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ディボーショナル

100%の責任を負う

中央幹部七十人定員会会長会

2017年8月22日

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選択の自由と責任は、切り離せない関係にあります。そして、責任逃れをすれば、選択の自由を失うでしょう。慈悲と正義も切り離せません。主の憐れみを拒まずに、主の正義を否定することはできません。


必要に応じて翻訳を修正します。何かご提案があれば、speeches.jpn@byu.eduにご連絡ください。

兄弟姉妹の皆さん、2017年BYUキャンパス教育週間の開会部会で皆さんとともに集えることに感謝しています。今年のテーマは教義と聖約50:24から引用しており、特に次の言葉に重点が置かれています。「光を受け、神のうちにいつもいる者は、さらに光を受ける。」

このテーマについて、期待しているものとは違った着眼点かもしれませんが、「邪悪な者」が人々の進歩や、より多くの光を受けることを妨げるという、非常に狡猾で効果的な方法を明らかにし、説明するという形で話していきます。(教義と聖約93:39)。

多くの福音の原則には、対になるものがあります。つまり一方は他方なしでは不完全であるということです。今日はこれらの教義の対になるもののうち3つを紹介したいと思います。

  • 選択の自由と責任
  • 憐れみと正義
  • 信仰と行い

サタンが教義の対になるものを切り離すことに成功すると、彼は人類に大混乱をもたらし始めます。それは人々が光の中で成長するのを防ぐための、彼が取る最も狡猾な戦略の1つです。

行いの伴わない信仰は真の信仰ではないことを、皆さんはすでに知っていると思います。(ヤコブの手紙2:17参照)。そのため、他の2つの対をなす教義について焦点を当てたいと思います。第一に、責任を避けることが選択の自由にどのように影響するか説明します。第二にモルモン書で言及されているように、「正義を否定する」(アルマ書42:30参照)ことが憐れみにどのような影響を与えるかを説明したいと思います。

モルモン書は、私たちは「行動することができ、強いられることはないのである」(ニーファイ第二書2:26)あるいは「自分の思うとおりに行動する」(ニーファイ第二書10:23)ものであると教えています。この選択の自由は、部分的な選択の自由ではなく、完全かつ100パーセントの選択の自由という賜物です。それは、唯一の完全な親が決して子供たちに強要しないという意味で、絶対的なものでした。主は私たちに道を示し、命じることもあるかもしれませんが、「それでも、あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。」と言われています。(モーセ書3:17)

責任を引き受け、自分の選択に責任を負うことは、選択の自由の補完的な原則です(教義と聖約101:78参照)。責任とは、自分自身が選択の結果や影響(良いものであれ、悪いものであれ)の原因であることを認識することです。否定的な面としては、自分の粗末な選択の結果を常に受け入れるということです。

幼い子供や知的障害者など罪のない人を除いて、福音の教義は、一人ひとりが選択の自由を行使する責任があり、「自分の罪のゆえに罰せられる」と教えています(信仰箇条1:2)。1 それは単なる天の原則だけではなく、自然の法則でもあります。撒いたものは、自分で刈り取るのです。

したがって、論理的には、完全な選択の自由には、完全な責任が伴います。

「覚えておきなさい。 わたしの同胞よ、覚えておきなさい。滅びる者は自分で滅び、罪悪を行う者は自分でそれを行うのである。なぜなら、見よ、あなたがたは自由であり、あなたがたは随意に行動することを許されているからである。見よ、神はあなたがたに知識を与えて、あなたがたを自由にしてくださったからである。」(ヒラマン書14:30

コリホルの原則 責任から選択の自由を切り離す

サタンが私たちの選択の自由を支配する力を増す狡猾な作戦の一つは、選択の自由に対する正面からの攻撃ではなく、責任を負う事に対して卑劣な裏口攻撃をすることです。責任がなければ、神からのすべての祝福は、すべてサタンの邪悪な目的に悪用される可能性があります。例えば、責任を伴わない言論の自由は、ポルノグラフィーの制作と保護に利用することができます。女性の権利は、不必要な堕胎を正当化するために捻じ曲げられる可能性があります。世界が選択を責任から切り離す時、それは無秩序な状態となり、意思のぶつかり合い、あるいは適者生存状態につながります。アルマ書に「自分の力に応じて勝利を得ること、また人がすることはどんなことも決して罪にならないことを民に告げた。」(アルマ書30:17)とあるように、責任の伴わない選択の自由は、コリホルの原則と呼ぶことができます。否定的な結果を排除することで、現在はまるで選択の結果を清算する日は存在せず、自由奔放に行動できるかのようです。

ニーホルの原則 正義を否定する

サタンが選択の自由を責任から完全に切り離すことに成功しない場合、次なる手段の一つは責任感を鈍らせたり、最小限に抑えたりすることです。これはアルマ書にあるニーホルの原則と呼ぶことができます。ニーホルは「全人類は終わりの日に救われるので、人は恐れる必要もおののく必要もない、主がすべての人を造られ、すでにすべての人を贖っておられ、結局すべての人が永遠の命を得るからである」と公言しました(アルマ書1:4)。

邪悪のうちに幸福を求める人々にとって、何と魅力的な提案でしょう。ニーホルの原則は憐れみに完全に依存しており、正義を否定し、先に述べた二つの教義の対となるものから引き離してしまいます。正義を否定するとは、責任を逃れることと表裏一体です。それらは本質的に同じものです。モルモン書の反キリストそれぞれに共通する戦略は、選択の自由と責任を切り離すことでした。「飲み食いし、楽しみなさい。しかし同時に神を畏れなさい。 神は少しの罪を犯すことは許してくださる。」(ニーファイ第二書28:8)。

行いの伴わない信仰、正義のない憐れみ、責任のない選択の自由はすべて、魅惑的であり、呪われた歌の異なる一小節のようです。いずれの場合も、生まれながらの人は自分の良心の呵責を鎮めようとして、責任を拒みます。これは16世紀初頭に行われた免罪符の代金を支払う習慣に似ていますが、より簡単です。何故ならそれが無料だからです!2  広い道がこれほど多くの人々で混雑するのも不思議ではありません。その道は罪のない救いへの旅のように見せかけますが、実際には巧妙に偽装された破滅への回り道なのです。(ニーファイ第三書14:13参照)。

責任を伴わない選択の自由は、反キリストの教義の一つであり、その性質は非常に狡猾であり、その結果は非常に破壊的です。

無責任リスト

これを説明するために、サタンが責任逃れさせるために人々の言動を誘惑するリストを分かち合いたいと思います。このリストはすべてを網羅している訳ではありませんが、彼の最も一般的な戦術は網羅できていると思います。

1. 他人のせいにする: サウルは主の指示に従わず、アマレク人から戦利品を奪い、サムエルに非難された時には、民を責めました。(サムエル記上15:21参照)。

2. 合理化または正当化: その後、サウルは自分の不従順を正当化し、助かった家畜は「主にささげるため」であると述べました(サムエル記上15:21;22節も参照)。

3. 言い訳をする: 言い訳は千差万別です。例えば、レーマンとレムエルの次のようなものです。「主がどのようにして、ラバンを我々の手に渡すことができるというのか。見よ、ラバンは力のある人で、五十人を指揮することができるし、まことに、五十人を殺すことさえできる。それならば、どうして我々を殺せないわけがあろうか。」(ニーファイ第一書3:31)

4. 罪を軽視する: これは、まさにニーホルが提唱したことです(アルマ書1:3-4参照)。

5. 隠す: これは一般的な回避手段です。これはアダムとエバが禁断の実を食べた後、サタンが彼らに対して用いた策略です(モーセ書4:14参照)。

6. 隠蔽: 隠すことと密接に関連しているのは隠蔽であり、ダビデはバテシバとの不倫を隠すために、それを試みました(サムエル記下12:9、12参照)。

7. 責任から逃れる: これはヨナが試みたことです(ヨナ書1:3参照)。

8. 責任の放棄: 逃げることと似たような行為は、責任を放棄することです。その一例が、コリアントンが神の道を説く務めを放棄し、娼婦イザベルを追って行ったことです(アルマ書39:3参照)。

9. 否定または嘘をつく: 「サウルは言った、わたしは主の言葉を実行しました。サムエルは言った、「それならば、わたしの耳にはいる、この羊の声…は、いったい、なんですか。」(サムエル記上15:13-14参照)。

10. 背くこと: サムエルはそれからサウルを「背くこと」で叱責しました。「あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」(サムエル記上15:23参照)。

11. 愚痴とつぶやき:背く人も不平を言い、つぶやきます。「またイスラエルの人々はみなモーセ…に対してつぶやき、…言った、ああ、わたしたちはエジプトの国で死んでいたらよかったのに。」(民数記14:2参照)。

12. あら探しをし、腹を立てる: この二つは、ニーファイが述べているように、密接に関連しています。「さて、レーマンはわたしと父に腹を立てた。 またレムエルも、レーマンの言葉に聞き従ったのでともに腹を立てた。」(ニーファイ第一書3:28参照)。

13. 要求と権利の主張: 「我々は弟に支配されたくない。そしてレーマンとレムエルは、わたしを捕らえて縄で縛り、情け容赦なくわたしを扱った。」(ニーファイ第一書18:10-11参照)。

14. 疑う、希望を失う、諦め、そしてやめる: 「弟は愚か者だ…彼らは、わたしに船が造れることを信じようと…しなかったからである。」(ニーファイ第一書17:17-18参照)。

15. 自己憐憫と被害者意識に浸る: 「見よ、我々は、長年の間荒れ野で苦しんできたが、その間に自分たちの財産や受け継ぎの地を欲しいままにして、幸せに暮らせたかもしれない。」(ニーファイ第一書17:21参照)。

16. 優柔不断である、あるいは精神的に茫然自失である: 優柔不断の皮肉な点は、時間内に決断しなければ、代わりに時間が決断してくれるということです。

17. 先延ばし: 優柔不断と双璧をなすのが先延ばしです。「しかし見よ、あなたがたの試しの時代は過ぎ去った。あなたがたは救いの日を延ばし、永遠に手遅れになってしまったのです。」(ヒラマン書13:38参照)。

18. 恐れに支配されることを許す: これは隠すことにも関連しています。「そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ』」(マタイによる福音書25:25-26参照)。

19.容認する: 他の人が責任逃れをするために助けたり、容認したりする例は、エリが自分の息子たちが犯した重大な罪について叱責しなかったこと、そして主によってとがめられたときのことです。「それにどうしてあなたがたは、わたしが命じた犠牲と供え物をむさぼり…私よりも自分の子らを尊〔ぶのか〕?」(サムエル記上2:29;22-36節も参照)。

レーマンとレムエルを念頭に入れながら、このリストを考えてみると、彼らはリストにあるほぼ全ての罪を犯していたことが分かります。このリストがレーマンとレムエルを滅ぼしたのです。これは非常に危険なリストです。

ニーファイ第一書と第二書を読むと、リーハイの家族が家を出て、真鍮の版を手に入れ、荒れ野で8年間野宿し、大きな船を造ることが、どれほど困難であったかを想像することしかできません。リーハイの家族が直面した責任は、確かに骨の折れるものでした。しかし、責任がどんなに難しいものであろうとも、レーマンとレムエルの例で明らかに示されているように「困難は歴史が決して受け入れない言い訳です」3

困難な状況は、人々が進んで行う心(教義と聖約64:34参照)と、疑いの心(教義と聖約58:29参照)のどちらかで行動するかを見極めるための信仰の試しなのです。困難な状況はその人の人格を明らかにし、ニーファイのようにその人格を強めるのか、あるいは無責任であることの意味を体現したレーマンとレムエルのように、弱めて堕落させるかのどちらかです(アルマ書62:41参照)。

言い訳は結果を伴わない

言い訳は決して結果を伴わないと認識することは、とても大切です。レーマンとレムエルの場合、言い訳の限りを尽くしても真鍮の版を手に入れることはできませんでした。ニーファイが真鍮の版を手にしたのは、レーマンとレムエルとは違って無責任リストにある事柄を行わなかったからです。彼はチャンピオンであり、そしてチャンピオンは決して無責任リストに目を向けないのです。十二使徒定員会のデビッド・B・ヘイト長老が述べたように、「決心した人は道を見いだします。他の人は言い訳を見つけます。」4

無責任リストがこれほど危険であるにもかかわらず、なぜ非常に多くの人々が頻繁にこのリストに目を向けてしまうのでしょうか?生まれながらの人は本質的に無責任であるため、恥、ストレスや不安、間違いや罪の痛み等のネガティブな結果を避けるための防衛手段として、無責任リストを参考にします。彼らは罪悪感を取り除くために悔い改めるのではなく、言い訳で罪悪感を鎮めるのです。それは生まれながらの人に、自分の環境や他の誰かが悪い、だから自分が悔い改める必要はないという誤った感覚を与えてしまうのです。

無責任リストは、進歩を阻止するため、不信仰リストとも呼ばれます。サタンが責任を避けるように誘惑すると、その人はもはやコントロールすることも、「作用する」こともできないため、選択の自由を微妙に放棄します。代わりに、彼らは作用されている者となり、サタンは巧妙に彼らの人生を支配し始めます。

言い訳と理由付けの違い

重要なことは、ニーファイと彼の兄弟たちが、最初の2回は真鍮の版を手に入れることが出来なかったように、成功を掴む中で失敗を経験することを覚えておくことです。しかし、勇敢な人々は自分の過ちと罪の責任を受け入れます。彼らは悔い改め、立ち直り、信仰をもって前進し続けます。成功できなかった理由を述べるかもしれませんが、言い訳はしません。

一見すると、アダムが「あなたが私に与えてくださった女」と言ったとき、エバを非難していたように見えるかもしれません。しかし、アダムがその後「私は食べました」と付け加えたとき、私たちは彼が行動の責任を取り、エバを非難するのではなく説明をしていたとも理解することができます。エバも「わたしは食べました」と言いました(モーセ書4:18-19;17-205:10-11参照)。

責任を取ることの力と報酬

責任から逃げることは自分を裏切る行為です。自分自身を、時には他人を見限ることです。次の話がたとえあなたが正しいとしても、責任から逃げることがいかに逆効果であるか理解していただけると幸いです。

ストーリー1: 配送センターにおける100%の責任

1983年、数人のパートナーと私は新しい会社を設立し、時間管理セミナーの講師や手帳の制作・販売を行っていました。

企業向けセミナーでは、コンサルタントをクライアントに派遣し、研修施設で教えてもらいました。セミナーに先立ち、配送センターの2人の従業員が、デイプランナー、バインダー、帳票類等の研修資料が詰まった箱を数箱準備して発送する手筈でした。また、引用や、メモ用紙、グラフ、イラストを載せた約100ページの参加者向けセミナーガイドブックも含まれていました。

配送センターの2人の従業員は通常、セミナーの10日前にセミナーに必要な荷物を送ります。毎月約250ものセミナーを開いていた時に事件が起こりました。セミナーの資料が非常に多いため、この2人の従業員は十分な数を発送しなかったり、資料を同封しなかったり、時間どおりに発送しなかったりするなどのミスをすることがよくありました。これはコンサルタントにとって苛立たしく、しばしば恥をかかせるものになりました。

こういった問題が起こると、セミナー部門は配送センターの責任者でもあった私に苦情を申し立てました。私がこの2人の従業員らと彼らのミスとシステム改善を求めたとき、彼らは自分のミスの責任を認めようとしませんでした。彼らは他人を責め、「それは私たちのせいではありません。私たちはリクエストフォームの通りに発送しました。セミナー部門が間違った備品申請フォームを送ってきたのであって、私たちを責めないでください!」と言い訳したり、「時間通りに出荷したが、運送会社が遅れて配達しました。私たちのせいではありません!」等と言い訳していました。他にも「資料作りの下請け会社が個々のセミナーキットを間違って梱包し、渡してきました。私たちは渡されたとおりに発送しただけです。それは彼らの責任です。」等と言っていました。この2人の従業員は自分のミスの責任を負わなかったため、ミスは続きました。

そして、重大な事件が起きました。ある大手多国籍企業の研修ディレクターが私たちのセミナーに出席し、そのセミナーにとても感銘ので、50人ほどの会社役員にパイロットセミナーを教えるよう招待しました。セミナー当日、コンサルタントが到着し、資料の箱を開けると、セミナーガイドブックがないことに気づきました。セミナーガイドブックがなければ、参加者はどうやってメモを取るでしょうか? 大手企業のトレーニングディレクターはパニックに陥りました。私たちコンサルタントは、各参加者が一日メモを取るための紙を配布することで最善を尽くし、ガイドブックがなくてもセミナーはかなりうまくいきました。

非常に恥をかき、怒った彼らのトレーニングディレクターは、私たちのセミナー部門に電話して、「二度とここで教えることはない!うちのパイロットセミナーで、よくもまあこんな恥ずかしい、許しがたいミスをしたものだ!」と言いました。

憤慨したセミナー部門の上級副社長がわたしに電話をかけ、「もう我慢できない。配送センターのミスで、100万ドルの取引を失う寸前だ。これ以上のミスは許さない!」

経営者の一人として、わたしもそのようなミスを許せませんでした。同時に、これらの2人の従業員を解雇したくありませんでした。解決策を考えた結果、これらの2人がより注意深く行動させるために、インセンティブ制度を導入することに決めました。セミナー資料を1回正しく発送する度に1ドル、または毎月250ドル追加します。作業の質の向上に励んでもらうには十分でしょう。1つのミスを犯したとしても、1ドルの処罰は、それほど大きな損失ではありません。そこで、一度もミスがなければ100ドルのボーナスを2回与えることに決めました。しかし最初にミスをしたら、1ドルを失うだけでなく、100ドルのボーナスを失います。2回目のミスをした場合、2回目の100ドルのボーナスを失います。

また、わたしはこれらの従業員に「ミスがあれば、そのミスの原因が何であろうとボーナスを失います。あなたたちはその発送に対して100%の責任を負います。」と伝えました。

「それは不公平です。」と彼らは答えました。「セミナー部門が発送品目リストに誤記入し、私たちがそれを知らないうち発送した場合はどうなりますか?」と彼らが聞くと、「あなたたちはボーナスを失います。その出荷が成功するかどうかは、100%あなたの責任です。」と伝えました。

「それは不公平です。 私たちが時間通りに荷物を送ったのに、運送会社が遅れて配達した場合はどうなりますか?」

「ボーナスは失われます。あなたたちは100%の責任を負うからです。」

「それは不公平です。資料作成部門がセミナー資料のパッキングでミスした場合はどうなりますか?彼らのミスを私たちのせいにはできないでしょう!」

「ボーナスは失われます。」と私はもう一度答えました。その出荷が成功するかどうかは、100%あなたの責任です。分かりますか?」

「それは不公平です!」

「まあ、それは公平ではないように見えるかもしれませんが、それが人生です。ボーナスは失われます。」

私が実践したのは、彼らにとっての選択肢から無責任リストをなくすことでした。たとえ自分が正しく、それが誰かのせいであったとしても、他人のせいにしたり、言い訳をしたり、間違いを正当化することができないと、彼らは今ようやく理解したのです!

次に起こったことは、実に興味深いものでした。セミナー部門から注文を受けると、セミナー部門に電話して、フォームを項目ごとに確認しました。彼らは、セミナー部門のミスを修正する責任を負いました。運送会社の書類を読み始め、正しい配達日が入力されていることを確認しました。段ボールの輸送箱に「7つのうちの1つ」、「7つのうちの2つ」などのマークを付け始め、各箱の中身は箱の外側に書かれていました。彼らは以前のルーティンよりも3〜4日早く貨物を送り始めました。セミナーの数日前、彼らはクライアント企業に電話して、荷物の受領と内容を確認しました。どういうわけか資料を発送し忘れた場合、彼らは不足分を速達で送れるように、3、4日余裕を持つようにしました。ようやくミスが無くなり、従業員は毎月ボーナスを獲得し始めました。100パーセントの責任を負うことでもたらされる力やマネジメント方法、そして報酬を身をもって学んだことは、彼らにとって人生を大きく変える経験となりました。

この2人の従業員が学んだことは、誰かのせいにすることは、出荷成功の主導権をセミナー部門や運送会社といった他人に明け渡しているということでした。言い訳は、自分の人生をコントロールすることを妨げると学びました。人を責めたり、言い訳をしたり、間違いを正当化したりすることは自滅的な行いであると学びました。たとえ自分が正しいとしてもです。こうした自滅的なことをすると、あなたが人生で求めているポジティブな結果をコントロールできなくなってしまうのです。

ストーリー2: 「自分の高慢さよりも、結婚生活を優先する」

ある若い妻の経験から引用したいと思います。

他の夫婦と同じように、夫と私は結婚生活の中で意見の相違がありました。その中で心に残る出来事が一つあります。意見の相違の原因はもう覚えていませんが、結局のところ、全く話さなくなり、全て夫のせいだと感じたのを覚えています。私が謝らないといけないようなことは、全くもって何もしていないと感じました。

日が経つにつれ、夫が謝るのを待ちました。きっと彼は、自分がどれだけ間違っていたか分かっている筈です。彼が私の心をどれだけ傷つけたかは明らかです。私は自分のために立ち上がらなければならないと感じました。重要なのは原則に従うことでした。

その日が終わりに近づくにつれて、私は待っていることが無駄だとに気づいたので、夫が自分のしたことを理解し、それがいかに私たちの結婚生活を傷つけているかを理解してくれるよう、主に祈りました。夫が謝罪する気持ちになり、私たちの不和を終わらせることができるようにと祈ったのです。

祈っているうちに、夫のところに行って謝るべきだという強い印象を感じました。私はこの印象に少しショックを受けました。すぐに私は、何も悪いことをしていないので、謝る必要はないと指摘しました。すると、ある思いが強く心に思い浮かびました。「あなたは正しくありたいのか、それとも結婚したままでいたいのか?」

この質問について考えているうちに、高慢な状態を貫いたまま、彼が謝るまで屈しないこともできると気付きました。しかし、それにはどれくらいの時間がかかるのでしょうか?お互いに口をきかない間、私は惨めでした。この事件そのものが私たちの結婚生活の終わらせることにはならないが、もし私がいつまでも強情であれば、何年にもわたって深刻なダメージを与えるかもしれないと思いました。私は、後で些細なことに思えることで意地を張るよりも、幸せで愛のある結婚生活を送ることの方がはるかに大切だと思いました。

夫のところへ行き、夫を怒らせたことを謝罪しました。彼も謝罪し、すぐに私たちは幸せになり、再び愛で結ばれました。

それ以来、私は再び自問自答を繰り返す必要がありました。「あなたは正しくありたいのか、それとも結婚したままでいたいのか?」という質問に初めて直面したときに学んだ素晴らしい教訓に、どれほど感謝していることでしょうか。それは常に視点を見直し、私の意地よりも夫との結婚生活を優先するのに役立ちました。5

この話の中で、この姉妹は、たとえ自分が正しかったとしても、それが夫のせいであったとしても、夫を責めることは逆効果であり、前向きな結果をコントロールできなくなることを学びました。姉妹はまた、「ごめんなさい」という表現が、単に言い訳をするためではなく、偽りのない愛と共感を込めて使われるとき、力と前向きな結果をコントロールするチャンスをもたらすと知りました。

結婚生活では、双方が50%ずつ良い態度だと論理的に見えるかもしれませんが、双方の態度が100%ずつ良い態度である時にこそ、無責任リストへの扉は閉ざされます。この姉妹が学んだ最後の教訓は、他人の選択の自由をコントロールすることはできないということです。コントロールできるのは自分の選択の自由だけです。

ある愛情深い母親は、結婚生活に不満を抱いていた娘に、次のような賢明な助言をしました。娘に紙の真ん中に縦線を引かせ、左側に夫の嫌なところをすべて書かせました。そして、右側にそれぞれの夫の行為に対する反応を書かせました。その後、母親は紙を半分に切って、2つのリストのリストにしました。

「さあ、夫の過ちを書いた紙をゴミ箱に捨てなさい。結婚生活をよりよいものにし、幸せになりたければ、夫の欠点に目を向けるのをやめ、自分の行動に目を向けなさい。嫌なことへの反応の仕方を見直して、もっと前向きな対応ができないか考えなさい。」

この母親は100%の責任を果たすことでもたらされる、力と知恵をよく理解していました。

最も偉大な者

もちろん、救い主は世界の歴史上、最も責任あるお方でした。彼は最も偉大な模範です。耐え難い苦痛と苦悩の瞬間でさえ、無責任リストの一つである自己憐憫を全く示しませんでした。イエスは無私の心と気遣いによって、常に他の人をいたわりました。ゲッセマネでは兵士の耳を癒し、後に十字架上では、ご自分の戒めを果たすため、自分を憎む人々のために祈りました。

私たちがイエス・キリストようになればなるほど、不当に人を捌いたり、誰かを見限ったり、価値ある大義を諦めることは少なくなります。たとえ私たちが自分を見限ることがあっても、救い主は決して私たちを見捨てられません。なぜなら、救い主は完全に寛容な御方だからです。「彼らが罪を犯したにもかかわらず、わたしの心は、彼らに対する哀れみに満たされている」(教義と聖約101:9参照)。

イエス・キリストは、あら探しをしたり、批判したり、責めたりするために来られたのではありません。イエスは築き上げ、教化し、救うために来られました(ルカによる福音書9:56参照)。しかし、神の憐れみは、私たちが全責任を持ち、罪をごまかそうとしたり、正当化して、イエスの期待を無効とするものではありません。「主であるわたしは、罪を少しも顧みることができないからである」(教義と聖約1:31;アルマ書45:16も参照)。もし主が罪を少しも大目に見ることができないのなら、福音のどの律法が罪に対する完全な責任を要求するのでしょうか。

それは正義の律法です。「そもそも、あなたは憐れみが正義から奪えると思うのか。いや、少しも奪えない、とわたしは言おう。もし奪えるようであれば、神は神でなくなる」(アルマ書42:25、24節も参照)。「少しも~」という言い方は、神はご自分の子どもたちに選択の自由の100%の責任を負わせることを示す別の言い方です。無責任リストの危険性は、その犠牲者を悔い改めの必要性を見失わせることにあります。例えば、レーマンとレムエルは全てがニーファイのせいだと考え、「自分のせいではないのに、なぜ悔い改めなければならないのか?」と悔い改める必要性を認めませんでした。このように盲目になった人は「悔い改める必要性を認識する」という、悔い改めのプロセスの最初の一歩を踏み出すことさえできません。

以下の聖句でわがままな息子コリアントンに助言したことから分かるように、アルマは、言い訳がいかに私たちを悔い改めから遠ざけるかをよく理解していました。

「そもそも、あなたは憐れみが正義から奪えると思うのか。いや、少しも奪えない、とわたしは言おう。もし奪えるようであれば、神は神でなくなる」

「おお、わが子よ、あなたはこれからはもう、神の正義を否定しないようにしてもらいたい。神の正義を否定することによって、どんなささいなことでも罪の言い訳をしようとしてはならない。 むしろ、神の正義と憐れみと寛容があなたの心の中で存分に力を振るえるようにし、そのためにへりくだって地にひれ伏すことができるようにしなさい。」(アルマ書42:25、30参照)

これらの聖句から学べるように、言い訳をする人はニーホルの原則に沿って「正義を否定する」のであり、正義の律法は自分には適用されないと信じています。アルマは息子に無責任リストに習わないよう懇願していました。「どんなささいなことでも罪の言い訳をしようとしてはならない」と彼は息子に100%責任を持つように教えました。

神の正義を否定すること、あるいは私たちは罪の責任を負わないと言うことは、その罪の赦しにおける神の義認を否定することにもなります。「主は確かに主の民を贖うために来られるが、彼らを罪のあるまま贖うためではなく、彼らを罪から贖うために来られるのであると語った。」(ヒラマン書5:10参照)

主の正義を否定する二つの方法

サタンは、人が主の正義を否定する誘惑に屈すると、憐れみと正義の補完的な原則をうまく分断します。主の正義を否定することには、少なくとも二つの形があります。一つ目は、既に述べたように、コリホルとニーホルが提唱した、自分の罪に関する正義の律法を否定するというものです。同じくらい有害な二つ目の否定は、主の正義や、他の人の私たちに対する不当な行いに対処するという、主の知恵を信頼しないことです。

アレクサンドル・デュマの名作『モンテ・クリスト伯』を原作とした映画では、主人公のエドモン・ダンテスは正直で愛情深い男ですが、3人の貪欲な男が彼に不利な偽証をし、彼を反逆的な陰謀に陥れた後、苦々しく復讐心を抱くようになります。悪徳な検察官が共謀し、ダンテスは美しい婚約者メルセデスと結婚するまさにその日に逮捕されます。19歳の時、彼は無実の罪で悪名高いシャトー・ディフ島の刑務所で終身刑を言い渡されます。

長い孤独な独房暮らしの後、彼はついに別の囚人、高齢のアベ・ファリアと出会います。自由を求めていたファリアは、計算を誤り、壁の外と自由へではなく、エドモンの独房にトンネルを掘ってしまいました。彼らの独房がトンネルで繋がり、時間を持て余したことで、ファリアはダンテスに歴史、科学、哲学、言語を教え始め、彼を教養のある男に仕立て上げました。ファリアはまた、無人島モンテ・クリスト島に隠された莫大な財宝をダンテスに教え、万が一、彼が脱出できた場合にそれを見つける方法を教えます。

復讐がダンテスを食い尽くし、破壊する可能性があることを知っていたファリア神父は、彼が死ぬ前に最後の教訓をダンテスに教えます。その教訓とは、主の正義を否定しないことでした。

ファリア神父はこう言いました。「あなたが今服役している罪を犯してはなりません。神は『報復はわたしのすることである』とおっしゃいました。」

ダンテスは「私は神を信じていません。」と答えます。

するとファリア神父はこう言いました。「あなたが神を信じているかどうかは関係ありません。神があなたのことを信じておられるのです。」

ダンテスはまだ納得していません。ファリア神父の死後、ダンテスは神父の遺体と入れ替わるという巧妙な計画を考案し、ついにシャトー・ディフでの14年間の苦しみから逃れることができました。そして財宝を手に入れた後、彼は非常に裕福になり、モンテ・クリスト伯として新しい身分を得たのです。

その後、ダンテスは自分を陥れた悪人たちに、苦痛と長期にわたる罰を科す、手の込んだ復讐計画を立てました。それは不当に送り込まれた地下牢で、かろうじて生き延びた14年間の正当な報いでした。

ダンテスは正確に計画を実行し、それぞれの敵は、彼が緻密に考えた罰を受けることになりました。

私たちの中には、「モンテ・クリスト伯」の本を読んだり、映画を見たりすると、無実の人間に多くの苦痛を与えた残酷な謀略家たちに対して、正義が下されるのを見たいと願う何かがあります。私たち一人ひとりには、善が悪に打ち勝たなければならない、失われたものは取り戻さなければならない、傷ついた心は修復されなければならない、という公平さと願望があります。このようなことが起こるまで、私たちの心の中で和解し難い不公平な溝があり、私たちは悩み、前に進むのが難しくなります。

人々は、復讐を試みたり、怒りや恨みを正当化したり、法的措置を求めたりすることで、さまざまな方法でこの不公平なギャップを埋めようとします。私たちは最終的に、主の道こそが真の完全な和解への唯一の道であると気付くのです。

ダンテスの過ちは、必ずしもその国の法律に従って救済と正義を求め、罪を犯した者には適切な処罰を与え、よこしまな事実を明るみに出すことではなく、正義への欲求を憎しみ、怒り、自己憐憫、自己正当化、および無責任リストにあるその他の意味のない行動を行ったことです。ダンテスは本質的に敵の不道徳さのレベルまで堕ち、欺瞞、嘘、詐欺を用いて、彼らが自分にしたように、またファリア神父が預言したように、合法的な手続きの以外の方法で、彼らを陥れました。

敵を赦し、敵のために祈るという福音の律法ではなく、モーセの律法の目には目を、歯には歯をという原則に頼ることによって、ダンテスは不幸と苦渋という名の終身刑を自らに課したのです。他の人に対する主の正義を否定することで、彼は知らず知らずのうちに自分自身に対する主の憐れみを否定し、キリストがすでに彼のために受けた刑を自ら受けることを選びました。その結果、復讐を望まずとも手に入れることができたはずの幸福な人生を、彼は奪われてしまいました。

イエス・キリストを信じる信仰を持つとは、主の贖いの犠牲のおかげで、主がすべての不公平を正し、失われたすべてのものを回復し、心も含めて、壊れたすべてのものを修復してくださると信じることです。主は、どんな細部に至るまで放置することなく、すべてを正してくださるのです。「あなたがたは心の中で言うべきである。すなわち、『神がわたしとあなたの間を裁き、あなたの行いに応じてあなたに報いてくださるように』と。」(教義と聖約64:64-11参照)。

エドモン・ダンテスのように、多くの被害者は虐待事件など、明白な正義がもたらされないまま、残酷な傷を負ってしまいます。主が自分たちを傷つけた人を赦すようにと求めることは、彼らにとって不可能な事を要求しているように感じます。

そのような状況では赦すことは難しいかもしれませんが、人を赦さないことは長期的にに見ると、さらに困難です。何故なら、人を赦さないことは、人を無力にさせる無責任リストにその人自身を載せてしまうからです。

赦さないということは、非難、怒り、自己正当化、自己憐憫と同義語であり、これら全ては無責任リストに載っています。サタンがこれらのネガティブな感情を利用すると、人の人生を支配し始めるのです。

赦すのが最も難しいのは配偶者による虐待であり、それには苦悩、裏切りの痛み、残酷さが伴います。虐待のケースには興味深い共通したパターンがあります。それはニーファイを虐待したレーマンとレムエルがニーファイを責めたように、ほとんど常に加害者が被害者を責めるということです。

主はニーファイに、自分と家族を守るために、家族を兄弟たちと彼らの邪悪な意図から引き離すようにと警告されました(ニーファイ第二書5:1-7参照)。残酷な虐待を受けた女性が同様の啓示を受け、極端に虐待する夫と別れたと例えましょう。

虐待を受けた女性は、虐待が行われていた環境から解放されたとはいえ、持続的でエスカレートする残酷さに対して夫を赦すのは難しいと感じています。

彼が悔い改めていないように見えるときに、彼の残忍さを許すように彼女に求めるのは不公平に思えます。無実の彼女が苦しんでいるのに、罪を犯した彼が無罪放免に見えるのは公平ではないようです。正義なくして平和はあるでしょうか?

エドモン・ダンテスのように、虐待された妻が赦すことを学ぶまでは、彼女も神の正義と賢明に裁くという神の能力を否定し、信頼していません。

正義は永遠の律法であり、神の律法が破られると罰が与えます。(アルマ書42:13-24参照)。罪人は悔い改めないなら、その罰を受けなければなりません(モーサヤ書2:38-39; 教義と聖約19:17参照)。もし彼が悔い改めるなら、救い主は憐みの心を持って贖いを通して罰を身に受けられます、(アルマ書34:16参照)。7

もし元夫が悔い改めないなら、「これらの苦しみがいかにつらいか,あなたは知らない。いかに激しいか,あなたは知らない。まことに,いかに堪え難いか,あなたは知らない。」という罰を受けることになるでしょう(教義と聖約19:15参照)。妻は彼が本当に悔い改めるかどうかを知るでしょう。なぜなら、彼の償いには、謙虚に、そして誠実に彼女の赦しを乞い、償う努力が含まれているからです。

妻は正義の律法を理解しているかもしれませんが、今彼女が感じているのは正義の必要性です。ニール・A・マックスウェル長老は賢明にも次のように教えました。「神を信じる信仰には、神の目的とタイミングを信じる信仰も含まれています。神のスケジュールを拒んでいるうちは、神を完全に受け入れることはできません。」8 マックスウェル長老はまた、「福音は、目先の正義ではなく、究極的な正義を保証する」と仰いました。9 「見よ、わたしの目は彼らのすべての行いを見て知っている。そして、わたしは彼らすべてのために、ふさわしい時期における速やかな裁きを保留している。」(教義と聖約121:24参照)。

正義の律法と主のタイミングを信頼することで、妻はもう正義について心配する必要がなくなり、裁きを神の手に委ねることができます。「見よ、『〖人は打ってはならないし、裁いてもならない。裁きはわたしのすることである。報復もわたしのすることである。わたしが仕返しをする〗と、主が言われる』と、聖文は述べている。」(モルモン書8:20参照)。

ジェフリー・R・ホランド長老はこの有益な洞察を与えています。

公平かどうかは訊かないでください…自分の罪に関しては、私たちは正義を求めません。求めるのは憐れみであり、それこそが私たちが喜んで与えなければならないものです。

自分自身が、心底必要としているものを他の人に与えないという悲劇的な皮肉を、私たちは理解出来ますか?10

罪によって永久的なダメージを受けたり、長く苦しんだり、喪失したりした人は、人を赦し、正義を主に委ねるという、はるかに困難な挑戦に直面します。願わくば、預言者ジョセフ・スミスの教えの中に慰めを見いだしたいものです。「〘これらの不幸に〙何ができるというのでしょうか? 何もできません。「もし皆さんが忠実であり続けるならば、失ったものは復活のときにすべて元どおりにされるでしょう。」

虐待された女性が主に正義を委ねることができるようになるまで、彼女は怒りの感情を経験し続けるでしょう。これは加害者に対する否定的な献身の一形態であり、悪夢を繰り返し見ることになります。ジョージ・アルバート・スミス大管長はこれを「不適切な影響力を大事にする」と呼びました。12 夫が自分を深く傷つけたのに、なぜ妻は夫が自分の考えに取り憑いて被害者になり続けることを許すのでしょうか。彼女はもう十分に苦しんだのではないでしょうか?加害者を許さないことで、加害者は何度も何度も彼女を精神的に苦しめることができます。彼を許したからといって、彼が自由になるわけではありません。それは彼女を自由にすることなのです。

赦しを理解するには、赦しが何でないかを理解する必要があります。

  • 虐待する夫を赦したからといって、彼の残酷な行いが赦されたり、容認されるわけではありません。
  • 赦すことは、その残忍さを忘れることではありません。トラウマになるような記憶を消したりすることはできません。
  • 赦すことは、正義が否定されていることを意味するのではありません。なぜなら、憐みは正義から何も奪うことができないからです。
  • 赦すことは、彼が引き起こした傷を消し去るものではありませんが、傷を癒し、痛みを和らげることができます。
  • 赦すことは、彼を再び信頼し、彼女と子供たちを虐待するチャンスを彼に与えることではありません。赦すことは戒めですが、信頼は時間をかけて良い行動によって獲得され、証明されなければなりませんが、彼はそれを明らかに示していません。
  • 赦すことは、罪の赦しを意味するのではありません。心からの悔い改めに基づいて、主だけが行うことができます。

これらは、赦しが意味するものではありません。赦しとは生まれながらの人の衝動に屈した夫の愚かさを赦し、同時に夫が「聖なる御霊の勧め」(モーサヤ書3:19)に従うことを望むことです。赦しとは彼に再び虐待の機会を与えることを意味するのではなく、救いの計画において再びチャンスを与えることを意味します。

また妻が「私たちが罰せられるのは、罪のためではなく、罪によって罰せられるのだ。」13 と理解すれば、加害者が彼女に与えた一時的なダメージよりも、自分自身に与えた永遠のダメージの方がはるかに大きいことを認識することができます。そして、今でも彼の真の幸福と喜びは、彼の邪悪さの増加に反比例して減少します。なぜなら、「邪悪は決して幸福ではなかった」(アルマ書41:10)からです。彼は自分が置かれている悲しみに満ちた不安定な状況を哀れむべきです。

彼が霊的な流砂に沈んでいることを知れば、彼女の正義への願いは、すでに起こっていることだが、手遅れになる前に彼が悔い改めることを願うように変わるかもしれません。このことを理解すると、彼女は自分を虐待した人のために祈り始めるかもしれません。

彼女の心で起こるキリストのような変化は、赦すのを助け、彼女が切実に必要とする癒しをもたらします。救い主は、彼女の痛みを身をもってご存じなので、彼女を癒す方法を正確に知っておられます。

この虐待された妻のシナリオでは、虐待する夫と被害者の妻の2つの当事者がいて、どちらも神の助けを必要としています。アルマは、救い主が男性の罪と女性の苦悩、心痛、苦痛の両方のために苦しまれたことを教えています(アルマ書7:11-12; ルカによる福音書4:18参照)。

救い主の恵みと贖罪の癒しの力にあずかるために、救い主は両者から何かを求められます。

主の恵みを得るための夫の鍵は悔い改めです。夫が悔い改めなければ、主から赦されることはありません(教義と聖約19:15-17参照)。

妻が主の恵みにあるかり、癒されるための鍵は赦しです。妻が夫を赦せるまで、彼女は主が既に彼女に代わって苦しんでいた苦悩と痛みに耐えることを、自らを選択しているのです。赦さないことで、彼女は無意識に主の憐れみと癒しを否定しているのです。ある意味で、彼女はこの聖句を成就しています:

神であるわたしは,すべての人に代ってこれらの苦しみを負い.‌人々が悔い改めるならば苦しみを受けることのないようにした.‌.‌.‌

しかし、もしも悔い改めなければ(あるいは許さなければ)、彼らはわたしが苦しんだように必ず苦しむであろう。」(教義と聖約19:16-17)

結論

要約すれば、100%の責任を負うことは、自分の人生をコントロールしているのは自分自身であるということを受け入れることです。もし他者に落ち度があり、さらなる進歩を遂げる前に変わる必要があるのなら、あなたは他者のなすがままであり、他者があなたの人生におけるポジティブな結果や、望ましい結果をコントロールしていることになります。選択の自由と責任は切り離せない関係にあります。そして責任逃れをすれば、選択の自由を失うでしょう。慈悲と正義も切り離せません。主の憐れみを拒まずに、主の正義を否定することはできません。サタンはいかに相補的な原理を分裂させ、その結果生じる荒廃をあざ笑うのが好きなことでしょうか!

たとえ自分が正しいとしても、人生から反責任、または反信仰リストを排除するよう一人ひとりにお招きします。自分が正しいとしても、それは幸せと成功に反するリストです。神のようになろうとしている勇敢な息子や娘たちのためのリストではありません。それは人生を支配し、破壊するサタンの最も凶悪な道具の一つです。人が自分の生活からこれらのリストをなくす日こそ、ポジティブな結果をコントロールすることができるようになる日であり、光の中でますます前進し始めるのです(教義と聖約50:24参照)。

私はイエス・キリストの御名と、主の完全な福音が与えてくれる力と幸福について証します。主は命であり、世の光であられます。私が今日分かち合ったこれらの原則は主のものです。イエス・キリストの御名により証します、アーメン。

脚注

1.この方針に対する例外はある。

   a. 責任を負う年齢に達していない子供(モーサヤ書3:16-18参照; モーサヤ1書5:25;モロナイ書8:8; 教義と聖約29:46-47;68:27; 137:10)。

   B. 知的障害者(モロナイ書8:10参照;『手引き 第1部』「責任能力のない人」も参照)ステーク会長と監督[ソルトレイクシティ:末日聖徒イエス・キリスト教会、2010年]、16.3.5 [p. 144])。

   C. 律法や福音を受け入れる機会がない方々(2ニーファイ9:26; モーサヤ書3:11;モーサヤ書15:24; アルマ書42:21)。

2.16世紀初頭、教皇レオ10世とカトリック教会は、過去の罪を赦したり、死後に煉獄から解放したりする「免罪符」を販売しました。マルティン・ルターは、これを救いを売り込もうとする堕落した試みとみなし、1517年に「95ヶ条の論題」を執筆しヴィッテンベルク城の教会のドアに貼るよう促した。”Martin Luther and the 95 Theses,” History Channel, history.com/topics/martin-luther-and-the-95-theses 参照。

3.サミュエル・グラフトン(Samuel Grafton)は著したコラム「I’d Rather Be Right」(Edmund Fuller, Thesaurus of Quotations [New York: Crown Publishers, 1941], 272).エドワード・R・マローは、最後のニュース番組(1961年1月22日)で、ジョン・F・ケネディの就任演説に関する発言の中で、この引用に言及した。The Broadcasts of Edward R. Murrow, 1938–1961, ed. Edward Bliss Jr. [New York: Da Capo Press, 1997], 346)。

4.1993年4月、David B. Haight、General Authorityトレーニングミーティングに帰属。

5.アイリーン・ユーバンクス「結婚生活を自慢よりも優先する」「リアホナ」2008年1月号

6.IMDbのThe Count of Monte Cristo(2002)の引用imdb.com/title/tt0245844/quotes

7.「聖句ガイド」、s.v.「正義」と scriptures.lds.org

8.ニール・A・マクスウェル、That Ye May Believe(ソルトレイクシティ:ブッククラフト、1992年)、84ページ。

9.ニール・A・マクスウェル、Wherefore, Ye Must Press Forward (ソルトレークシティー: Deseret Book, 1977年), 116ページ.

10.ジェフリー・R・ホランド 主イエスの愛にただ驚く New Era, 2008年12月; オリジナル版も参照、ホランド, 主イエスの愛に,” Ensign, 1986年8月。

11.「歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス「(ソルトレーク・シティー:末日聖徒イエス・キリスト教会)、51ページ

12.ジョージ・アルバート・スミス(George Albert Smith, CR, 1905年10月28日)「歴代大管長の教え—ジョージ・アルバート・スミス」「(ソルトレークシティー: 末日聖徒イエス・キリスト教会、2011年), 252ページも参照。

13.エルバート・ハバード『エルバート・ハバードのノート』: モットー、エピグラム、短いエッセイ、パッセージ、オルペウスの格言と説教 (New York: W. H. Wise, 1927), 23

リン・G・ロビンズ

中央幹部七十人定員会会長会員のリン・G・ロビンズは、2017年8月22日にこのディボーショナルを行いました。