてより善い人へと成長すること、心に大きな変化を経験することであり、自分の堕落した性質を変えることなのです。

わたしたちが悪人から善人へ、そしてより善い人になる旅路を進み、心を変えようと努めるときに、ガイドブックとなってくれるのがモルモン書です。聖典をお持ちの方は、 モーサヤ3:19を開いてください。この節でベニヤミン王は、現世の旅について、またその旅を完遂するうえで贖罪が果たす役割について、次のように教えています。「生まれながらの人は神の敵であり、アダムの堕落以来そうであって、今後もそうである。また人は、聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒とな(ら)…ないかぎり、とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。」

ここで止まって、二つの言葉に注意を向けたいと思います。まず、「生まれながらの人を捨て〔る〕」です。マッケイ大管長が「福音の目的は‌…悪人を善人に」するためであると言ったのは、生まれながらの人を捨てるということを基本的に話していたと思います。さて、マッケイ大管長の言った「悪人」という言葉は、邪悪な、ひどい、恐ろしい、あるいは本質的に不道徳なことだけを暗示しているとは思いません。むしろ大管長は、悪人から善人になる旅とは、わたしたち一人一人の内にある生まれながらの人を捨てる過程を示唆していたと思います。現世では、だれもが肉による誘惑を受けます。わたしたちの肉体を形作っている元素自体が元来堕落した状態にあり、罪と腐敗と死の影響力を絶えず受けています。そして、この聖句に書いてあるように、「キリストの贖罪により」肉の欲望や誘惑に打ち勝つ能力を高めることができます。戒めに背き、間違いを犯すとき、イエス・キリストの贖罪が持つ贖いと清めの力によって、自分の弱点を乗り越えることができるのです。聖餐の象徴にあずかる準備として頻繁に讃美歌で歌うように,「尊き血流し命捨てて罪なき犠牲にて罪の世」を救うのです。(「高きに満ちたる」、賛美歌、第112号)

さて、モーサヤ3:19の次の行に注目してください。「聖徒とな(る)」この言葉は、マッケイ大管長が概説した人生の旅の継続と第二段階を説明していることを提案したいと思います。「福音の目的は‌…悪人を善人」にするため、つまり、生まれながらの人を捨てることです。「そして善人をより良くする」、つまり、さらに聖徒のようになることです。兄弟姉妹の皆さん、この旅の第2部、すなわち善人からより善い人になる過程については、わたしたちはあまり頻繁に学んだり教えたりしていませんし、十分に理解もしていないと思います。

今朝、わたしが最重要点を1つ強調するとしたら、それはこれでしょう ー 皆さんもわたしも、贖罪が持つ贖いの力のほうを、人に能力を授ける力よりもはるかによく知っているのではないでしょうか。確かに、イエス・キリストは地上に来てわたしたちのために死んでくださいました。そのことを知るのは大切ですし、それはキリストの教義の根本にかかわる基礎的な部分です。しかし同時に、主は贖罪を通し、そして聖霊の力により、わたしたちの内に生きて、わたしたちに導きだけでなく力を与えたいと望んでおられることも理解する必要があります。間違いを犯したとき、生活の中で罪の影響力に打ち勝つためには助けが必要なとき、救い主が代価を払い、主の贖いの力によってわたしたちが清くなれるようにしてくださった事を、ほとんどの教会員は知っていると思います。大半の人は、贖罪が罪人のためにあることを明確に理解しています。しかしわたしたちは、贖罪が聖徒のためにもあること、すなわち、従順で良心的でふさわしい人、また、より善い人になり、より忠実に仕えようと努力している善良な男女のためにもあることを十分に理解していないと思います。率直に言って、贖罪のこの能力を授ける力と強める力の側面については、わたしたちの多くは理解しているとは思いません。善人からより善い人になり、聖徒となる旅を、わたしたちは自分の力だけで歩まなければならないと思い違いをしているかもしれません。根性や意志の力、自制心だけによって、明らかに限界のある自分の能力に頼って進もうとしているのではないかと考えています。

兄弟姉妹の皆さん、救い主の福音は、単に生活の中で悪を遠ざけることではなく、本質的に、善を行い、善い人になることでもあります。そして贖罪は、わたしたちが悪に打ち勝ち、悪を避けると同時に、善を行い、善い人になる助けを与えてくれます。悪人から善人に、そしてより善い人になる旅、自分の性質そのものを変えるこの人生の旅の間じゅう、救い主の助けを受けることができるのです。

贖罪が持つ贖いの力と人に能力を授ける力が関連のない別個のものだと言っているのではありません。むしろ、贖罪のこれら二つの側面は結びついており、補い合っています。人生の旅のあらゆる段階において両方の力が働く必要があります。そして人生の旅に不可欠な二つの要素である、生まれながらの人を捨てることと聖徒となることの両方が贖罪の力によって成し遂げられるということを、わたしたち全員が認めるのは、永遠にわたり重要なことです。悪に打ち勝つことと善い人になることの両方が、贖罪の力によって成し遂げられるのです。個人の意志の力、決意や意欲、効果的な計画や目標設定は必要ですが、この現世の旅を最終的に成功のうちに終えるには十分ではありません。実に、わたしたちは「聖なるメシヤの功徳と憐れみと恵み」に頼るようにならなければいけません(2ニーファイ 2:8)。

恵みと人に能力を授ける贖罪の力

贖罪の、人に能力を授ける力についてさらに詳しく説明したいと思います。兄弟姉妹の皆さん、さっき読んだ第2ニーファイの節で恵みという言葉が使われていることに注目してください。『聖書辞典』(Bible Dictionary) によると、聖典では恵みという言葉がよく「人に能力を授ける力」という意味で用いられていることが分かります。恵みという言葉について、次のように書かれています。

「〔恵み〕という言葉は新約聖書に、特に使徒行伝に頻繁に出てくる。この言葉はおもに、人に助けと力を授ける天の手段を意味し、それはイエス・キリストのあふれる憐れみと愛を通して与えられる。

主イエスの恵みを通して、主の贖いの犠牲により人類は不死不滅によみがえることが可能になっており、すべての人が永遠に生きる状態で墓から肉体を受ける。」

次の文に注意してください。

「同様に、主の恵みを通して、人はイエス・キリストの贖罪を信じる信仰をもって自らの罪を悔い改めることにより、自分の力だけでは続けることのできない善い行いをする力と助けを受ける。この恵みは人に能力を授ける力であり、これによって男性も女性も、最善を尽くした後に永遠の命と昇栄を得ることができる。」

つまり、恵みは、わたしたち一人一人が日の栄えの王国にふさわしい者となるためにぜひとも必要な神からの支援であり、天からの助けです。こうして、贖罪が人に能力を授ける力は、善を行い、善い人になり、自分自身の望みや本来の能力を超えた働きができるようにわたしたちを強めてくれるのです。

わたしは個人の聖文研究の際に、恵みという言葉を見つけたら「人に能力を授ける力」と書き込むようにしています。例えば、わたしたち皆がよく知っている次の聖句について考えてみてください。「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、神の恵みによって救われることを知っている。」(2 Nephi 25:23)

この聖句をもう一度見てみましょう。「わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に、神の恵み〔キリストの贖罪の、能力を授ける力と強める力〕によって救われることを知っている。」

聖文に恵みという言葉を見つける度に「能力を授ける力と強さを授ける力」と書き込むことで、贖罪の重要な側面について多くのことが学べると信じています。

実例とその意味

マッケイ大管長が述べられたように、人生の旅は、悪人から善人に、そしてより善い人になり、自分の性質そのものを変える旅です。モルモン書には、弟子や預言者がそれぞれの旅で、贖罪が人に能力を授ける力について知り、理解し、その力によって変化を遂げた例がたくさん載っています。兄弟姉妹の皆さん、わたしたちがこの神聖な力をさらに理解すると、福音に対する視野は大いに広がり、深まります。こういう視野を得るとき、わたしたちは驚くような変化を遂げます。

ニーファイは、救い主が持っておられる、能力を授ける力について知り、理解し、その力に頼った人物の一人です。1ニーファイ7章で、リーハイの息子たちがエルサレムに戻り、イシマエルとその家族を約束の地に向かう旅の一行に招いたときのことを思い出してください。エルサレムから再び荒れ野に戻る旅の途中で、一緒に旅をしていたレーマンたちが背き、ニーファイは主を信じる信仰を持つように兄たちに勧めました。そして旅のこの時点で、兄たちはニーファイを縄で縛り、殺そうとします。17節にあるニーファイの祈りに注目してください。「おお、主よ、あなたを信じるわたしの信仰により、兄たちの手から救い出してください。まことに、わたしを縛っているこの縄を断ち切る力をお与えください。」

兄弟姉妹の皆さん、もしわたしが自分の兄弟たちに縛られていたとしたら、何を祈り求めていたでしょうか。わたしであれば、兄弟たちに何か悪いことが起こるように願い「兄弟の手からわたしを救い出してください」、言い換えれば、「この窮地から今すぐ救い出してください!」と言ったでしょう。特に興味深く思うのは、ニーファイがわたしみたいに状況を変えてくださいとは祈らなかったことです。それよりも、状況を変える力を祈り求めたのです。ニーファイがこのように祈ったのは、人に能力を授ける贖罪の力について知り、理解し、体験していたからにほかならないと、わたしは信じています。

ニーファイを縛っていた縄が魔法のように手首から落ちたわけではないと私個人は思います。そうではなく、ニーファイは祝福されて本来の能力を超えた粘り強さと身体的な強さの両方を授かり、「主の力を受けて」(モーサヤ9:17) 縄をねじったり、引っ張ったりしながら苦労した末に、文字どおり縄を断ち切ることができたのではないでしょうか。

兄弟姉妹の皆さん、この出来事がわたしたち一人一人に伝えていることは明快です。皆さんもわたしも、人に能力を授ける贖罪の力を理解し、その力を自分の生活で用いるようになるとき、状況が変わるように祈るのではなく、状況を変える力を祈り求めるようになるでしょう。受け身でいるのではなく、自ら選択し行動する者になるでしょう (2ニーファイ2:14)。

モーサヤ24章で、アルマとその民がアミュロンから迫害を受けたときの例について考えてみましょう。14節に記されているように、苦難の中にあるこの善人たちに主の声が聞こえて、次のようにおっしゃいました。「またわたしは、あなたがたの肩に負わされる荷を軽くし、…あなたがたの背にその荷が感じられないほどにしよう。」

もしわたしがアルマの民の一人であり、その特別な保証を受けていたら、「感謝します。急いでください」と答えたでしょう。しかし、15節で、主が重荷を軽くするために用いられた過程に注目してください。「そこで、アルマと彼の同胞に負わされた重荷は軽くなった。まことに、主は、彼らが容易に重荷に耐えられるように彼らを強くされた。そこで彼らは心楽しく忍耐して、主の御心にすべて従った。」

兄弟姉妹の皆さん、この出来事の中で、変わったのは何だったでしょうか。彼らが負っていた重荷は変わりませんでした。迫害に伴う問題や困難は、すぐには民から取り除かれませんでした。しかし、アルマと彼に従う人々は強められ、能力と強さが増したことで、負っていた重荷が軽くなったのです。「主の力を受け」、つまり贖罪の力によって力を授かり自ら行動し、その状況を変えました。その後、アルマとその民は安全なゼラヘムラの地に導かれました。

「ベドナー兄弟、どうしてアルマとその民の話が、能力を授ける贖罪の力の実例だと思うんですか?」と思ったとしても不思議ではありません。その答えはモーサヤ3:19とモーサヤ24:15を比べてみると見つかると思います。前に読み止まっていたモーサヤ3:19を再読しましょう。「主なるキリストの贖罪により、生まれながらの人を捨てて聖徒となり、子供のように従順で、柔和で、謙遜で、忍耐強く、愛にあふれた者となり、子供が父に従うように、主がその人に負わせるのがふさわしいとされるすべてのことに喜んで従〔う。〕」

現世の旅において悪人から善人へ、そしてより善い人へと成長するにつれて、それぞれの内にある生まれながらの人を捨てるにつれて、そして、聖徒となって自分の性質そのものを変えようと努めるにつれて、皆さんもわたしも次第にこの節で挙げられている特質を持った人物になっていくはずなのです。わたしたちはよりいっそう子供のように従順で、忍耐強く、喜んで従う者となるのです。では、モーサヤ書第3章19節に記されたこれらの特質を、モーサヤ24章15節の後半でアルマとその民について述べる際に挙げられた特質と比べてください。「そこで彼らは心楽しく忍耐して、主の御心にすべて従った。」

これらの節で述べられた特質は注目に値するものであり、主なるキリストの贖罪にある、能力を授ける力によって、アルマの善い民がより善い民になりつつあったことを示していることが分かります。

わたしたちは皆,アルマ 14章に記されているアルマとアミュレクの話をよく知っているはずです。この出来事において、多くの忠実な聖徒が焼き殺され、この二人の主の僕は投獄され、打たれていました。アルマが牢の中で祈ったときに述べた26節に記されている次の嘆願について考えてください。「おお、主よ、キリストを信じるわたしたちの信仰に応じて、自由になる力をわたしたちにお与えください。」

ここでもまた、贖罪が持つ人に能力を授ける力をアルマが理解し、信頼していたことが、アルマの嘆願から見て取れます。そして、26節の後半と28節で述べられているこの祈りの結果に注目してください。

「そして二人〔アルマとアミュレク〕は、自分たちを縛っていた縄を断ち切った。 人々はそれを見ると、滅ぼされるのではないかという恐怖に襲われ、逃げ始めた。‌…‌

そして、アルマとアミュレクは牢を出た。 二人はキリストを信じる彼らの信仰に応じて主から力を授けられていたので、傷も負っていなかった。」

ここでも再び、善人たちが「主の力を受けて」悪と戦い、より善い人になり、より効果的に仕えようと努めるときに、人に能力を授ける力がはっきりと表れています(モーサヤ9:17)。

モルモン書には、もう一つ有益な例が載っています。アルマ書第31章で、アルマは神の教えに背いているゾーラム人を改心させるために、伝道の業を進めています。この章では、ゾーラム人はラミアンプトムを設けて、尊大な祈りをささげていたことについて学ぶことを思い出してください。31節に述べられている、個人の祈りの中でアルマが力を求めて嘆願している箇所に注目してください。「おお、主よ、この民の罪悪のためにこれから先わたしに降りかかるこれらの苦難を、忍耐をもって乗り切ることができるように、どうか力を得させてください。」

33節でアルマはまた、同僚の宣教師も同様の祝福を得られるように祈っています。「民の罪悪のために彼らに降りかかる苦難に耐えることができるように、どうか彼らに力を得させてください。」

ここでも、アルマは自分の苦難が取り除かれるようにとは祈りませんでした。自分が主の代理人であることを知っていたので、行動する力、状況に影響を及ぼす力を祈り求めたのです。

この例で最も重要な点が最後の節、アルマ 31:38に記されています。「また主は、彼らに力を与え、キリストの喜びにのまれてしまう苦難のほか、彼らがどのような苦難も受けることがないようにされた。これはアルマの祈りによるものであった。 彼が信仰をもって祈ったので、このようになったのである。」

苦痛は取り除かれませんでした。しかしアルマと彼の同僚たちは、贖罪が持つ、能力を授ける力によって強められ、「キリストの喜びにのまれてしまう苦難のほか、彼らがどのような苦難も受けることがないように」祝福されました。何と驚くべき祝福でしょう。そしてわたしたち一人一人が学ぶべき何という教訓でしょう。

人に能力を授ける力の例は、聖典にしか見い出せないわけではありません。ダニエル・W・ジョーンズは1830年にミズーリ州で生まれ、1851年にカリフォルニア州で教会に加わりました。1856年、激しい吹雪のためにワイオミング州で立ち往生していた手車隊の救助にダニエルは参加しました。救助隊は苦しむ聖徒たちを見つけ、その場ですぐに提供できる慰めを与え、病人や弱っている人をソルトレーク・シティーに運ぶ手はずを整えました。その後、ダニエルと数人の若者は手車隊の持ち物を守るために、そこに残ることを志願しました。ダニエルたちに残された食料や物資はわずかで、すぐに尽きてしまいました。ダニエルの日記から、その後の出来事が述べられている箇所を引用します。

「すぐに動物がほとんどいなくなり、何も仕留めることができなくなった。わずかな肉をすべて食べたが、食べている最中に空腹になる。とうとうすべて食べ尽くし、残るは皮だけとなった。そこで皮を試してみた。たくさんの皮を何の味付けもせず煮て食べたが、隊の全員が吐き気に襲われた。多くの人がそれを考えるだけで吐き気がした。‌…‌

絶望的な状況に思われた。餓死した家畜の粗末な生皮のほかは何も残っていなかったのだ。わたしたちはどうするべきか主に導きを求めた。兄弟たちは不平を言うことなく、神に頼るべきだと感じていた。わたしたちは皮を調理し、毛が柔らかくなるまで浸してこすり落とした後、全てを食べた。とうとうわたしはどのように皮を調理するべきかについて導きを受け、隊の人たちに助言し、調理方法を伝えた。まずあぶって毛をこすり落とす。こうすることで、熱湯処理により嫌な味が生じるのを防げる。こすった後、たっぷりの湯で1時間煮て、粘りけがすべて溶け出したところで湯を捨てる。次に、皮を洗い、冷水で洗いながらしっかりとこする。その後、ゼリー状になるまで煮て、冷まし、砂糖を少し振って食べる。かなり手間のかかる方法だったが、ほかにほとんどなす術がなく、餓死するよりはよかった。」(Daniel W. Jones, Forty Years Among the Indians [Salt Lake City: Juvenile Instructor Office, 1890], 81).

わたしがこれまでに読んだのは、次の行をより理解するためです。これは、能力を授ける贖罪の力について、繁栄と安楽のうちに生きる私たちがすぐには理解しないことを、開拓者の聖徒たちは理解していたことを示しています。「わたしたちは主が自分たちの胃を祝福し、この食物を消化できるようにしてくださるよう願い求めた。」(Jones, Forty Years, 81; emphasis added).愛する兄弟姉妹の皆さん、わたしがそのような状況にいたら何を祈っていたか知っています。恐らく何か別の食べ物を祈り求めたでしょう。「天のお父様、どうかウズラかバッファローをお送りください」と。自分の胃が強められ、手もとにある食べ物を消化できるようにと祈ることは決して思いつかなかったでしょう。ダニエル・W・ジョーンズは何を知っていたのでしょうか。イエス・キリストの贖罪が持つ人に能力を授ける力です。ダニエルは状況が変わるようにとは祈りませんでした。状況に対処するために、強められるよう祈ったのです。ニーファイ、アミュレク、そしてアルマとその民が強められたように、ダニエル・W・ジョーンズは、そのとき何を祈り求めるべきかを知るだけの霊的な洞察力を持っていたのです。「わたしたちは生皮を祝福するように頼む信仰を持っていなかった。今や皆がこのごちそうを楽しんでいるようだった。この2度目の試みがなされるまで、わたしたちは3日間何も食べていなかった。約6週間にわたってこのぜいたくな食事を楽しんだ。」 (Jones, Forty Years, 81–82).

キリストの贖罪が持つ、人に能力を授ける力は、自分の力だけでは決して成し得ないことを行えるようにわたしたちを強めてくれます。現代の人々は電子レンジや携帯電話、エアコン付きの自動車、快適な家のある安楽な生活をしています。そのような末日の世にあってわたしたちは、人に能力を授ける贖罪の力に、自分が日々依存していると認めるようになることが果たしてあるのかと思うことがあります。

人に能力を授ける力についてわたしが学んだ最大の教訓は、我が家における妻の静かな模範からです。わたしはベドナー姉妹が3度の妊娠期間中ずっと、絶え間ないひどいつわりに耐え抜く姿を見てきました。ほんとうに8か月間、毎日一日中具合が悪いのです。その試練が取り除かれることはありませんでした。妻が強められるようわたしたちは一緒に祈りました。そしてベドナー姉妹は自分自身の力ではできないことを行う身体的な力を授かりました。彼女は驚くほど有能な女性であり、また、末日聖徒の女性が預言者の勧告を心に留めて家族や子育てを最優先するとき、世の中からあざけりやそしりを受けることがありますが、妻がそうしたことに対処する強さを授かる様子を、わたしは長年にわたって見てきました。現代では、シオンにいる義にかなった女性と母親は、神権の支援と、人に能力を授ける贖罪の力の両方を必要とします。そのようなかけがえのない教訓を学べるように助けてくれたスーザンに感謝し、敬意を表します。

アルマ書第7章11節から、救い主がどのようにして、またなぜ人に能力をお授けになれるのかについて学ぶことができます。「そして神の御子は、あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。これは、神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉が成就するためである。」

救い主はわたしたちの罪悪のためだけでなく、わたしたちを悩ます不平等や不公平、苦痛、苦悶、情緒的な苦悩のためにも苦しまれました。12節ではさらに詳しく説明されています。

「また神の御子は、御自分の民を束縛している死の縄目を解くために、御自身に死を受けられる。また神の御子は、肉において御自分の心が憐れみで満たされるように、また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知ることができるように、彼らの弱さを御自分に受けられる。」

皆さんやわたしが現世の旅で経験する肉体的な痛み、心痛、精神的な苦しみ、病や弱さのうち、既に救い主が経験なさらなかったものは一つもありません。皆さんもわたしも、自分の弱さに悩むとき、「だれも理解してくれない。だれにも分からない」と声を上げることがあるかもしれません。分かる人間は恐らくいないでしょう。しかし、神の御子はすべてを御存じであり、完全に理解しておられます。わたしたちが経験するより先に、わたしたちの苦しみを味わい、重荷を負われたからです。そして主は究極の代価を払いその重荷を負われたので、わたしたちの人生の様々な局面で、わたしたちの気持ちを完全に理解し、憐れみの腕を伸べることがおできになるのです。主は手を差し伸べ、心に触れ、助けることがおできになり、文字どおりわたしたちに駆け寄って、自分では決して得られないほどの強さを与え、自分自身の力だけに頼ったのでは決して成し得ないことを行えるように助けてくださるのです。

恐らく今、わたしたちはマタイ11:28-30の教訓をより完全に理解し、感謝することができるでしょう。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

わたしは主イエス・キリストが捧げてくださった無限で永遠の犠牲について感謝を表します。贖罪は、悪いことをして善良になろうと努力している人のためだけではありません。それは、より良くなろうとし、忠実に奉仕しようと努め、継続的に力強い心の変化を切望している善良な人々のためでもあるのです。確かに、「主の力を受けて」(モーサヤ 9:17) わたしたちはすべてのことを成し遂げ、すべてのことに打ち勝てるのです。

兄弟姉妹の皆さん、救い主が生きておられることをわたしは知っています。これまでに主の贖いの力と人に能力を授ける力の両方を身に受けてきました。これらの力が実在し、わたしたち一人一人が受けられるものであることを証します。主がこの教会の諸事を導いておられることを知っています。わたしは、使徒と預言者が主イエス・キリストを代表し、また主イエス・キリストのために権威を持って行動することを知っています。わたしはこれらのことが真実であると知っており、イエス・キリストの御名により証します、アーメン。

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デビッド・A・ベドナー

デビッド・A・ベドナーは、2001年10月23日、ブリガム・ヤング大学でこのディボシャナル講演をした時、BYUアイダホ校の大学長でした。